無垢な純情
ノックをする間もなく、七瀬は扉を勢い良く開けた。
「ねぇ、誓いのキスは?」
「紗夜……」
開いた扉の音で、慌てて先生から彼女は離れてそっぽを向いていた。
先生はと言えば、逆に人が来たことで安心した様子だ。少しこちらを窺うような目をしている彼女は置いておいて、七瀬は何もなかったかのように振る舞う。
「先生、少し質問したいのですがよろしいですか?」
「ああ、もちろん。棟方は少し待っていてくれ」
「えぇ~、分かりました。すぐに帰ってきてくださいね?」
先生は俺について保健室を出る。廊下を少し歩いていると保健室の先生とすれ違って会釈をした。先生は全てを把握しているのだろうか。だがそれは今聞くときではない。目の前の先生とあの先輩を引き離すのが先決だ。
少しあるいて窓辺で足を止めると、先生は七瀬に尋ねる。
「それで、質問っていうのはなんだ?分からない問題でもあったか?」
「いえ、別にそういうわけではないです」
「それじゃあなんだ?」
てっきり自身の受け持つ科目についての質問だと思ったのだろう。意外な結果が返ってきて彼はただただ困惑した。
だから七瀬はあえて一呼吸間を開けた。七瀬がしようとしていることは、会話の流れで聞けるようなことじゃない。そうでないとするのならば確信を持った表情で言わなければ。言い逃れができないほどに。
「どうして、答えてあげないんですか?」
「何のことだ?」
これだけ言っても伝わらないことは分かっている、というより分かっていたとしてもきっとここはごまかしていただろう。だからもう少しだけ具体的に示す。
「棟方さんのことです」
痛いところをつつかれたようなその表情。自ら図星だと声を発しているのと変わらない。やっぱり先生は棟方先輩ではなく……。
そう自分の中で考えたとき、先生は閉ざしていた口を開く。
「これは俺の贖罪だ。お前がどうこう口にすることじゃない」
確かに彼の言う通りで、俺には関係ない。先生と生徒の関係だ。しかしだからといって引くつもりは毛頭ない。
「贖罪ってどういう意味ですか。それにそうだとしても、あなたの気持ちはどうするんですか?」
そこで初めて彼の口は止る。しばらく何も話すことのない沈黙が続く。
次に口を開いたのは先生だった。悔恨の情をその口から聞くことになる。
「お前は知らないかもしれないが、棟方紗夜は去年まではこの学校で知らない人はいないくらいに有名だったんだ。だが、あるきっかけで彼女は学校に来れなくなった。きっかけはよくある話だ。ある女子生徒が好意を寄せていた相手が、棟方を好きだった。ただそれだけ。高校生にもなっていじめなんて幼稚な行為、しかここは一応県内でもトップの公立高校だ。それなりの常識のあるやつしか入っていないと思っていた。これも今じゃただの言い訳だな」
言うたびに彼は自分の過ちを振り返っているようで悔しさをにじませていた。
「俺はあいつの担任だった。もちろん、あいつが日に日に弱っていく姿も見てきた。だけどあいつは頑なに何があった言おうとしない。そして、取り返しのつかない時にはもう学校に来なくなっていた」
「なら、今彼女が保健室にいるのは」
「あれは俺が毎日彼女の家に見舞いに行ったんだ。ご両親には迷惑だということは分かっていても何かやらないといけないと思ってその頃は必死だった。おかげで保健室に来られるようになって良かったと思ってる。別にもう教室に行ってほしいとは思ってない。でも、高校だけは卒業しないと。親にもそれを説明したら受け入れてくれた。だから彼女は卒後まで保健室登校するつもりだ」
「そうだったんですね」
彼女が学校に来ているのは先生に心を寄せているということも要因になっているということ。つまり、距離を離しすぎても近すぎてもそれはお互いのためにならない。 だが、先生にとってそれが最良の選択なのか。そう思ったから先生はこんなことをしているんだ。感情と責任が板挟みになって動けなくなっている。
そう簡単に踏み込める話ではなかったんだと、七瀬は心の中で反省する。だが聞いてしまった以上、いっそのこと式屋先輩のことは白黒はっきりする必要がある。
「俺たちは、棟方先輩のことに対して何かを言うつもりはありません。だけど、好意を先生に向けているのは彼女だけじゃないということだけは知っておいてください」
俺は言うだけ言った。あとは式屋先輩が頑張るしかない。
先生にお辞儀をしてその場を立ち去ろうとしたとき、先生が俺を引き留めた。
「そもそも、生徒に好意を寄せるなんて間違いじゃないか?俺は24のおっさんだぞ?」
「それでおっさんは言いすぎですよ。それに誰にもばらさなければいいじゃないですか」
「……そうかもしれない。だが倫理は犯せない。だから、もしその相手が式屋さんなら言っておいてほしい。すまないが今は付き合えない。だけど式屋。いや、」
扉が開く。自然とその眼は音がする方へと移った。俺は彼の口を閉ざそうとしたがもう遅い。ゆっくりとあいたその音に気づいたのは俺だけだった。
「紗夜。お前が好きなんだ」
俺はそのときどんな顔をしていただろう。その場で立っていることしかできない。大人は思っているよりも良いものではない。それが成長しているのだとしても。
言伝を渡した彼は保健室に戻ろうとして振り返る。
「先生?」
涙を流して立っている彼女を前に、掛けられる言葉などあるはずもない。
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