1 早苗の疑懼
音が
音楽室は夢色の輝きでいっぱいだった。部員四十三人分の音が、絡み、うねり、輝き、笑いさざめいている。夏風の中を力いっぱい駆け抜けてるような疾走感。突っ切っているのは大草原だろうか、大海原だろうか?
次第に高まっていく響きの中で、
そして、
「やめやめ! 合ってない! 全然進歩がない! 今日一日何やってたんだ!?」
ばしばしと指揮棒を譜面台に叩きつけながら、顧問の布施吾郎が叫んだ。せっかくの流れを中断されてちょっと不満そうな吹奏楽部員達に向けて、矢継ぎ早に叱責が飛ばされる。
「Jの七小節目からのピッコロ、指が回ってないぞ! グロッケンにおんぶにだっこでどうする! Kの頭、
曲は、夏のコンクールで自由曲に選んでいる「吹奏楽のための
一人だけ我関せずといった顔で聞き流していた早苗が、唐突に名指しを受けて、思わず顔を上げた。
「椎路! Iの後半、クラと合ってない! まるでちぐはぐだ!」
「どこがですか?」
つい口答えが出た。それまで誰一人反論などしていなかったので、一瞬音楽室の空気が強ばる。布施は特にいらだった様子も見せず、冷めた視線で早苗を見つめた。
「フレーズとかアクセントとか……全部。とにかく、クラリネットちゃんと聞いて、合わせて」
「何それ。もっと具体的に言ってくれないと、直せません」
「……じゃあ、Iの十二小節目から。ユーフォとクラだけで」
やれやれ、また始まったよ、という雰囲気の中で、二楽器だけの分奏が始まった。しばらく流してから、布施が指揮棒を止める。
「な?」
「『な』って……注意を受けるほど合ってないようには聞こえませんけど」
「分からんのか?」
「分かりません!」
だんだんと吠えるような声になってくる早苗。周囲の三年生達が、気遣わしげに早苗と布施を見比べる。離れた木管や打楽器の部員達は苦笑を浮かべて頷き合っていたが。
「とにかく今のままじゃ合ってないから……もう少し意識して」
「ちょっと、そんなこと言われても――」
「Dから全員で。最後まで通す」
置いてきぼりにするように、合奏が再開される。文句の途中だった早苗は十小節ほどストライキしてから、不承々々と言った感じで楽器を構え直した。少なくともその後の練習は、吹いていても何の高揚感も感じられなかった。
◆◆◆
「もうせっかくいい感じだったのにっ! 必要以上につつき過ぎだって、ゴローの奴。そのくせ、言ってることはぼけてるんだから!」
「あんたが突っかかり過ぎやん。何もそうむきにならんでもええのに」
夏実がぼそりと言った。関西出身でもないのに、それっぽい訛を交えてズケズケものを言うことで変な人気を獲得している部員だ。信州に近い
「授業中はそうでもないのに、なんで部活はそんなに斜に構えてるん?」
「構えてない! 疑問を素直に口にしてるだけだってのに!」
「素直っちゅうんか、そう言うのを?」
「甘えてるんだよね、ゴロちゃんに」
訳知り顔で夢子が頷く。目が妙にぱっちりしていてお人形さん顔なのに、独特のミドルテンポでまったりと棘っぽいコメントを口にするキャラだ。
「初日からやり合った仲だしさあ、ほら、あれよ、カルガモの赤ちゃんって、生まれて最初に見た物を親だと思ってくっついていくって」
「なるほど」
「違うっ、納得するな! 何それ、みんなして私をそんな風に見てるわけ!?」
「そうとでも解釈せんと、そうそういつも好意的になれへんって。あんた、真島さんが練習妨害やってぼやいてるの、知ってるやろ?」
クラリネット主席の部長の名前で、早苗の眉がにわかに曇る。
「新入りやからって大目に見てもらえるのも、そろそろ期限切れやん。正直、あのセンセもよう耐えとるわ。こんな娘に」
早苗はこの四月に転校してきたばかりだ。前の中学は近隣県の中規模都市にあって、所属クラブは割合レベルが高かった。それなりに吹奏楽に打ち込んでいた早苗は、楓谷が昔からの有名校と聞いて大いに期待したのだけれど、何しろ田園地域で気風も勝手も違う。さらに現実の楓谷はここ数年落ち目で、顧問も新任の布施に入れ替わったばかり。なんとなく不安を感じてしまったのも無理はなかった。
とはいえ、早苗だって最初から布施と全面戦争をやりあうつもりなんてなかったのだ。
二人が対面したのは始業式の四日前。正式な転入手続きを待ちきれずに部活への参加を申し出た早苗を、部員たちは歓迎したし、布施も丁寧に応対した。布施自身、仮の就任期間といった状態で、部員たちとも敬語を使い合っていたほどだった。桜が開き出す新スタートの雰囲気の中で、それは、ある種微笑ましい光景とも呼べただろう。
しかし布施と対面して一時間後、すでに早苗と顧問の間には、どうしようもないほどの断絶ができていた。
ある意味、不幸な出会いだったのだ。布施は専門が
後で明らかになったことながら、布施はもともと直感的で、授業でも音楽でも杓子定規なやり方を嫌う性格だった。
けれども、早苗からすると、自分より楽器のことを知らず、音楽のことを知らない(ように見える)先生を敬うことなんてできない。つい初日から角突き合わせる物言いになってしまって、何となくそれが早苗のトレードマークになりつつある。
「いいかげん、ただのすれ違いやて分かってきてるんやろから、あんたも先生に歩み寄らんと」
「だって、そりゃ言ってることは間違ってないけど、指導が薄っぺらすぎ。問題指摘するだけで、練習方法は自分達で考えろ、でしょ? ほんとは吹奏楽のこと、知らないんじゃないの、あの人?」
一度植え付けられた不信感をなかなか払拭はできない早苗である。
「そうかな。要所々々はそれなりに締めてるやん。案外、実績がないだけで、そこそこデキる人なんとちゃう?」
「だったらなおさらだって。手抜きしてるだけじゃない。どこかぬるいって言うか」
早苗の前の部は、練習も合奏もかなりびしっと決まりごとで固めるタイプで、よくも悪くもムダがない方針。が、どうも布施はそういう指導法に批判的らしく、そういうところでも早苗の不満のタネは尽きない。
「んなことないやろ。『急に厳しくなった~』言うて悲鳴上げてる先輩も多いで。まあ、うちはこれぐらいでちょうどええけど」
「ほら、早苗って、〝ゴロちゃん以前〟を知らないから」
再び訳知り顔で夢子が頷く。
「この三月までの顧問って、それはそれはひどかったんだから。無能なくせにやたら指揮者ぶってさー。転勤するって聞いて、先輩もみんな泣いて喜んでたよ。『ようやく楓谷に春が来た』って」
「あー、そやそや。あれを知らんっちゅうのは大きいわ」
「そういう低レベルな比較で、みんなしてゴローを支持するわけ?」
渋い顔で額にしわを寄せる早苗に、夏実が薄く笑いかけた。
「まあ名門校から転校してきた身としては、多少の物足りなさもあるやろうけど……ぶっちゃけ、出てくる音楽のレベル、そんなに違うか、うちとあんたの前のガッコと?」
「……いや、技術的には、そんなに。……多分雰囲気の問題かと」
ちょっと意外ではあるが、実際に音源を聴き比べると、今の楓谷でも以前の部とそう差はないのだ。その点をゴリ押しするほど、早苗も意固地になってはいなかった。
「要するに、あのおっさんの口下手が歯がゆいだけなんやろ?」
布施の「口下手」については、実のところ、議論が割れている。ただ、事細かに指示を与えず、詳細はめいめいの自主性に任せっきりになっているところが、時として「口下手」と見られているのは確かだ。けれども、大体においてそれも好意的なもので、ネガティブに罵っているのは早苗ぐらいなものだったりする。
「パーフェクトを望みすぎなんとちゃう? ええやん、ちょっとぬるい感じの方が」
「やっぱり甘えたいんだよね、ゴロちゃんに」
「違うって! 口先だけの問題じゃない! だってさ――」
業を煮やした早苗が、一度大きく息を吸い込んだ。きっと二人を振り返り、強い口調でその疑問をその場に放り出す。
「二人とも平気なわけ!? わざわざあんな曲を選ぶような顧問を!」
少しだけ、確かめるような間が空いた。路面に目を落としながら、夢子が尋ねた。
「あんな曲って、『風追歌』? 嫌いなの、早苗?」
「嫌いじゃないよ。いい曲だと思うよ。けど……みんな知ってるんでしょ? あの曲、演奏したら必ず部員の誰かが――」
「早苗」
こちらへ顔を向けた夢子が、打って変わって無表情に、じいっと目を合わせてきている。思わず背中がぞくりとして、早苗はその場に固まってしまった。
「そのことは、口にしちゃだめ。誰にも、絶対に。約束して。いい?」
「で、でも……どうしてみんな……」
「約束して」
視線をわずかに動かすと、さっきまでざっくばらんに喋り散らしていた夏実まで、口をつぐんだまま早苗を見つめている。その目は暗黙のうちに、同じ誓約を早苗に迫っていた。
夕風の中で、早苗はただ小さく頷くことしかできなかった。
◆◆◆
早苗がその噂を聞いたのは、二週間ほど前の音楽準備室。実質吹奏楽部のための楽器庫になっている、天井までの棚と細い通路が入り組んだ古びた部屋だった。
早めに部室に来てしまったものの、寸暇を惜しんでウォームアップを始める気にもなれず、何となく準備室でぼーっとしていると、迷路の奥に面白い区画を見つけた。楽譜や記録文書が新旧取り混ぜて並んでいるスペースだ。気持ちの赴くままに、手作りらしい昔の写真帳を眺めたり、書き込みや落書きだらけの古びたコピー譜に笑い声を上げたりした。
改めて楓谷の歴史の厚みに感心していると、黄色い声がいくつもハモって、何人かの部員がやってきた。木管の三年生グループのようだ。誰も奥で油を売っている早苗には気づかない。咎められはしないだろうけれど、とりあえずじっとやり過ごすことにした。すると、少女達がぼそぼそと奇妙な話を始めたのだ。
「あの曲やる以上は、今年は支部大会間違いないよねー?」
「んー、〝言い伝え〟の通りだったらねえ。でもほんとかな。……前の時ってやっぱり支部まで行ったの?」
「過去三回とも、県で金賞、支部で銀賞。さすがに全国大会までは届かなかったって」
「でもすごいよ、それって。うちの部にしか楽譜がないんでしょ?」
「らしい。ほとんど最終兵器だわ。そんだけ御利益があるんなら、毎年やればいいのに」
「バカ。毎年祟られてどうすんのよ」
「あ、そうか……」
しばらく間が空く。四、五人はいるはずなのに、ただかちゃかちゃと楽器の組み立てる音だけが、ばつの悪そうな空気の中に響いている。一人が乾いた声でつぶやいた。
「誰も死ななきゃいいけど」
「! ちょっと! やめてよ、そんな……」
「でも、ほんとに死んだんでしょ? その、二十年前だかの」
「う、うん……けど、その次からは大けがで済んでるんだしさ……」
「大けがでもヤだよ」
「……なんか、すっごく悪いことしてる意識があるのって、気のせい?」
「コンクールの成績と引き替えだもん。でも、だからって今さら曲を変更するの?」
「それはやだ。金賞取りたい」
「あたしも」
「けど、犠牲になる子って、かわいそう」
「あんたかも知んないじゃん」
「あんただってそうでしょ」
「……いわゆるロシアンルーレットってやつ?」
「かもね。みんなそれ分かってて、吾郎に反対しなかったんだから、すごいね、あたし達」
虚ろな笑い声。それから部長の真島の呼び声がして、少女達は準備室から出ていった。
早苗はしばらく動けなかった。
気がついたときは、手が書類棚に伸びていた。二十年前のコンクールの資料を調べ、その前後の年を確認。求めるものは十八年前の記録にあった。「吹奏楽のための風追歌」。地区大会、県大会と支部大会のプログラムに、その曲名と楓谷中学の名前がセットで並んでいる。
そして……そこまで調べるつもりはなかったのに、早苗は見てしまった。支部大会の時のものだろうか、楽器を持った部員達の集合写真の、その右上方。
写真屋に特別な注文をしたに違いない。別枠で、一人の少女の半身が掲げられていたのだ。まるで遺影のように。
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