03_58D 牧者の孫

 ポレシャから北上して徒歩で二日。東西に延びる街道は、アルゴーの道と呼ばれていた。穏やかに起伏が連なる平野に一見、長閑な田園風景が続いているが、街道から遠目にぽつぽつと見かける農場は、やはり賊や変異獣の襲撃に備えて二重の囲いを連ねたり、頑丈な壁の家屋には、二階まで幾つもの分厚い鎧戸が備えられている。


 アルゴー街道の付近は、強大な軍閥と曠野に冠を戴く略奪者らの王らレイダーキングスの勢力圏の狭間であった。軍閥の統治領域に近い分、治安が安定しているように思えるかも知れないが、実際には錯覚でしかない。各勢力の圏外にある不毛の地として略奪者レイダー徒党クランすら縄張りとしていない勢力の空白地は、怪物や屍者、変異獣が一帯を彷徨い、逸れ者や流れ者、追放者などが流れ着く無法地帯でしかなかった。


 枯れた大地の僅かに農業に適した土地に、開拓民が築いた砦めいた家屋が点在しているも、外敵の襲撃に破られたか、投資が見合わずに捨てられたか。遠い昔に住人が消えうせ、狐狸の棲み処と化している廃墟や遺棄された入植地セトゥルメントも珍しくない。住人はどこに消えたのか。今は耕す者もいなくなった畑に無人の風車が空しく風に廻り続けていた。


 街道沿いに散見する僅かな集落や農場が今も孤塁を守っているが、しかし、それらも常に無法者や蛮人、或いは屍者や怪物らに脅かされている。頑丈な防壁を備え、警備兵ガードに守られた町や宿駅ウェイステーションの安全な寝床など、アルゴーの辺りでは求めるべくもないのだ。いずれにせよ、旅人が単身進むに、北街道は油断のならぬ土地だった。



 端がほつれたポンチョを肩にまとい、日差しを防ぐ鍔付き帽子。よく履き慣れて堅さと柔らかさを兼ねた長靴。銃を扱いやすい、指ぬきの革手袋。ライフルを背負い、旅慣れた風情に油断ならぬ気配を漂わせながら、ルーク・アンダーソンは、ほぼ一日を歩き続けた。北にはもっと大きな街道が並走するように東西に延びており、そちらもアルゴー街道と呼ばれている。ルークが進むこちらは、アルゴー街道の支道である。


 腰と背に、牛の胃袋の水筒をぶら下げている。全部で三つ。一つは既に空になっているが、全て満杯なら三日は歩ける計算だ。途中で岩陰を見つけると、ルークは足を止めた。小さな金属製コップを取り出し、水筒の水を移して、少しずつ喉を潤した。水筒から直飲みはしない。映画のカウボーイのように、格好良くは振舞えない。口の中の細菌で、水が痛むのが早くなる。磁石を取り出すと、胸元の地図を広げて、旅程を確認する。ジョン・ウェインのように男らしいタフなカウボーイ像に憧れとコンプレックスを抱きながらも、僅かな水も、時間当たりの消費量に気温。歩調と方角をせせこましく気にして生きながらえるのが、文明崩壊後ポストアポカリプスのカウボーイだった。


 風の匂いを嗅ぎ、耳を澄ませるように周囲を警戒しながら、ぺミカンと干し葡萄、干し肉にビスケットでの食事を岩陰で終える。荷には活性炭のフィルターもあれば、懐のポケットには、ヨウ素・塩素系の浄水タブレットも入っている。水筒に1錠入れて1時間待つだけで、雑菌やウィルスを殺してくれる。太陽の位置と地形から迷う心配はほぼ皆無だが、位置の把握を普段から習慣づけて、習い性にしている。


 自由都市ズールでは、十数年来の大きな家畜市が開かれていた。遠来の地方からも人の押し寄せ、盛況と噂の大市に同じ方向へと向かう旅人の一人、二人と出くわして然るべきところ、半日、誰の姿も見かけていない。細い間道に人もまばらな土地となれば、さほど不思議でもあるまいが、どうにも気に入らない。耕作の必要な初夏の時節。道行く農民とすれ違うことすらないのは、道すがらの農地さえも放棄されてる証左だろうか。


 東西を横断する経路は他にも幾つかあった。此処まで旅人の姿がなければ、或いはなんらかの危険に忌避されたかもしれないものを、噂を聞き落としたか。生じた疑念に、小さく舌打ちする。ルークの稼業は牧人。元より、熟練の旅人ではあったもののここ暫く、故あって放牧仕事から遠ざかっており、旅人間たびびとかんの付き合いと噂にうとくなっていた。加えて、自由都市ズール方面は、豊かな放牧地があると同時に、大規模な牧者氏族クランが根強く仕切っている土地で、ポレシャに属する牧者らには不案内な土地でもあった。




―――




 アルゴー街道で初めて人影を見かけたのは、昼とゆうの狭間の頃合いであった。道合から少し離れた前方、背の低い石壁の内部にまだ耕されている畑があって、そこだけが乾いた大地の中に黒く濡れていた。恐らくは家族と思しき一団が屯して、野良仕事を終えたのか。農具を毛長牛が牽く牛車へと積み込んでいる。


 大人が七、八人に子供が三、四人か。少し人数が多い。同じ村の数家族が共同作業したのか、それとも大家族なのか。ともあれ、纏まっている大人たちは、粗末なクロスボウや古びたラッパ銃で武装しており、毛長牛が一つ鼻を鳴らすと、一人が振り返って、ルークに気づいた。農民たちは、近づいてくるルークを眺めながら、むっつりとした表情でなにかを囁き合い、子供たちを庇うように背後へと下がらせた。



 見知らぬよそ者ルークを胡散臭そうに睨んでくる若い男もいたが、しかし、たった一人では盗賊ではあるまいよ。と年嵩の農夫の声に不承不承頷いて後ろにさがると、多少の人望がありそうなまとめ役とおぼしき初老の農夫がルークに話しかけてきた。


 ──旅人かね?どこから来なさった。


 ──ポレシャか。行ったことあるよ。いい土地だね。


 ──一緒に乗っていくかね。旅の人。


 少し迷ってから、ルークは首を横に振った。二言、三言。交わした会話はそれだけだった。見知らぬ旅人を馬車の後ろに誘ってくれた親切な農夫は肯くと、子供らを牛車の後ろに乗せてから毛長牛に軽く鞭を当てた。車がごとんごとんと音を立てながら田舎道へと出ていくと、農夫たちは道の彼方へとゆっくりと歩を進めていった。肩を竦めたルークは、その後ろに距離を保ちながら、のんびりと歩き続けた。




 黄昏の時代トワイライトエイジは、北米の西部開拓時代アメリカン オールド・ウェストに似ていると見做す人々がいる。インディアンや無法者アウトロー、熊や狼に脅かされながらも、人々が貪欲にフロンティアを広げていった反面、人が人を獣と見做して、狩り立てていた時代。それは人類史の暗黒面でも群を抜いた最大級の虐殺と侵略の歴史でもあると同時に、力と栄光の時代でもあった――少なくとも北米の白人種にとっては。


 黄昏の時代トワイライトエイジはどうだろう。似ていると言えば似ているかも知れない。人々は、北米の開拓者と同様、敵対的な部族トライブ略奪者レイダー、変異獣や巨大昆虫に脅かされている。しかし、人類に残された生息可能な土地はもはや少なく、人々は居留地の狭い壁の内に閉じ篭りながら、辛うじて日々を生き延びている。


 外なる脅威である異民族バルバロイには、単に野蛮であったり、退化したと言うに留まらず、外見までもが異なっている異種族めいた者たちも存在していた。奇怪な神や機械を奉じたり、意思疎通が困難なだけでなく、明確に人類に対して敵対的な種もいて、単に変異者と言うには留まらず、人と祖を同じくする生き物とは到底、思えないこれらの異形の種族―――生き物が存在する理由は、旧文明のテクノロジーによる野放図な遺伝子改造の結果だとも、労働力や愛玩する為の奉仕種族が野に逃げ出した結末とも言われている。或いは、人類が、長い歳月を掛けて、自然な進化で激変した過酷な大地に適応したのかも知れないし、敵対的な環境に屈して、虫や寄生生物のドローンへと変貌したと推測している学者たちもいた。


 いずれにせよ、狂気の沙汰としか言いようがない狂科学や戦争の積み重ねの果て、病み衰えた人類は、それでも靴底にへばり付いたガムのように、今日も元気に地表にへばり付きながら、飽きる事なく同族たちと殺し合っているのだが、それでも、美しいものも地上に残されている。まだ、僅かに。




 街道を歩き続けるルーク・アンダーソンの耳に銃声が届いた。錯覚ではない。目を見開いたルークの前方、ついで、凄まじい怒声と叫び声が巻き起こった。ルークは背を縮め、街道沿いの盛り上がった土手に身を隠すようにして走った。再び、銃声が響き渡る。前方、馬車と農民たちが襲撃を受けているようだった。ほんの200メートル先。初老の農夫は、投げ槍が足に突き刺さって呻いていた。槍は横から突き刺さり、大腿を貫いて牛車の床板にまで届いている。骨は逸れたようだが、ひどく出血している。


 槍投げ器アトラトルは、槍を手投げよりも遠く、速く放つために狩石器時代に誕生した投擲の補助器具であった。人の腕の延長として働き、てこの原理を用いて、槍の射程と威力を遥かに高めてくれる。有効射程は20~30メートル。最大射程150メートルに達するそれは、今まで人間を物ともしなかったマンモスやバイソンといった大型草食獣を狩り尽くし、脆弱な人類をして地上の覇者に君臨させた最初の兵器であった。


 投げ槍の奇襲から息を吐く間もなく、岩陰から影のように忍び寄り、身の毛もよだつような咆哮と共に牛車へと襲い掛かってきたのは、襤褸布を纏い、或いは半裸の獣じみた男女の一団で、髪や鼻に骨の飾りや装飾具を身に纏っていた。とても友好的には見えなかったし、半裸に施されたペインティングは、乾燥した血液にも見えた。連中の装飾品は、恐らく不運な農夫や旅人の成れの果てだろうか。



 遥か北西に勢力を誇る蛮王たちが度々、軍閥の辺境領を脅かしているとはポレシャ市の路地裏のうらぶれた酒場でも耳にしていた。遠く奥深い未踏領域から遠征してくると言う、数十人から数百人の兵団が居留地や都市防壁まで押し寄せては、拉致や略奪を思うが侭にしているそうで、住人や駐屯部隊は武装し、防衛線を構築しているものの、いかな軍閥とて外縁領域の防備は薄くならざるを得ず、蛮人たちの勢いの前に幾つもの前哨や居留地が焼き払われているそうだ。


 眼前の襲撃は、蛮王らの手が曠野にまで伸びつつある前触れか。或いは、単なる斥候部隊の独断先行による深入りに過ぎないのか。十数名の蛮族たちは目前の獲物を狩るのに夢中になっており、いまだルークには気づいていなかった。

 不利な状況とは言え、農夫たちも必死に応戦している。隠れ潜むなり、迂回して、やり過ごす手もあったが、脅えた幼児が涙を零しながら、父親の背に縋り付いていた。もしかしたら助太刀をしたが為、蛮族の装飾品に生まれ変わる羽目に陥らないとも限らなかったが、ルーク・アンダーソンは迷わなかった。紙薬莢と雷管を後装式ライフルに装填しながら、膝撃ちの姿勢を取ったルーク・アンダーソンは、蛮族に狙いを定めると、柔肌を愛撫するようにトリガーを優しく引いた。




 ※※※※





 地平の彼方から、遠く銃声が響いた。呼応するかのように、獣の雄叫びと思しき不気味な咆哮も幾重にも木霊している。村人や放浪者は愚か、裕福そうな商人たちや武装した遊牧民すらも不安そうに身動ぎし、彼方の大地を険しい表情でじっと窺っていた。孤立した居留地が屍者の波や変異獣の大群によって一夜によって滅びた話など、黄昏の時代トワイライトエイジに珍しくもない。銃声が聞こえるのも、遠吠えも日常茶飯事でありながら、きっと誰もが胸に不安を抱えながら日々を生きている。


 イザベル・ミラーは、唸っていた。旅人向けに屋外に設置された仮設厠トイレの中である。詰まっている訳ではない。尻を拭く紙だって持ってる。小銭で一回分のトイレットペーパーだけ売りつけてくるせせこましい商売は、他所者相手の村の子供たちの小遣い稼ぎだ。「目当てのサドラン牛が見つからにゃあ」あんまり見つからないので、少しだけ気持ちが参ってもいる。


「……どうもお腹の調子が良くないぞ」神経から来てるのだろうか?ぼやきながらトイレから出ると、小さな宿場町の外れであった。丁度、目の前の街道を商品を山積みした隊商キャラバンの車列と護衛の傭兵たちが差し掛かろうとしている。複数の力強い牛が牽いている重車両の下部は、後方が鉄製の檻となっている。イザベルは、檻の中身を見て、ギョッとしたように立ち止まった。ほぼ同年齢帯と思しき若い男女たちが、外の人々を凝視していた。商品は奴隷であった。


 一見すれば、合法的な奴隷商人だが、或いはそれを装った違法な人狩りだろうか。後者だとすれば、しかし、おそらくは他所の土地で『仕入れた』奴隷であり、自由都市や近隣の居留地で攫われた居住者や自由農民ではないだろう。


 何処の土地でもそうであろうが、人狩りが商品を販売する際は、地元民は避けるものだ。地元民が人狩りに浚われたら例え、他所の住人であっても居留地や共同体は放置しない。人狩り側もそれが分かっていて、外からの人間。それも、反撃や報復のリスクが少ない曠野の廃墟や弱小地域の居留地、農村などから、騒ぎにならない範囲での調達したり、販売を行っている。


 奴隷たちは食い入るような視線で外の人らを見つめている。 奴隷商人の馬車を眺めてるうち、一人と目が合った。まるで助けを求めるかのように檻を掴みながら、何かを叫んだが、それは聞き覚えのない、ズール一帯とは乖離し過ぎた方言のようで、すぐに奴隷商人に棒状の鞭で殴られ、黙らされていた。言葉からすると、ズールからかなり離れた土地か、或いは孤立した廃市街なり、村落の出身と思えた。小奇麗な服や肌を見るに、ごく最近、奴隷に転落したのだろうか。或いは、借金か。それとも旅の途上で攫われたのかも知れない。いずれにせよ奴隷商人も、合法的な書類は所有して表面上を取り繕う程度には、手抜かりもあるまい。


 咎無くて人は地獄に落ちる。イザベルも油断すれば、容易く陥穽に落ちるだろうし、油断せずとも破滅することはあり得る。宿場町に入ってきた奴隷商人たちは、金を払って休息し、井戸を使っていた。湯冷ましの水を飲んでいた奴隷商人の一人、痩せた矮躯の男が窪んだ眼差しをイザベルに向けた。口元だけは優しい笑みを浮かべながら、屠殺する予定の家畜を見る牧者のように瞳を細めて、値踏みするようにイザベルの全身に一瞬、粘っこい視線を這わせた。


 イザベルは冷静さを保ったまま、トイレの中に立てかけていた荷とマントを羽織った。それから牧者が好む装飾品のブレスレットを見えるように動いて、ライフルを背負うと、奴隷商人が軽く目を瞠った。それから真顔になり、真に誠実そうな表情を浮かべて、帽子を胸に当て、一礼して挨拶を送ってくる。まるでイザベルの側こそが、動物から人間に変身したかのように。真っ当な人間が礼儀正しく他者に挨拶するかのように雰囲気と態度を切り替えた奴隷商人に対して、イザベルも黙礼を返してから踵を返した。


 牧者や牧童、遊牧民は、常に外敵に抗い、能う限りは流血に流血を持って報復する。そうでなければ家畜泥棒や獣、怪物から、家畜を守れない。厳しい曠野の大地が羊飼いたちを鍛え上げる。牧童の徒党は常に手強い勢力として盗賊バンディット略奪者レイダーの徒党、奴隷商人や人狩りマンハンター、都市の警備隊などに一目置かれている。だから、奴隷商人の内部で、イザベルは獲物候補から、一瞬で対等の人間――もっと言えば、将来の顧客候補へと切り替わったのかも知れない。勿論、木っ端の人攫いなどには、よく考えずに目を付けた相手をそのまま襲う者もいるし、それで返り討ちに合うものも少なくない。実際に、今のイザベルは近くに仲間などいないから助けなど期待できないし、油断も禁物であったが。


 それにしても、奴隷を目にするとイザベルは何時もスージー婆のことを思い出す。牧者衆の中で手伝いをして生計を立てていたスージー婆は、幼いイザベルちゃんが一番、懐いていた子供たちの世話係で色々と教えてくれた解放奴隷であった。十二、三歳で暮していた都市で誘拐されて、五十歳まで奴隷として過ごした後に解放された。その後は、牧者衆に拾われて、やっと空っぽの自由だけを手に入れたスージー婆。


 年齢に似合わず可愛いハンケチや人形が好きで、乙女みたいに頬を赤らめるスージー婆。イザベルや他の子供たちはよく、揶揄ったものだが、でも、ずっと地下牢の手伝いで友人も恋人もなく孤独で、財産も自由も持たずに働いてきて、年老いて放り出されたのだ。なんで乙女趣味なのか。多感な少女時代の頃に攫われて、ずっと大人になる経験をできなかった。そんな事、イザベルは知らなかった。


 スージー婆オールド・スージーと皆から呼ばれる呼称を本人はどう思っていたのだろう。十歳を少し出たところで攫われ、奴隷商人の城塞から追い出された時には、召使の経験しかない人生の盛りを過ぎた五十歳。際限なく優しくて穏やかなスージー婆が、辿った過酷な人生を考えると、イザベルは今も心が張り裂けそうになる。


 もしかしたらスージー婆の人生を奪ったのは、イザベル・ミラーの知り合いかも知れないし、遠い血族の誰かかも知れない。奴隷商人が遊牧民を恐れるのは、故なき事ではない。数千の騎兵を誇る強力な武装騎馬民ともなれば、都市に朝貢を求めて拒まれれば、根こそぎを奪い、殺し、焼き尽くし、僅かな生き残りを売り払うのも当たり前であった。況や、奴隷商の基地襲撃さえ朝飯前であろう。大農園を所持する都市や大貴族、蛮族には及ばないとしても、奴隷を大量に購入し、さらに売り払う種族が遊牧民で、気軽に集落や農村を襲撃して農民を浚い、奴隷商人に売り飛ばして生業とする部族や氏族も辺土には幾つか知られていた。




 かくはともあれ、ここ数日、イザベルは街道沿いの宿場町や農村、牧場を訪ね歩いたていたのだが、取引相手となるべきサドラン氏族や、彼らと付き合いを持つ牛飼いなり、商人なりとは早々、巡り合えずにいた。だって、多いのだ。家畜市と言うだけあって牛や馬、羊に増やしやすい豚だけではない。奇怪な変異獣に猿、訓練された犬や鳥。大型の見たこともない動物やら人語を口にする猫モドキ。檻に入った見たこともない獰猛な獣や巨大な昆虫までが見知らぬ土地の遊牧民や牧者、牧童らによって売られている。それに予想通りではあったものの、口だけの山師やら碌でもない詐欺師などが紛れているのも、まったく噂に違わぬありさまでもあるのだ。


 最初に出会った阿呆などは、羊に牛の皮を被せてサドラン牛だと言い張っていた。何を考えていたのだろう?二人目は、長毛種の牛を連れてきたが明らかに小柄だった。子牛だと売り込んできたが、角の形にしろ、生え揃った臼歯にしろ、どう見てもこれ以上、大きくなりようのない成牛である。あれで騙されるのは、全くの素人くらいであろう。三人目は、サドラン牛を持っていたがどう見ても年寄り牛だし、値段も折り合わなかった。あれをポレシャに連れ帰って売りつけるのは、流石に気が進まなかった。


 話にも成らずに口先だけで金を巻き上げようとしてきた詐欺師なども、それと同数以上に遭遇してる。中には、ちゃんとした取引だったかも知れない。惜しかったかな?或いは、善良そうに見えたかも──と思える相手もいたが、見知らぬ相手の 野営地キャンプや荷車の陰、天幕の奥、宿場町の裏路地や倉庫、人通りのない牧場の片隅などにはけして踏み込まず、誘われた時は迷わずに逃げた。イザベル・ミラーは、己の人を見る眼を信用しなかった。必ず、コインの割符を装飾品っぽく、それとなく見える位置につけながら、他の割符を付けたまともそうな遊牧民や、比較的にまともと思える宿場町の村人の眼が複数届くような場所にしか踏み込まなかった。或いは取引の好機を逃がしたかもしれない、と思う時もあったが、それはそれで仕方ないと割り切っている。イザベルは達人でも、軍人でもなければ、仲間もおらず、大物の庇護を受けてもない。或いは、用心し過ぎてるかも知れないが、安全にはマージンを取るべきだろう。


「他人を嫌な気持ちにさせてしまったかな」思い煩う時もあるが、仕方ない。ニコニコ笑顔で他人を騙す悪党など今の世の中、ごまんと溢れているのだ。初見で見ず知らずの商人を一々、信用していたら、身体が幾つあっても足りなくなる。

 無実だった相手に嫌な思いさせて、嫌われても仕方ない。無闇に人を嫌な気分にさせたい訳ではないけれど、イザベルのような一介の牧者が細腕一つで渡り合うには、それも織り込み済みで体当たりで挑み続けるしかないのだ。


 延々と悩むイザベルであったが、それにしても他の買い手たちは、どうやってサドラン牛を探し出し、売り手と取引を行っているのだろうか。イザベルも一応の素人ではないけれど、中々に難しい仕事であった。


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