鬼と舞う

善根 紅果

童友達(わらわともだち)の病

「つ~ら~ゆ~き~」

 紀貫之きのつらゆきの名を呼ぶ声がする。


 呼ぶ声は、紀善道きのよしみち

 紀有常きのありつねの孫。雅楽寮うたのりょうつかさ


 早朝つとめて出仕しゅっし(出勤)する貫之を、善道は図書寮ずしょりょう階段きざはしの前で待ち構えていた。


「はうっ」

「ううっ」

「ううう」

「うぐぅ」


 図書司ずしょのつかさ(図書寮の役人)たちは、浅沓あさぐつを脱ぎ、棚に置いて、肌足はだしで、霜の下りた階段の冷たさに、口々に声を上げながら、のぼる。

 そこにまぎれて貫之は、善道を避け、浅沓あさぐつを脱ぎ、棚に置いて、肌足はだしの爪先で、声を上げることもなく、階段をのぼる。

 いつもは耳疾みみとく音を聞き分けるのに、善道の声が聞こえず、霜月しもつき(十一月)の明けきらない薄暗さで、姿も見えないらしい。


「ね~ね~、つ~ら~ゆ~き~、聞いてよ~、聞くだけでいいんだよ~」

 善道も浅沓を脱ぎ、棚に置き、肌足で、霜の下りた階段の冷たさに顔を盛大にしかめて、上る。


 どちらも浅緑あさみどり無紋むもん模様もようのない)束帯そくたいを着て、こうぶりけ、くらいの低さが知れる。


 話す善道の声が聞こえず、貫之は、図書寮の周囲まわり簀の子すのこそと廊下ろうか)に上がる。

 善道も上がり、貫之の袖をとらえると、引っ張り、簀の子すのこ(外廊下)の端の高欄こうらんさく)まで行った。浅緑の袖で口覆くちおおいして、小声で言う。

うえ元服げんぷく(成人式)のうたげの、青海波せいがいは練習ならいをしてて~」

 貫之は眼を見開いて、善道を見た。



「女にてたてまつらましき」――女にして見てみたい、というわけの分からない言葉が似合いの、紀貫之きのつらゆきは、女と見紛みまがうばかりのかおばせをしている。

 まなこは、夜の闇がくちを開いたように黒く、細い鼻、薄い口縁くちびる。十七歳だが、未だひげも生え揃わず、なまめかしい(若々しい)。


 紀善道きのよしみちは、二十一歳。面長おもながで、眼は少し小さく、口覆いした浅緑の袖の内の、小鼻は矢尻やじりのように広がって、薄い口縁くちびるを、髭がかこんでいる。


 同じ紀氏きしと言っても、三代も前に分かれて、かおばせは似ていないが、どちらも、そびやかにそびえるように背が高い。



さく(十二月一日)に諒闇りょうあん(清和天皇の喪の期間)が明けたばかりで、宮中うちは、かしかましい(騒がしい)ことですね」

 貫之は小声で、長息ながいき(溜息)混じりに言う。


 善道の浅緑の袖の上の善道の眼が、貫之を睨んだ。

真面目まめ出仕しゅっし(出勤)している宮中うちつかさ(職員)の皆に代わって、言う。――師走しわす(十二月)の一月ひとつきで、元服げんぷく(成人式)のもうけ(準備)をしなきゃならないなんて、さわののしる(大騒ぎ)するしかないだろっ」

「…それはそうですが…」

「ただでさえ時間がないって言うのに、青海波を舞う相手の覚えが悪すぎて、疲れ果てて、章成あきなりが熱、出しちゃったんだよ」

「章成が青海波を舞うのですか」

 貫之が言うと、浅緑の袖の上の善道の眼が笑んだ。

約束ちぎりは忘れちゃったんだと思ってた」

「………」

 貫之は黙り込む。


 善道は長息ながいき(溜息)と共に、袖を下ろした。

大伯父おおおじぎみに、診てもらってるから、だいじょうぶだよ」

 袖を下ろした貫之は、物思う顔様かおざま(表情)だった。「大伯父君」と聞いて、紀氏の誰のことを言っているのか、分からないのだ。



 内教坊ないきょうぼう妓女ぎじょはらから産まれた貫之は、紀氏の家で産まれ育った善道より、親族うからを知らない。



長谷雄はせお様だよ」

 紀長谷雄きのはせおの名を聞いて、貫之は驚く。

「長谷雄様は、文章得業生もんじょうとくごうしょうではないですか。祈祷きとうができるのですか」

「祈祷じゃなく、医道いどうだよ。病は、祈らなくたって、その病に合った薬を飲んで、体を温めるか、冷やすかして、家にもっていれば、治るんだよ。長谷雄様は、」

 言いかけて、善道は、また浅緑あさみどりの袖で、口覆くちおおいいした。


「長谷雄様の祖父おおじ様――紀国守きのくにもり様は、典薬頭てんやくのかみだったんだ。でも、さきうえ(清和天皇)が、東宮はるのみや(皇太子)であらせられた時、『お腹が痛い』って言い出して、国守様が薬を差し上げられた。すると、東宮は、ますます痛がって、転げ回った」


 今、目の前で、腹を抱えて痛みに転げ回るわらわ(子ども)と、うろたえるおきな(老人)を見ているかのような顔様の貫之と向かい合って、善道は、よく真顔で話し続けていられるものだ。


「薬といつわり、毒を飲ませたのかと責められて、国守様が、帯刀舎人たちはきのとねり(皇太子の護衛)に斬られようとした時、東宮が声を上げてお笑いになった」


 帯刀舎人に斬られようとする翁を、声を上げて嘲笑あざわらう童を、目の前に見ているかのような貫之の顔様。


「兄の小野宮おののみや様(惟喬これたか親王しんのう)が、東宮のお腹を、くすぐっていらっしゃったんだ。つまりは、いつわみ(仮病)だったってこと。」

 善道の話に、貫之は詰めていた息を、長く吐き出した。善道も、口覆いした浅緑の袖の内で、長息ながいき(溜息)をく。



 さきうえ(清和天皇)は、母(藤原明子ふじわらのあきらけいこ)に、心配してもらいたかったのだ。自分に見向きもしてくれない、いつも心がそらの母に。



「国守様は、たかがわらわたわぶれで、命が奪われることをおそれ、紀氏にまでるいが及ぶことを畏れ、家の医書いしょを全て焼き捨てて、この先、医道いどうに関わらないように、子である貞範さだのり様、孫である長谷雄様に命じられたのだそうだ」

「そうなのですか…」

「長谷雄様は、『まことは(本当は)医道に進みたかった』って、いつもおっしゃってる」

「そうなのですね…」

「学問が進まない言い訳かもしんないけどね~」

 口覆いした浅緑の袖の下から、善道のごえがこぼれる。


 紀長谷雄は、三十八歳。同い年の菅原道真すがわらのみちざねが、すでに文章博士もんじょうはかせであることを考えれば、未だ文章得業生もんじょうとくごうしょうだ。

 大学の直曹じきそう(寮)に住まわされているが、章成の病をなければならないと、大学頭だいがくのかみ(学長)に言い張って、連れて家に帰っている。

――それが、昨日のこと。


 他の図書司ずしょのつかさ(図書寮の役人)たちは、寮を開き、仕事を始めている。


「章成のことをお伝えいただき、ありがとうございます」

 そう言って、行こうとする貫之の浅緑の袖を、善道はとらえた。

「だから、章成のために頼むよ~、つ~ら~ゆ~き~。章成が戻って来た時に、相手が完璧に舞っていたら、章成、喜ぶと思うよ~~~」


 藤原章成ふじわらのあきなり。十八歳。貫之と同じ、内教坊ないきょうぼう妓女ぎじょはらから産まれ、舞の才能ざえを認められて、藤原氏の家に迎えられた。

 帝の元服げんぷくの宴で舞うことは、藤原章成として、宮中うちでも、藤原氏の中でも、認められることになる。



 けれど、章成は舞うことはできないようだ。


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