9 風の問わず語り

 期末テストも終わって校舎中が開放感に満ちあふれている午後十二時半、早苗は軽い足取りで渡り廊下を歩いていた。

 吹部の練習は一時からである。昼食に帰宅して再登校することもできたのだが、それでは時間がもったいない。お弁当をかき込んで、食休みもほどほどに音楽室へ急いでいると、気の早い何人かが音出しを始めているのが聞こえてくる。パーカスの一つ打ちの音も混じっているのに気づいて、ちょっとだけにやっとした。


 昨日はあれからさらに一時間ほど、猪阪家の客間に居着いてあーだこーだとおしゃべりを続けていた。輝未の秘密の思いが暴露されて後は、ことさら筋道だった話し合いにならなかったけれど、三人は――というより、早苗と輝未はずっと気安くなって、それまで言えなかったこと、言いそびれていたことのあれこれを交換しあい、少なくともお互いの距離はだいぶん縮められた雰囲気になっていた。

 輝未が早苗に仕掛けた謎のお仕置きは、一応お祓いのつもりの行動だったことも、その時に聞いた。猪阪家はご近所のお寺の縁戚ということもあって、なにかあったらぶったたいて「魔を祓う」みたいな行いは日常の中に溶け込んでいるのだとか。

 ――え、じゃあこの家っていつも家族同士でお尻を打ち合ったりとか!?

 ――ヘンな言い方やめてよ。まあ尻叩きは基本、悪さした子供にやるもんだけど。

 ――あたし、悪さはしてないよっ。

 ――邪気を祓うって意味だよ。椎路が自覚してるかどうかはともかく、なんか憑いてるかもって感じだったし、祓っとくに越したことはないって思ってさ。

 ――いや、でも、あの時って絶対恨みが入ってたよね!?

 ――恨みっていうかさ、ムカつきだよね。やたら先生に楯突いてるのもそうだけど、憑き物ぶら下げてふらふら歩いてんじゃねえって感じ? しっかりしろよ、お前、みたいな? だから一種の愛情。

 ――愛情はないでしょっ、むしろ反感だよね? 敵意だよね!?

 そんなこんなで一応わだかまりは解けた空気にはなった。でも、早苗自身に本当に何かが憑いてるのか、と突っ込んでみると、なぜか微妙な空気になって、輝未も光葉もはっきりしたことを言わなかった。

 あれだけ痛い思いをしたのに、そこで言葉を濁されると割に合わない。だいたい、早苗本人は何の自覚もないのだ。なのに、最後まで二人とも、何かを伝えようとして、言い出しかねているような雰囲気だった。あれは……なんだったんだろう?

 一つ収穫があったとすれば、例の十八年前の支部大会でピッコロソロを務めた三年生の確認が取れたことだろう。話の流れで、早苗がここまで調べたあれやこれやを大まかに話すと、二人は思いの外興味深そうに聞き入り、「マメシバみたいな眉のOB」に触れた途端、光葉が敏感に反応したのだ。津見倉章一、という名前だそうだ。疑惑の作曲家、津見倉峻の一人息子、その人に間違いない、とのこと。

 ――どうして光葉さんはそのことを?

 ――これはほんとはあんまり言っちゃいけないんだけど……近くにお墓があるでしょう? 時々いらっしゃるの。同じような顔の親子が別々に来るから、それで印象に残って。うちの部とつながりがあるって話は、ちらっとだけ伯父さん……住職に聞いたことがあって。

 ――え、そのお墓って、誰の……

 ――そこまではねえ。だいたいいつも、霊園に出入りするところしか見ないから。ただ、津見倉さんのご先祖のお墓は、あそこにはないはずなのよねぇ。

 それはつまり、不慮の死を遂げたフルートの女の子へ、欠かさず墓参に赴いている、ということだろうか? それとも、まさかとは思うけれど、殺した宋光春氏を密かに弔って?

 一度お寺に話を聞きに行きたい、と水を向けてみたけれど、昨今は個人情報との兼ね合いであまりそういうのは歓迎されない、と返されてしまい、がっかりした――。


「椎路さん」

 渡り廊下の端にたどりついたところで、背後から早苗を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、部長の真島叶絵かなえだった。何でしょう、と顔で尋ねると、「ちょっと話があるんだけど」とついてくるように促し、特別教室棟の一階の入り口脇に早苗を引っ張り込む。ぼちぼち集まり始めている部員が何人か、通りすがりに興味の目を二人に投げかけつつ、階段を上がっていった。

 人の流れが途切れるのを一旦待って、先に真島はため息をついた。なんだかあまり芳しい話ではなさそうだ。

「実は卒業生の方からいくつか声が寄せられてて。いずれも正式なものじゃないんだけど……椎路さん、あなた、〝呪い〟のこと、人に会ったりして色々調べてるみたいね?」

「と言いますと」

「久目さんの叔母さんとか」

 もうバレたのか、と内心で舌打ちする。あらかたあの叔母さん本人が、意図的に口を滑らせて回ったのではあるまいか。

「ええ、会いましたけど。まずかったですか?」

 どっちにしろ、今更な話である。やましいことをしているわけでなし、ここは開き直りたい気分だ。結果、早苗の声は多少トゲが入っていたかも知れない。真島は、まあまあ、と言うように手で抑える仕草をして、

「私個人は悪いことだとは思わない。外から来たんだし、納得できないことを調べたくなるのも当然だと思う。ただ……ここは田舎町だからね」

 少しだけ間が空いた。その一言で察しなさい、と言いたいのだろう。が、早苗はわざと物分りの悪い振りをすることにした。

「あの、その卒業生の方、お名前聞いてもよろしいですか? なんなら私から直接話をしに――」

「むちゃ言わないで!」

 即座にぴしゃりと真島が言い返す。珍しく声を荒らげ、けれどもすぐにきまり悪そうに顔を背ける。早苗は本気でOBの一人々々と議論でも何でもする覚悟でいたけれど、どうやらそういう空気ではないらしい。今度は早苗の方がため息をついて、

「分かりました。ただ、そう言われる以上は、せめてどんなクレームが来たのか、聞かせてもらいたいんですけど」

「いや、私もあまり詳しくは……」

 そのままじっと言葉を待つ構えの早苗に根負けしたのだろう、ややあってから真島は難しい顔で切り出した。

「実は……話があったっていうのは、本仙寺からで」

「はい?」

「椎路さん、昨日、猪阪さんの家を訪ねていったんだって? 多分、そのへんから話がねじれていったらしくて」

 そっちも話が広まってるのか、と愕然としてしまう。これが田舎町の怖さなのか。改めて早苗は楓谷の闇の深さを知った気分だった。

 一方で、真島叶絵は有能な部長だった。よくは知らないと言いながら、ひどく錯綜していた元の情報を、早苗にはとてもコンパクトに説明してくれた。

 察するに、昨日輝未の家に単身で赴いた早苗の姿を、この部の卒業生と思しき誰かが目撃して、勝手な思い違いをしたということらしい。あの娘がとうとう本仙寺にまでやってきた、と。

 輝未の家の数件先にある本仙寺には、光葉との話で聞き知った通り、津見倉親子が今も時々訪れる墓がある。この作曲家ファミリーが実際にどの墓を拝んでいるのかなど、詳らかに知られているわけではないけれど、〝呪い〟に関わる墓参を続けているのは間違いない、と、その卒業生も考えていたようだ。

 であれば、その墓所の平穏は守られなければならない、中学生の小娘に墓を暴かせるわけにはいかない、津見倉さんの神聖な墓参を汚して呪いを激化させるような真似は許されない、と、一足飛びにそこまで妄想が進んでしまい、思い余ったその卒業生は、警告がてら本仙寺に連絡を入れた、というわけだ。

 わずか半日で、かくも思い込みが暴走したという話に、早苗は呆然とした。

「いや……私、そもそもお寺に怒られるようなことなんて、まだ何も」

「本仙寺は怒ってないの。あそこの住職さんって、奥さんがここのOGで、しかも良識派の人でね。で、『興味本位の調査はお断りだけど、本人の態度いかんでは話を聞いてやれるかも知れないから、来るのならそのつもりでおいでなさい』だそうです」

「えっ? そうなんですか……そ、それは、でも、だったら、結果的にクレームなんか来てないってこと、ですよね?」

「まあ、それはそうなんだけど……椎路さん、あなた、立場分かってる? 卒業生にまで睨まれてたら、もうダメでしょ」

「なんでですか?」

「なんでって……」

「早苗っ」

 不意に階段の上から丸っこいシルエットがどかどかと転がり降りてきた。意外そうな目で猪阪輝未を仰ぐ真島を見て、早苗も気がついた。輝未の呼び方が、「椎路」から「早苗」になっているのだ。

 こっちは別の用件があったみたいだが、ちらっと真島の表情を見て、その場の話題を察したのだろう、ああ、という顔をして、輝未は軽く片手で早苗に拝んでみせた。

「墓に来るなとか勘違いされてる件だよね? ごめん、うちの近所にバカが何人かいるの、忘れてた。あっちはこれまた十一年前の『風追歌』の騒ぎを知ってる卒業生でさあ。多分悪気はないんだけど、余計な気を回しすぎるたちで」

「え、あ……うん」

「でもああいうのって、こっちからやり込めたりするとあとあと面倒だから。とりあえずは言うこと聞く振りしてた方がいいよ」

「でも」

「コンクールも近いんだし。それと、布施先生に余計な迷惑かけるのは、勘弁してってこと」

 牽制するような輝未の視線に、早苗は少しだけひるんだ。昨日熱い想いを聞いたばかりでもあるし、そう言われると弱い。それに、自分の考えを押し通して部や顧問に迷惑がかかるのは、確かに早苗の本意ではなかった。

「そういうことなら……分かった。ご迷惑かけました、部長」

「えっ!? あ、わ、わかってくれたんなら、いいけど……ええと、猪阪さんは、いつから椎路さんと、そんな分かりあえる間柄に――」

「いや、別に分かりあっちゃいないっすけど」

「でも、なんだか椎路さんのやってること、積極的に後押ししているような」

「んなわけないっしょ。んでも、こいつはこいつでやめろっつっても呪いを一から調べないと気が済まないらしいから……好きにやらせるしかねえっすよ」

 駄々っ子を前にして、仕方ないねえと達観している子守役の姐さんみたいな顔つきの輝未。一瞬、早苗の脳裏に昨日の帰り道での情景がプレイバックする。遅くなったから光葉が自動車で送ると言い出し(歩行に障害はあっても、自動車の運転はできる、とのことだった)、一旦は辞退したのだけど、確かに墓場を横にしての暗い道はさすがに不気味で、お言葉に甘えることにしたその車内で――。

 付いてきた輝未が、後部席の暗がりから早苗に聞いたのだ。そもそもなんで、あんたはそんなに意地になって呪いのこと調べてんのよ、と。

 何の気負いもなく、早苗は答えた。あたし「風追歌」好きだから。あれだけの曲が怪談みたいな噂とセットになってるの、許せないの。あの曲は誰からもパーフェクトに愛されてほしいの。それだけ。

 それから輝未はずっと黙ったままだったけれど、早苗が降りる時に、ふてくされたように、こう言ったのだ。だったら、あんたの好きにしたらいいよ、と。

 ――椎路は椎路の筋を通したらいいじゃん。ま、応援はしないけどね。

 一日前の輝未と今の輝未の言葉が爽やかにオーバーラップしたような気がして、少しだけ口元を緩める早苗。いつもと勝手が違う雰囲気に戸惑った真島は、冗談半分なのか、

「そ、そう。……あ、じゃあこれから椎路さんのことは、猪阪さんに一任するってことで」

「お断りっす」

 ばっさり斬ってから、そこで輝未は急に声を潜めた。

「その話はちょっと置いといてさ、早苗、あんた、今音楽室に行くのは止めた方がいい」

「え、どゆこと?」

「酒科と久目が……」

 中途半端に言葉を切って、背後を振り返る仕草をする輝未。曖昧な話に眉を一旦曇らせた早苗は、その時初めて、最前より三階の奥から流れてきている声に気づいた。歓声や笑い声ではない。何かを口汚く罵り合っているような……と、そこまで聞き取った瞬間、急にひどい胸騒ぎを感じて、考えるよりも先に階段を駆け上がってしまう。

「早苗! やめとけって!」

 背後で輝未が叫ぶのにも構わず、まっすぐ廊下を突っ走って、音楽室の扉に取り付く。開け放したままのそこから早苗が半身を突っ込ませると、その場にいた部員が一斉に振り返った。

 真ん中に、くっつきそうなほど顔を突き合わせている夏実と夢子。それを取り巻くように人の輪が二重三重に出来ていて、内側の何人かは諌めるように二人の肩や腕を取り押さえている。

 殴り合いにこそ発展しなかったようだが、相当派手な口ゲンカをやっていたことは即座に分かった。周囲の部員たちは、揃って気まずそうに表情を消し、夏実は嫌悪で顔を歪め、夢子は――夢子だけはまっすぐ顔を上げ、怒りにぎらついた瞳で早苗を睨みつけた。

「何……で……」

「あんたが」

 どかどかと足音を立てて、夢子が早苗に迫る。恐怖よりも戸惑いで思わず後退ると、夢子は早苗の両肩を掴み、火を吐くような罵声を浴びせかけてきた。

「勝手なことばかりやるから! やめろって言ったのに! あれほど何回も言ったのにっ!」

 何も言い返せないで固まっている早苗の反応に、一層いらっときたのだろう、夢子はひときわ激高した声で絶叫した。

「あんたのせいよ! 全部あんたのせいなんだからねっ!!」

 そのまま早苗の脇をかすめるようにして、荒々しく音楽室から出ていく。遠ざかっていく足音を、早苗はただ呆然とした面持ちで聞くばかりだった。

 残された面々は、しばらく重苦しい沈黙の中にいた。一人、夏実が「しゃあないやっちゃな」と口の中で呟くと、それを合図にしたように、三々五々散っていく。

 真島部長が現れた。突っ立ったままの早苗を認め、少し離れたところで佇んでいる夏実へ、不機嫌そうな顔で問いかける。

「いったい何ごと?」

 珍しく、夏実は歯切れが悪かった。気遣わしげにこちらの顔を見つめているのに気づいた早苗は、意を決して声を出した。

「いいよ、言って」

 自分でも意外なほど、弱々しい声だ。でも、聞かないわけにはいかない。

「夢子、何があったの?」

「……うちは、そんなもん、ここの部と絶対関係ないって言うたんやけど」

 そう切り出して、さらにしばらく口ごもる。最後は、自分の沈黙に耐えられなくなったかのように、夏実は声を絞り出した。

「今日の朝、夢子のとこのおじいちゃん、亡くなったって。昨日まで元気やったのに、て」


     ◆◆◆


 ニレの樹の根本で、早苗は楽器を抱いたまま、ただ座り込んでいた。

 そろそろ夕方に近い時刻だ。いつもなら全員で合奏に入っている時刻なのに、いつまで経っても連絡が来る様子はない。

 さすがに今日はそういう空気ではない、ということなんだろう。

 事件の中身は夏実と夢子の二人の口論であり、早苗を含めるにしても、二年生の部員同士の、ごく個人的ないさかいであるはずだったのだけれど、こと、内容が〝呪い〟に関わるだけに、真島としては部全体での話し合いを提案せざるを得なかった。こういう場合は、顧問がさっさと現れて一発お説教を食らわせればその場は収まりそうなものなのに、テスト明けで何かと忙しいのか、吾郎も真菜穂も練習の終わり近くでないと顔を出せないとのことだ。

 で、大至急部員だけで集まっての全体ミーティング、になるはずが――早苗一人だけ、早々に席を外すよう求められたのだ。

 ――ごめん、みんな椎路さんを爪弾きにするつもりはないんだけど……多分いても居心地悪いかも知れないし……

 申し訳なさそうにそう頼み込んでくる真島へ、早苗はただ黙って頷いてみせた。なんとなく、感情が麻痺してしまってるような感じだ。抗議する気分にも落ち込む気持ちにもなれなくて、いつもの場所の、このグラウンドの果ての木陰までやってきた。

 ――早苗、あんま本気で悩まんときや。あの子、要するに自分だけ除けもんになってたことに気づいて、腹立ててるだけやねん。

 夏実がそっと耳打ちしてきた言葉を思い出し、複雑な気分になる。おそらくは、部員たちにしろ夢子本人にしろ、夢子の祖父が亡くなったのは早苗が〝呪い〟の調査に精を出しているせい、などと本気で思っているわけではない。タイミングが悪かったのだ。たまたま、夏実が叔母の元へ早苗を連れて行った件が、ここ数日で明るみに出た。それを聞き及んだ夢子がむかっ腹を立てたところに、祖父の訃報が重なった。

 そのはず、なんだけど。

 なんでこんなにビクついた気分になるんだろう、と早苗は胸を押さえた。これは……怖いんだろうか? でも何に対して? まさか、私自身〝呪い〟を本気にしてるってこと? そのせいで夢子の祖父を死なせてしまったかも知れないって、自分でも疑って――

「吹かないの?」

 葉擦れの音に紛れて優しげな声を聞いた気がして、早苗は振り返った。ニレの樹を挟んだ数歩先に、スカイブルーのワンピースの女性が佇んでいた。土手一面の草が、ざざざ、と風に合わせて波のようなノイズを掻き鳴らす。

 いつの間に、なんて驚きは、もうない。むしろ、何となく現れそうな予感を感じていたほどだ。

「ちょっと今日は、そんな気分じゃ」

 女性が音もなく歩み寄って、座り込んでいる早苗の横に、そっと腰を下ろした。事情を尋ねようとする気配はない。雰囲気で察しているのか、あるいはすでに聞き及んでいるのか。

「色んなことが、あった」

 しばらく間を置いてから、ぽつりと女性が語り始めた。その目は夕日の赤みが差している遠くの山並みを眺めているようで、景色ではない、来し方の長い時間を振り返っているようにも見えた。

「十八年前。十一年前。七年前。色んなことがあった。たくさんのことが起きた。ずっと仲良しだった子も、最後までいがみ合う子もいた」

「……つまり、悔いのないように、早く仲直りしなさい、と?」

 ゆっくり頭を振る女性。

「全員でケンカしてても、音楽はちゃんと鳴る」

 あっけにとられて女性を見つめる早苗。何が言いたいのかわからない。返すべきセリフが解らずに黙り込んでいると、

「大嫌いな人同士でも、合奏はできる。合奏したら、みんな一緒。一つの音楽」

「ええと……それは……合奏を続けさえすれば、みんな仲良くなる……という?」

「そうじゃない」

「ええええ?」

 途方に暮れる早苗に、女性はふわりと笑って、ただ一言。

「吹いてごらん」

 今度は「そんな気分じゃない」とは言えない気がした。なんだかうまく言いくるめられたような感じを押し隠して、早苗は半ば開き直りつつ「風追歌」のソロを吹き鳴らしてみる。

 高揚感はない。躍動感もない。ヴィヴィッドに流麗に奏すべきパッセージなのに、妙に無感動な音になってしまってる。でも、それはそれで一つの表現になっているような気もした。

「ん、音は出るな」

 だしぬけに聞こえた背後からの声で、早苗は飛び上がって回れ右した。布施吾郎が気遣わしそうな目で、あごに手を当てながらこちらを見物している。

 そりゃ音は出ますよ、と言いかけ、そこまで深刻に心配してくれていたようなのに思い至り、つい返事が空回りする。

「えっ、いや……その」 

「鳴らせるんならいい。行くぞ」

「ど、どこに?」

「合奏に決まってるだろう。他のどこに行くっていうんだ」

 え、合奏するんですか、こんな空気の日に? そう問いたかったけれど、ただ口をパクパクさせることしか出来ない。困惑している早苗をちらりと見てから、吾郎は小さな声で、けれどもはっきりと言った。

「椎路。何も考えるな」

「……は?」

「色んなことがある。だが、それで音楽を止めていたら、そこでほんとに止まってしまう。それだけはするな」

 真島から報告を受けたのだろう。その上で、余計なことをあれこれ尋ねずに、最低限の言葉で済ませてくれるのはありがたい、と思う。それにしても、このセリフ、たった今のあの人の……あれ?

 横を見ても後ろを見ても、女性の姿はない。またか、と思いつつ、兄妹顔を合わせたくない何かがあるんだろうかと想像してみる。

「どうした?」

「いや、あの、今ここに」

「時間がない。急げ! 走れ!」

 そう言って自分からさっさと駆け出していく。それでなくても、早苗の胸の裡には、かねてから吾郎に問いただしたいことが山積しているのだけれど、とてもそんな話をする雰囲気ではない。

 そもそも吾郎は、楓谷の〝呪い〟のことを本心ではどう見てるんだろう?

 ああ、でも。こんなふうに「口下手」っぽい感じで束ねてくれる限り、なんだかみんな、呪いだとか怪異だとか言い合ってる場合じゃないって気分になれる。そうか、ケンカしてても音楽は鳴る……こういうことなんだろうか?

 音楽室にたどり着いた時は、胸の中にあった得体の知れない怖さが、だいぶん薄まっているような気がした。事実、その日の合奏練習は、一応滞りなく済ませることができたのだ。もっとも、早苗は息が切れてしまって、最初の二周りほどはほとんど音が出せなかったのだけど。


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