祖母の家

@tryk

狐のいる山

「狐のいる山」




 夏休み、小学生の私は祖父母の家に預けられていた。両親は共働きで、面倒を見てくれる人が他にいなかった。

 祖父母の家は街からずいぶん離れていて、山に囲まれている。普段の暮らしでは見られない生き物が見られるので、私はここで過ごす夏が好きだった。

 たとえば、家の壁をヤモリがちょろちょろ走っていたり、夕方近くなると街灯の周りをコウモリが飛び回ったり。そしてなにより、オニヤンマやアゲハチョウのような大きな昆虫が平気でその辺を飛んでいるのだ。私の暮らす街ではなかなかお目にかかれない光景だった。




 よく晴れて暑い日の、午前中のことだった。

 山の方でミンミンゼミが鳴いていた。ミンミンゼミというと、声を聞いたことはあっても姿を見たことはなかった。図鑑でしか見たことのない虫を間近で見てみたくなった私は、虫捕りに出かけることを決めた。

 祖母は畑に出ていた。一人で絵を描いたり本を読んだりすることに飽き飽きしていた私は、いいことを思い付いた自分を褒めたたえながら、虫捕り網と虫かごをつかんで山へ向かった。




 家のすぐ裏手から山に入る道がある。車一台通るのがやっと、というくらいの広さで、砂利の敷かれた道だった。

 本当は子供一人で山に入るのはいけないことだと気付いていたが、迷うような道ではないことも知っていた。何度も、父や年上のいとこたちと遊びに入っていた。ずっと一本道で、危ない場所などない。砂利道から外れて木々の中に入っていかなければ大丈夫だろうと確信していた。




 山の中は涼しかった。土や草の、どこか少し湿ったような匂いが全身を包んだ。

 見上げると、道の両側から生い茂る木々の間に、青い空がのぞいていた。くっきりとした青色の中に、もこもこと白い入道雲の端っこが見えていた。三角につんととがったその形は、家族で遠出した時、サービスエリアで買ってもらったソフトクリームを思い出させた。




 十五分ほど、山の空気を楽しみながら歩くと、目当てにしていた声が近くに聞こえた。ミンミンゼミだ。

 耳で場所を探りながら目をこらすと、砂利道から外れて数本目の木の幹にその姿をみつけた。

 森の中に入るのはためらわれたが、道が見えなくなるほど遠いというわけでもない。私は意を決して、セミの方へ近付いた。

 そろりそろりと足を運んだおかげか、ミンミンゼミはこちらに気付いていないようだった。すぐ側まで行っても鳴き止むことはなかった。小さな腹と透明な羽をぱたぱた動かして、一生懸命に鳴いていた。

 私は息を殺し、虫取り網を振り下ろした。

 ミンミンゼミは簡単に、私の手に収まった。ジジッと抗議するような音を出したっきり、おとなしいものだった。

 そっと虫かごに入れて、透明なフタ越しにその姿を眺めてみた。透けた羽の下に茶色い胴体が収まっていて、全体的に想像したよりも小さかった。かごの中で動かずにいるそれは、ガラスや宝石で作られた繊細なブローチかなにかのようだった。

 冒険の末に宝物を手に入れた。そんな空想が、私のやる気を後押しした。




 森を出て砂利道に戻ると、私は上を目指した。もっと虫を捕まえたかった。セミだけでなく他の虫も。

 上っていくと、急な曲がり道に差しかかった。傾斜もきつくなっていた。息を切らしながら道を曲がり、ふと顔を上げると、目の前いっぱいにトンボが飛んでいた。赤いもの、青いもの、白いもの、そして大きなもの。

 思わず、わあ、と声を上げていた。

 トンボの羽は薄く透き通っていて、午前中のまだ白い陽光を翻し、キラキラ、キラキラと光っていた。

 私はもう夢中で虫取り網を振り回した。

 トンボは、面白いほどよく捕れた。いつもなら、トンボは噛むから怖いと思ってたはずなのに、そんなことは少しも気にならなかった。

 あっという間に、虫かごはいっぱいになった。最初に捕まえたミンミンゼミの姿は大小色とりどりのトンボに埋もれて見えなくなっていた。




 私は軽やかな足取りで来た道を戻りはじめた。

 すっかり満足していた。捕まえた虫たちをどうしようかと考えながら、砂利道を進んだ。たいした知識はなかったが、このトンボたちは家で飼育しようと思った。トンボやセミはなにを食べるのだろう。いろいろなものを食べさせて観察してみるのも面白いかもしれない。うきうきしながら歩いた。




 異変に気付いたのは、急な下り坂に踏ん張る足がかすかに痛みはじめた頃だった。

 ずいぶん長いこと歩いた気がするのに、一向に山から出られないのだ。

 立ち止まって辺りを見渡してみた。けれど、自分がいまどこにいるかなど分かるはずもなかった。

 曲がりくねってはいるが、一本道なのだ。迷うはずなどない。上りで疲れてしまって、時間の感覚がおかしくなっているだけだ、きっと。ぐるぐると考えながら砂利道を歩き続けた。




 しかし、山道はいつまでたっても終わらなかった。

 もうとっくに祖父母の家に着いてもいいほど歩いた。足の裏は痛み、膝はうまく曲がらないほど疲れていた。おまけに、お腹もひどくすいていた。

 私はついに、恐怖と疲労でしゃがみ込んだ。なまあたたかい汗がどっと吹き出してきた。右を見ても左を見ても、暗く深い森。涙がこぼれそうになって、上を向いた。

 青い空に、入道雲の端っこが見えている。

 ああ、ソフトクリームが食べたい。




 すぐに、アレ、と思った。最初に見たのと同じ形だ、と。

 ソフトクリームを思い出させる三角形が、位置も大きさも変わらずそこにあった。

 雲は動き、形を変えるのが普通だ。あんな風にとどまっているのはおかしい。背筋にひやっとした緊張が走った。なにか大変なことが起こっているのかもしれない。私はもう、怖くて怖くて、涙を我慢することができなかった。

 涙の粒が虫かごに落ちた。


 ジジッ。


 最初につかまえたミンミンゼミの声だった。

 私は、はっとして虫かごを見た。

 いま思えば小さすぎるかごの中に、びっちりトンボが詰まっていた。

 なぜだか、そのトンボたちが私の方を見ている、と思った。たくさんの、本当にたくさんの目が私をみつめている。

 急に気持ち悪くなった。捕まえた直後は家で飼育するとまで思っていたのに、いまは少しも手元に置いておきたくないと感じた。

 震える手で虫かごのフタを開けた。

 無数のトンボが、音もなく飛び立つ。トンボは次から次へと飛び出してくる。こんなにたくさんのトンボが、本当にこの小さな虫かごに収まっていたのだろうか? そう思うほど、おびただしい数のトンボが、私の元から飛び去っていった。




 風が吹いた。木々のざわめきが、ぼんやりしていた私の意識を揺り起こした。

 慌てて虫かごを見ると、一匹のトンボもいなくなっていた。虫かごの底に、一匹のミンミンゼミがじっとしているだけだった。

 お腹がぐぅと鳴った。ひりひりするほどの空腹を思い出した。空を見上げても、ソフトクリームのような雲はもうどこにもなかった。

 私は立ち上がり、ほとんど全力で走った。砂利に足を取られながら、走った。

 木々のトンネルはあっけないほどすぐに途切れ、私はついに山を下ることができた。




 半べそをかきながら、祖母のいる畑の方へ走った。またあの山道の迷路に閉じ込められてしまう気がして、山の方を振り返るのさえ恐ろしかった。

 仕事を終えて家の方に歩いていた祖母とちょうど行き会った。泣いている私を見て、祖母は目を丸くしていた。

「なにしたのぉ?」

「山にっ、山が……!」

 私はしゃくりあげながら、さっきあった出来事を必死に説明した。訳が分からないところも多かっただろうに、祖母は真剣に聞いてくれていた。




「それは狐に化かされたんだな」


 祖母はあっさりと、そう言った。


「キノコとりに山さ入って同じような目にあったって話を聞いたことがあるわ。昔からあすこの山には狐が住んでて人を化かすって言われててな、だから私も山に入る時は、自分では吸わないんだけども、必ずタバコを持ってくんだ。狐はタバコの煙が嫌いだからって」


 狐が出ることも、タバコを嫌うということも、山に入る前に知りたかった。知っていたらタバコを持っていったのに……いや、子供の私がタバコを手に入れるのは無理か。だったらそもそも怖くて山に入らなかっただろう。そうしたら恐ろしい思いをすることもなかったのに……。

 それから祖母は、さっきまでの恐怖が薄れるくらいの形相で私を叱りつけた。頭をげんこつで殴られもした。もう二度と一人で山に入らないと約束させられた。


「そのセミは山さ返してやるんだよ」


 ミンミンゼミはまだ、虫かごの中で静かにしていた。

 飼育しようなどという気持ちはもう少しもなかった。フタを開けてもじっと動かないミンミンゼミをそっと手で掴み、外に出した。


「捕まえたりしてごめんな」


 ミンミンゼミは、かすかな羽音だけを残して飛んでいった。

 その姿が見えなくなった後も、私はしばらくそこにいた。昼食ができたと呼ぶ祖母の声が聞こえるまで、空腹なのも忘れ、ミンミンゼミの声を聞いていた。




end

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