7 輝未の懐猜


 音楽準備室に足を踏み入れて真っ先にやったことは、明かりのスイッチを全部ONにすることだった。真っ昼間だし、外は一応晴れてるし、あまり意味はないのだけれど、少しでも怖さを減らしたかった。

 まず楽器ケースを棚に置く。それだけの動作も、おっかなびっくりだった。もうこのままダッシュで逃げ帰りたい、と何度も逡巡する。それでも、最後はやはり好奇心が勝った。今日帰ったら、調べごとなんてチャンスがないかも知れない。すべての始まり、十八年前の支部大会で、ほとんど飛び入りで楓谷中吹奏楽部を指揮し、結果を残した中学生って、誰? 呪いと関係があるの? 津見倉峻とのつながりは?

 意を決して奥の込み入った区画へと足を進め、改めて資料に手を伸ばす。昔のコンクールプログラムに挟まれていた古い写真。もう何度となくのぞき見た、支部大会の集合写真だ。

 確認はものの数分で済んだ。

 以前に見た時はそれほど注目していなかったけれど、楽器を持たずに真ん中にいるのが、例の飛び入り指揮者氏に違いない。いったいどんな面構えなんだと、目を近づけて凝視してみたものの、はにかんだように顔を伏せていて、人相がはっきりしなかった。

 あえて言えば、普通の生徒っぽい。少なくとも、呪いの起点になったとか、そんな人物には見えない。どこかで見たことがある顔のような気もするけれど、それを言い出したら、その写真に載っている部員それぞれ、何かしら見覚えのある人に見えてくる。端っこのクラリネットの女生徒も、例の右上の枠に入ってる故人のはずの一年生まで。

 結局、何も新しいことはわからない。ちょっとがっかりして写真から目を離しかけた早苗は、中央付近の人影に、ん? と目の焦点を合わせ直した。正体不明の指揮者の隣に、フルートを持った少年がいる。どうやらこれが例の、県まで指揮を務めていて、支部でフルートに出戻ったという部員に間違いない。

 まさか、という思いだった。堂々と真正面を向いているその顔には、ものすごくわかりやすい特徴があった。眉だ。目から離れ気味で、くっきり太くて丸みを帯びた、柴犬のような眉。

 津見倉峻の目周りの造作に、瓜二つだったのだ。

「う……そ……」

 十八年前。作曲家津見倉峻は、楓谷の住宅地で暮らしていたという。家族がいたのなら、その子供はやはりこの近辺の学校に通っていただろう。

(まさかこの人……津見倉峻の息子さん?)

 これはどういうことなんだろう? 有名作曲家と黒い因縁が出来かけていた疑惑の吹奏楽部に、本人の息子が在籍していた? よくわからないけど、何にしても名前の確認が必要だ。この時代の部員名簿等は残っていないと聞く。だったら……

 と、珍しく真剣に考え事をしながら帰り支度をしていたせいだろうか、直前まで気づかなかった。入り組んだ奥の区画から楽器置き場に戻ったところで、異様な気配をまとった何かが、横あいから襲いかかってきたことに。

「!!」

 一瞬で視界が真っ暗になった。何かが全身にまとわりついたと思ったら、重たい衝撃が来て、上下の感覚が一瞬消える。気がついたら、なにものかから圧迫気味に床に押し倒されてて、ただじたばたともがいていた。闇のスライムに捕食されてる!? なんて妄想が一瞬頭をよぎったけれど、どうやら相手は人間だ。誰かが早苗に毛布らしきものを被せて、ただ押さえつけているだけらしい。

「ちょっ……何っ!?……は、放し……」

 なんとか声が出せるようになって、大声を出そうと息を吸い込んだその瞬間、わずかに毛布がまくれあがり、隙間から何かが差し込まれて、早苗の顔の辺りめがけて液体が噴射された。

「!? っ! 〜〜〜っ! *■▼≒??!」

 思いもよらない攻撃に、早苗は激しく混乱した。液体は別に刺激性でもなく、味もなく、どうやらただの水のようで、しかもすぐに毛布を閉じたから、かなりの量が生地に吸われてしまった。麻酔薬を噴霧したわけでなし、水責めにしたかったようでもなし、何がしたいのかわからない。意味不明だけに、早苗はゾッとした。この人、頭は正常? いや、それ以前に、この相手って、ほんとに人間……

 これから何をされるんだろう、とおののいていると、でもなぜか敵方はそれ以上手を加えることはせず、ただ重みをかけて早苗の動きを封じたまま、動かない。何かを待っているような、あるいは経過を観察しているような気配だ。いいかげん息が苦しい。話し声らしいものは全然聞こえないけれど、いったい何人がかりで押さえつけているのか、のしかかってくる重量が普通じゃない。横倒しのまま圧迫されてるから、右腕が下敷きになってて、このままだとすじを痛めそうだ。たまらなくなって早苗はうめき声を上げた。

「いた、いっ、腕が、ねじれるっ……ちょっ、どいてっ、手首……折れるっ、ユーフォ、吹けなくなる!」

 その声にひるんだのか、圧迫感が少し緩んだ。ふと早苗は、相手はやっぱり部員の誰かなんじゃないかと直感した。少なくとも、日本語は通じるようだ。だったら、と遠慮も捨ててあけすけなクレームをそのままぶつけてみる。

「重いっ、重たすぎるっ、つぶれる! ……少しは考えなさいよっ、一人で充分でしょっ、何人乗っかったら気が済むのよ!」

 今度は重みは減らなかった。むしろ、急に空気が張り詰めたような気がして、あれ? と早苗は動きを止める。気の回し過ぎだろうか、なんだか今の一言で、相手が思い切り青筋立てたような。

 いきなり体を転がされて、今度はうつ伏せの形で床に押し付けられる。え? え? と泡を食っていると、ずんっと背中の真ん中にひときわスゴい重量がのしかかってきて完全に身動きできなくなってしまう。

 がばっと下半分の毛布だけ引き剥がされたのがわかる。ナニするの!? とパニックしてると、バシン、バシン、バシンといきなり猛烈な衝撃が腰に来た。思わず悲鳴をあげようとするも、棒みたいなものでヒップをめった打ちにされてるらしく、まとまった声が出せない。いたいいたいいたいいたいっ、と全身で叫びたいのに、ぎぇっ、とか、あひぇ、とか、ふばっ、とか、空気が抜けるような情けない声だけが、意志と関係なしに口から漏れる。

 なんなの、これ!? と激しく動揺する頭の片隅で、冷静な脳細胞が合いの手を入れる。何って、お尻ペンペンじゃん。

 なんでそんなことをっ!? 取り乱して問いかける脳幹に、やはり能天気な声が答える。えー、そりゃつまり、イジメとか、リンチとか?

 予想だにしなかった災厄に身悶えしつつも、辛うじて理解する。少なくともこれは〝呪い〟じゃない。そういうものではないのは確かだ。

 でもイタい!

 猛烈に痛い!

「も、もう、やめ、てぇ……!」

 やっとのことでそう訴えても、謎の乱暴狼藉はしばらく止まらなかった。絶対五十発以上は叩いてるっ、と涙をにじませながら歯を食いしばっていると、ふっと乱打が止まった。直後に重みが消えて、ドカドカと床が揺れまくったと思ったら、急速に足音が遠ざかっていく。遠くで階段がバタバタ音を立てるのを最後に、再び何の物音もしなくなった。

 満足して帰ったのか、急に我に返って気まずくなったのか。

 早苗は動けなかった。上半身に被せられたままの毛布もそのまんまで、汗まみれの体をじっと床の上に横たえたままだった。

 多分三分の一は痛みからで、三分の一は精神的なショックから。

 でも、もう三分の一は、怒りのせいだ。

 人は、恫喝されるとひるむ。さらに乱暴されたら恐怖する。けれど、さらに一段上の暴力に晒されたら? そう、怒るのだ。

 なんで私がこんな目にっ!? と。

 ようようにして早苗は毛布を跳ね飛ばし、よたつきながら立ち上がった。瞳には紅蓮の炎が燃え盛っていた。少なくともその瞬間、早苗の心から〝呪い〟への恐怖は完全に消えていた。

 呪いの時がもうすぐ来るぞ、などと、虚空から警句を発する闇の声など、なんぼのものか。声は尻を連打したりはしない。尻叩きを伴わない怪異など、恐るるに足らず。仮に今、窓辺から腐乱死体がむき出しの歯で笑いかけてきたとしても、早苗はその殺意に溢れた視線で瞬時に滅殺しただろう。


 二本の手でかわりばんこにお尻をさすりさすり、とぼとぼと階段を降りていると、前方から吾郎が上がってきたのが見えた。戸締まりの確認に来たのか。

「なんだ椎路、まだいたのか。いったいいつまで練習してたんだ?」

 怒ってるふうではなく、軽く冷やかすような口ぶりだ。ついジト目で顧問を睨んでしまう。教え子がろくでもない苦難に見舞われていたというのに、そのお気楽ぶりはなんだっ、と、口を極めて糾弾したい気分だった。

 かと言って、さっきの経緯を洗いざらい報告するのも、ためらわれる。下手すると、暴行事件とかってことで、部活停止になるんでは?

「ど、どうした?」

「いえ、なんでも。……あ、そう言えば先生」

「ん?」

「妹さんによろしくお伝えください。椎路はしっかりリクエストにお応えしました、と」

「え…………」

 なぜだか絶句している吾郎。いちいち説明する気力も出てこなかったので、すれ違いざまに言い捨てておく。

「原西先輩の件。そう言えば分かるでしょ。……明日、ペットの音聞いたら、ぴっくりしますよ。ふっ」

 自分でも、思いっきり唇がシニカルに歪んでるのを自覚する早苗だった。


     ◆◆◆


 帰宅して遅い昼食を取った後、早苗は再び家を出た。ぶっ叩かれた部位の腫れ具合は、イスに座れないほどじゃないけれど、歩き回ってる方がマシなのは確かだ。

 だから、目的地にも自転車を使わず、徒歩で向かった。幸いにして距離は二キロもないようだ。

 夏実か夢子に声をかけておこうか、とも思ったけれど、どうかすると必要以上の騒ぎになるかも知れないし、ここは一人で対処しようと思った。というか、あの二人に事情を説明などしたら最後、大喜びで早苗の腫れ上がったお尻をぺしぺし叩きまくるに違いない。

 部室を出る間際に部員名簿で確認したその住所は、立派なお寺の近所だった。すぐ目の前に墓地もある。霊園と呼べる程度には整備された区画だが、早苗の用件が用件だけに、さっきのアレはこういう環境で生まれ育った人間だからなのかな、などと邪推の一つもしたくなった。

 まあまあ立派な瓦葺きの、伝統的な造りの一戸建て。きちんと同色の瓦屋根も構えた立派な門の前に立つと、さすがに気後れする。インターホンを押し、よそ行きの顔で用向きを伝えると、家の中でしばらくやりとりがあって、じきに玄関から本人が現れた。

 猪阪いのさか輝未てるみは怯えた様子こそ見せなかったものの、明らかに腰が引けていた。きれいに丹精された庭木の間になだらかに伸びている小道を下りてくるまで、「ダースベイダー登場のテーマ」フルフレーズ分ほどの時間がかかった。傍目にも分かるほど警戒心を漂わせ、一方でなんだかふてくされたような表情も浮かべている。

「……何の用よ」

「ごまかしきれるとは思ってないんでしょ? さっさと本題に入ろうよ」

「……何言ってるのか分からない。用がないんなら帰ってよ。テスト中なのに」

「正直、最初は何人がかりで襲われてるのか判らなかった。三、四人ぐらいいるのかなって」

 黙り込んで、いくらか上目遣いに早苗を睨む輝未。あちらの方が階段一段分位置が高いのに。

「……だから、あれって絶対当てつけで言ったんじゃないから。でも、バックれる時の足音は、どう聞いても一人分だった。そりゃ猪阪さんだって言い切る証拠はないけどさ。あの被せてきたやつ、パーカスの運搬用に使う毛布だったし。あんなの持ち出してくる部員ってことは……あ、一応水は払っといてゴングのフレームのとこに干しといたから」

「あ、それは、ありが……い、いや、言ってること意味不明なんだけどっ」

 あくまで白を切るつもりらしい。あるいはそういうことにしてくれと懇願しているつもりなのか。ちょっとため息をついて、早苗は声を落とし気味にしてみた。

「あのさ。あたし、別に謝れとか言いに来たんじゃないから。すごく痛かったけど。ていうか、今も痛いんだけど。話をしたいの。説明がほしいだけ。なんで闇討ちみたいなことしたの? あたしの何が気に入らないの? 責めてるんじゃないから。ムカつくぐらい痛いけど」

「な、なにっ、その言い方! たかが二十発程度でねちねちうるさいっ」

「嘘だっ、五十発はいってた!」

「そんなにつわけないでしょう! スカートの上から力半分で叩いたぐらいでぎゃあぎゃあと!」

「力いっぱい五十発叩いてたぁ!」

「私が全力で五十回もぶってたら、あんたまだ準備室で寝転がったままうんうん唸ってるよ! 昭和の頃はこんな体罰でも身障者になった人だっていたんだからね! 尻叩きナメんな!」

「つまり、認めるんだ?」

 うっ、と言葉に詰まって、輝未がくるっと後ろを向く。畳み掛けるように、早苗が質問を背中に浴びせかける。

「いきなり水ふっかけたり痛いことしたり、まさか、悪魔祓いとかやってたわけ? 〝呪い〟絡みだよね、これって? 猪阪さん、はっきり訊くけど、あたしを何だと思ってるの? それか、あたしが〝呪いの芯〟だって話、信じてるの? 別にどう思われたっていいんだけど――」

「あんた、無神経すぎるんだよ!」

 いきなり振り向きざまに輝未が怒鳴った。ひるんだ早苗へ、じりっと近づきながら、溜め込んでいたらしい言葉を次々に投げつけてくる。

「いったい何考えてんの? みんな慎重に行動してるのに、一人で部の中引っ掻き回すようなことばかりしてさ! ってか、あんた〝呪い〟ってものが分かってない! なんで分かんないの? いちいち説明しなくたって、周り見たら――」

「ピカ。いいかげんにしときなさい」

 不意に投げかけられた声で、早苗と輝未は揃って玄関の方向を見た。かつ、かつと杖の音を立てながら、若い女性がスロープを下りてきているところだった。母親ではないようだが、はっきりと社会人と呼べそうな容貌で、たぶん二十歳は過ぎている。

「その子が椎路さん? ちゃんと上がってもらいなさい。あんた、どうせ何か思いつめて、失礼なことしたんでしょう?」

「え……あの」

 戸惑ったように輝未と女性を見比べる早苗。女性は右足が少し不自由なのか、なんだか本格的な、F字型で上端部が腕輪のようになっているフォルムの金属製の杖で半身を支えている。その口元がふわりとほころんだ。

「妹がお世話になってます。姉の光葉みつよです」

「あ、お邪魔してます! 椎路です!」

「このたびはうちの輝未がとんだことを」

「ちょっと、なんで姉ちゃんがそういうこと! あと、勝手に決めつけないでよ!」

 仏頂面の輝未が横から噛み付く。とたんに、愛想のいい笑みを浮かべていた光葉が苦々しい顔になった。

「何。何もやってないって言い張るの? 私の前で言い張る気?」

「いや、それは……でも、こ、これは私らの問題でっ。何も姉ちゃんが首突っ込んでこなくたってっ」

「私だから言えることもあるの。あんたが何したかはともかく、その責任の一端は、私にもある」

「まだそんなこと言って! やめなよ、そういうの!」

「やめない。ここまで来てくれたのに、そのまま帰すわけにいかないでしょ」

 なんだか妙な雲行きになってきた姉妹を、早苗は混乱気味に眺めるばかりだった。ちらっと早苗に目をやった輝未が、わざとらしくため息をつく。

「あ、もう、好きにして。椎路、ちょうどいいから姉ちゃんからたっぷり話を聞いときな。聞きたかったんでしょ?」

「え、あの……」

 なおも戸惑った顔の早苗に、少しだけ皮肉っぽく口の端を曲げ、投げやりに輝未が言った。

「この際、じっくりと楓谷の〝呪い〟ってものを教えてもらったらいい。言いたかないけど、うちの姉ちゃんなら思いっきり適任だからさ。七年前に『風追歌』やったOGだし」

 なんだかひどく失礼なことを言ってるようなのに、光葉の方は淡く苦笑を浮かべただけだった。不意に言葉の意味がつかめた気がして、早苗は目を見開いた。

「……それってまさか」

「そう。前の代で〝呪いの芯〟だったの、うちの姉ちゃんだよ。……あの足、呪いのせいでああなったんだから」


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