03_58D 牧者の孫
ポレシャから北上して徒歩で二日。東西に延びる街道は、アルゴーの道と呼ばれていた。穏やかに起伏が連なる平野に一見、長閑な田園風景が続いているが、街道から遠目にぽつぽつと見かける農場は、やはり賊や変異獣の襲撃に備えて二重の囲いを連ねたり、頑丈な壁の家屋には、二階まで幾つもの分厚い鎧戸が備えられている。
アルゴー街道の付近は、強大な軍閥と曠野に冠を戴く
枯れた大地の僅かに農業に適した土地に、開拓民が築いた砦めいた家屋が点在しているも、外敵の襲撃に破られたか、投資が見合わずに捨てられたか。遠い昔に住人が消えうせ、狐狸の棲み処と化している廃墟や遺棄された
街道沿いに散見する僅かな集落や農場が今も孤塁を守っているが、しかし、それらも常に無法者や蛮人、或いは屍者や怪物らに脅かされている。頑丈な防壁を備え、
端がほつれたポンチョを肩にまとい、日差しを防ぐ鍔付き帽子。よく履き慣れて堅さと柔らかさを兼ねた長靴。銃を扱いやすい、指ぬきの革手袋。ライフルを背負い、旅慣れた風情に油断ならぬ気配を漂わせながら、ルーク・アンダーソンは、ほぼ一日を歩き続けた。北にはもっと大きな街道が並走するように東西に延びており、そちらもアルゴー街道と呼ばれている。ルークが進むこちらは、アルゴー街道の支道である。
腰と背に、牛の胃袋の水筒をぶら下げている。全部で三つ。一つは既に空になっているが、全て満杯なら三日は歩ける計算だ。途中で岩陰を見つけると、ルークは足を止めた。小さな金属製コップを取り出し、水筒の水を移して、少しずつ喉を潤した。水筒から直飲みはしない。映画のカウボーイのように、格好良くは振舞えない。口の中の細菌で、水が痛むのが早くなる。磁石を取り出すと、胸元の地図を広げて、旅程を確認する。ジョン・ウェインのように男らしいタフなカウボーイ像に憧れとコンプレックスを抱きながらも、僅かな水も、時間当たりの消費量に気温。歩調と方角をせせこましく気にして生きながらえるのが、
風の匂いを嗅ぎ、耳を澄ませるように周囲を警戒しながら、ぺミカンと干し葡萄、干し肉にビスケットでの食事を岩陰で終える。荷には活性炭のフィルターもあれば、懐のポケットには、ヨウ素・塩素系の浄水タブレットも入っている。水筒に1錠入れて1時間待つだけで、雑菌やウィルスを殺してくれる。太陽の位置と地形から迷う心配はほぼ皆無だが、位置の把握を普段から習慣づけて、習い性にしている。
自由都市ズールでは、十数年来の大きな家畜市が開かれていた。遠来の地方からも人の押し寄せ、盛況と噂の大市に同じ方向へと向かう旅人の一人、二人と出くわして然るべきところ、半日、誰の姿も見かけていない。細い間道に人も
東西を横断する経路は他にも幾つかあった。此処まで旅人の姿がなければ、或いはなんらかの危険に忌避されたかもしれないものを、噂を聞き落としたか。生じた疑念に、小さく舌打ちする。ルークの稼業は牧人。元より、熟練の旅人ではあったもののここ暫く、故あって放牧仕事から遠ざかっており、
―――
アルゴー街道で初めて人影を見かけたのは、昼と
大人が七、八人に子供が三、四人か。少し人数が多い。同じ村の数家族が共同作業したのか、それとも大家族なのか。ともあれ、纏まっている大人たちは、粗末なクロスボウや古びたラッパ銃で武装しており、毛長牛が一つ鼻を鳴らすと、一人が振り返って、ルークに気づいた。農民たちは、近づいてくるルークを眺めながら、むっつりとした表情でなにかを囁き合い、子供たちを庇うように背後へと下がらせた。
見知らぬ
──旅人かね?どこから来なさった。
──ポレシャか。行ったことあるよ。いい土地だね。
──一緒に乗っていくかね。旅の人。
少し迷ってから、ルークは首を横に振った。二言、三言。交わした会話はそれだけだった。見知らぬ旅人を馬車の後ろに誘ってくれた親切な農夫は肯くと、子供らを牛車の後ろに乗せてから毛長牛に軽く鞭を当てた。車がごとんごとんと音を立てながら田舎道へと出ていくと、農夫たちは道の彼方へとゆっくりと歩を進めていった。肩を竦めたルークは、その後ろに距離を保ちながら、のんびりと歩き続けた。
外なる脅威である
いずれにせよ、狂気の沙汰としか言いようがない狂科学や戦争の積み重ねの果て、病み衰えた人類は、それでも靴底にへばり付いたガムのように、今日も元気に地表にへばり付きながら、飽きる事なく同族たちと殺し合っているのだが、それでも、美しいものも地上に残されている。まだ、僅かに。
街道を歩き続けるルーク・アンダーソンの耳に銃声が届いた。錯覚ではない。目を見開いたルークの前方、ついで、凄まじい怒声と叫び声が巻き起こった。ルークは背を縮め、街道沿いの盛り上がった土手に身を隠すようにして走った。再び、銃声が響き渡る。前方、馬車と農民たちが襲撃を受けているようだった。ほんの200メートル先。初老の農夫は、投げ槍が足に突き刺さって呻いていた。槍は横から突き刺さり、大腿を貫いて牛車の床板にまで届いている。骨は逸れたようだが、ひどく出血している。
投げ槍の奇襲から息を吐く間もなく、岩陰から影のように忍び寄り、身の毛もよだつような咆哮と共に牛車へと襲い掛かってきたのは、襤褸布を纏い、或いは半裸の獣じみた男女の一団で、髪や鼻に骨の飾りや装飾具を身に纏っていた。とても友好的には見えなかったし、半裸に施されたペインティングは、乾燥した血液にも見えた。連中の装飾品は、恐らく不運な農夫や旅人の成れの果てだろうか。
遥か北西に勢力を誇る蛮王たちが度々、軍閥の辺境領を脅かしているとはポレシャ市の路地裏のうらぶれた酒場でも耳にしていた。遠く奥深い未踏領域から遠征してくると言う、数十人から数百人の兵団が居留地や都市防壁まで押し寄せては、拉致や略奪を思うが侭にしているそうで、住人や駐屯部隊は武装し、防衛線を構築しているものの、いかな軍閥とて外縁領域の防備は薄くならざるを得ず、蛮人たちの勢いの前に幾つもの前哨や居留地が焼き払われているそうだ。
眼前の襲撃は、蛮王らの手が曠野にまで伸びつつある前触れか。或いは、単なる斥候部隊の独断先行による深入りに過ぎないのか。十数名の蛮族たちは目前の獲物を狩るのに夢中になっており、いまだルークには気づいていなかった。
不利な状況とは言え、農夫たちも必死に応戦している。隠れ潜むなり、迂回して、やり過ごす手もあったが、脅えた幼児が涙を零しながら、父親の背に縋り付いていた。もしかしたら助太刀をしたが為、蛮族の装飾品に生まれ変わる羽目に陥らないとも限らなかったが、ルーク・アンダーソンは迷わなかった。紙薬莢と雷管を後装式ライフルに装填しながら、膝撃ちの姿勢を取ったルーク・アンダーソンは、蛮族に狙いを定めると、柔肌を愛撫するようにトリガーを優しく引いた。
※※※※
地平の彼方から、遠く銃声が響いた。呼応するかのように、獣の雄叫びと思しき不気味な咆哮も幾重にも木霊している。村人や放浪者は愚か、裕福そうな商人たちや武装した遊牧民すらも不安そうに身動ぎし、彼方の大地を険しい表情でじっと窺っていた。孤立した居留地が屍者の波や変異獣の大群によって一夜によって滅びた話など、
イザベル・ミラーは、唸っていた。旅人向けに屋外に設置された
「……どうもお腹の調子が良くないぞ」神経から来てるのだろうか?ぼやきながら
一見すれば、合法的な奴隷商人だが、或いはそれを装った違法な人狩りだろうか。後者だとすれば、しかし、おそらくは他所の土地で『仕入れた』奴隷であり、自由都市や近隣の居留地で攫われた居住者や自由農民ではないだろう。
何処の土地でもそうであろうが、人狩りが商品を販売する際は、地元民は避けるものだ。地元民が人狩りに浚われたら例え、他所の住人であっても居留地や共同体は放置しない。人狩り側もそれが分かっていて、外からの人間。それも、反撃や報復のリスクが少ない曠野の廃墟や弱小地域の居留地、農村などから、騒ぎにならない範囲での調達したり、販売を行っている。
奴隷たちは食い入るような視線で外の人らを見つめている。 奴隷商人の馬車を眺めてるうち、一人と目が合った。まるで助けを求めるかのように檻を掴みながら、何かを叫んだが、それは聞き覚えのない、ズール一帯とは乖離し過ぎた方言のようで、すぐに奴隷商人に棒状の鞭で殴られ、黙らされていた。言葉からすると、ズールからかなり離れた土地か、或いは孤立した廃市街なり、村落の出身と思えた。小奇麗な服や肌を見るに、ごく最近、奴隷に転落したのだろうか。或いは、借金か。それとも旅の途上で攫われたのかも知れない。いずれにせよ奴隷商人も、合法的な書類は所有して表面上を取り繕う程度には、手抜かりもあるまい。
咎無くて人は地獄に落ちる。イザベルも油断すれば、容易く陥穽に落ちるだろうし、油断せずとも破滅することはあり得る。宿場町に入ってきた奴隷商人たちは、金を払って休息し、井戸を使っていた。湯冷ましの水を飲んでいた奴隷商人の一人、痩せた矮躯の男が窪んだ眼差しをイザベルに向けた。口元だけは優しい笑みを浮かべながら、屠殺する予定の家畜を見る牧者のように瞳を細めて、値踏みするようにイザベルの全身に一瞬、粘っこい視線を這わせた。
イザベルは冷静さを保ったまま、トイレの中に立てかけていた荷とマントを羽織った。それから牧者が好む装飾品のブレスレットを見えるように動いて、ライフルを背負うと、奴隷商人が軽く目を瞠った。それから真顔になり、真に誠実そうな表情を浮かべて、帽子を胸に当て、一礼して挨拶を送ってくる。まるでイザベルの側こそが、動物から人間に変身したかのように。真っ当な人間が礼儀正しく他者に挨拶するかのように雰囲気と態度を切り替えた奴隷商人に対して、イザベルも黙礼を返してから踵を返した。
牧者や牧童、遊牧民は、常に外敵に抗い、能う限りは流血に流血を持って報復する。そうでなければ家畜泥棒や獣、怪物から、家畜を守れない。厳しい曠野の大地が羊飼いたちを鍛え上げる。牧童の徒党は常に手強い勢力として
それにしても、奴隷を目にするとイザベルは何時もスージー婆のことを思い出す。牧者衆の中で手伝いをして生計を立てていたスージー婆は、幼いイザベルちゃんが一番、懐いていた子供たちの世話係で色々と教えてくれた解放奴隷であった。十二、三歳で暮していた都市で誘拐されて、五十歳まで奴隷として過ごした後に解放された。その後は、牧者衆に拾われて、やっと空っぽの自由だけを手に入れたスージー婆。
年齢に似合わず可愛いハンケチや人形が好きで、乙女みたいに頬を赤らめるスージー婆。イザベルや他の子供たちはよく、揶揄ったものだが、でも、ずっと地下牢の手伝いで友人も恋人もなく孤独で、財産も自由も持たずに働いてきて、年老いて放り出されたのだ。なんで乙女趣味なのか。多感な少女時代の頃に攫われて、ずっと大人になる経験をできなかった。そんな事、イザベルは知らなかった。
もしかしたらスージー婆の人生を奪ったのは、イザベル・ミラーの知り合いかも知れないし、遠い血族の誰かかも知れない。奴隷商人が遊牧民を恐れるのは、故なき事ではない。数千の騎兵を誇る強力な武装騎馬民ともなれば、都市に朝貢を求めて拒まれれば、根こそぎを奪い、殺し、焼き尽くし、僅かな生き残りを売り払うのも当たり前であった。況や、奴隷商の基地襲撃さえ朝飯前であろう。大農園を所持する都市や大貴族、蛮族には及ばないとしても、奴隷を大量に購入し、さらに売り払う種族が遊牧民で、気軽に集落や農村を襲撃して農民を浚い、奴隷商人に売り飛ばして生業とする部族や氏族も辺土には幾つか知られていた。
かくはともあれ、ここ数日、イザベルは街道沿いの宿場町や農村、牧場を訪ね歩いたていたのだが、取引相手となるべきサドラン氏族や、彼らと付き合いを持つ牛飼いなり、商人なりとは早々、巡り合えずにいた。だって、多いのだ。家畜市と言うだけあって牛や馬、羊に増やしやすい豚だけではない。奇怪な変異獣に猿、訓練された犬や鳥。大型の見たこともない動物やら人語を口にする猫モドキ。檻に入った見たこともない獰猛な獣や巨大な昆虫までが見知らぬ土地の遊牧民や牧者、牧童らによって売られている。それに予想通りではあったものの、口だけの山師やら碌でもない詐欺師などが紛れているのも、まったく噂に違わぬありさまでもあるのだ。
最初に出会った阿呆などは、羊に牛の皮を被せてサドラン牛だと言い張っていた。何を考えていたのだろう?二人目は、長毛種の牛を連れてきたが明らかに小柄だった。子牛だと売り込んできたが、角の形にしろ、生え揃った臼歯にしろ、どう見てもこれ以上、大きくなりようのない成牛である。あれで騙されるのは、全くの素人くらいであろう。三人目は、サドラン牛を持っていたがどう見ても年寄り牛だし、値段も折り合わなかった。あれをポレシャに連れ帰って売りつけるのは、流石に気が進まなかった。
話にも成らずに口先だけで金を巻き上げようとしてきた詐欺師なども、それと同数以上に遭遇してる。中には、ちゃんとした取引だったかも知れない。惜しかったかな?或いは、善良そうに見えたかも──と思える相手もいたが、見知らぬ相手の
「他人を嫌な気持ちにさせてしまったかな」思い煩う時もあるが、仕方ない。ニコニコ笑顔で他人を騙す悪党など今の世の中、ごまんと溢れているのだ。初見で見ず知らずの商人を一々、信用していたら、身体が幾つあっても足りなくなる。
無実だった相手に嫌な思いさせて、嫌われても仕方ない。無闇に人を嫌な気分にさせたい訳ではないけれど、イザベルのような一介の牧者が細腕一つで渡り合うには、それも織り込み済みで体当たりで挑み続けるしかないのだ。
延々と悩むイザベルであったが、それにしても他の買い手たちは、どうやってサドラン牛を探し出し、売り手と取引を行っているのだろうか。イザベルも一応の素人ではないけれど、中々に難しい仕事であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます