新人類

浅川

第一部「すきま」

1

 校庭からガヤガヤと賑やかな声が聴こえてくる。ちょっと前までは引き締まった掛け声が耳に突き刺さるようにこちらへこだましたが今はその緊張がほどけて解放感に満ちていた。

 腕時計に目をやると時間は夕方六時。部活に励んでいた生徒達が撤収を始めたのだろう。

 正面の窓を見るといつの間にかこの時間帯になっても空は若干、明るさを残している。

 胸を張り凝り固まった部位をほぐす。そろそろ俺も帰るか。机の上に置いてあるマグカップの取っ手を掴み残りの冷めたコーヒーを飲み干す。

「石田先生、そろそろお帰りですか?」

 顔を見なくてもその声だけで分かる。家永いえながみなみが優しく耳元で囁くように話かけてきた。それだけで舌打ちをしたくなる。また途中まで一緒に帰らないかと誘おうとしているのだろう。

「家永先生、まだ残っていたんですね。今日もバスケ部の練習を見てたんですか?」

 椅子を半回転させると思ったより家永が近くに立っていたので苛立ちは倍増された。

「はい。今日は桑田コーチが用事があって来れないってことで私が昨日に引き続き担当することになりました。とは言ってもただ桑田コーチから渡されたメニュー表に沿って練習しただけなんで他の部活より早めに終わらせたんですけど、きっとこの時間まで自主練していますね」

「大変ですよね。ろくな経験もないスポーツの部活動を担当するのも」

「でも、さすがにこうしてやらせてもらえれば嫌でも知識は付いていきます。最近は私のアドバイスは新しい視点で新鮮だって生徒達から言ってもらえるようになったんですよ」

 何事も前向きに捉えて模範的な意見を溌剌はつらつと述べているが、それが好感度を少しでも上げるためにやっていることは見え見えだった。そんな下心があるだけでどうしてここまで嫌悪感がわくのか?

 それは、プラスして家永が自分のことを美しいと鼻につくほど自覚してその美貌に自惚れているからだろう。

 おかげでそれを見透かしている女子生徒からはかなり評判が悪い。決して教師としての資質に問題があるわけではないので一部に留まっているのが救いだが。

 一方、男子生徒の大半は好意的なのは分かりやすい。美人であるのは認めざるを得ない、四十歳を目前に控えてあの若さを保っているのは本人の努力はもちろん、中身も清く美しい証だと憧れの的になっている。

 訳あって前任が一年でいなくなり二年生から英語を担当することになったので、家永に褒めてもらうために一年生の時は英語嫌いだった男子生徒が急に猛勉強を始めたり、中には本気で恋をしてしまった男子もいるとかいないとか。

「自分なりに出来ることを考えて実行するのは頭が下がります。私もその姿勢は見習いたいものですね」

 と言い残して立ち上がりトイレへ。家永はわずかに一歩、足を踏み出して何か言いたげだったがなんとかそのまま話は繋がることなく職員室から出ることに成功した。

 扉を閉めて、廊下に出た途端に露骨なため息を吐く。あんな美人から言い寄られるのは男として光栄ではあるのだろうが、単純に好みではない。

 申し訳ないが歳もやや離れているのはそれだけでネックになっている。これが年下であったなら変わっていたのか? そんな低俗な品定めに時間を使うのは無駄なので掘り下げたことはない。

 こっちはその気がないのに恋愛関係を求めてくる異性と接するほど疲れることはないだろう。

「ねぇ、やっぱりH中学校内で自殺した教師ってあいつだったみたいよ」

「えっ、先月の練習試合でウォーミングアップからギャーギャー怒鳴っていた奴? マジで、信じらんない」

「だよね。むしろ誰かを自殺したくなるまで追い込んでいる側だと思っていたけど……」

 ゾッとする会話が廊下に響く。階段を上っている二人組の女子生徒。踊り場を通り過ぎて二階の教室へ向かったのか、そのあとの会話は聴き取れなかった。

 誰かは知らないがご近所であるH中学校に勤めている教員が先日、校内のどこかで首吊り自殺をした。

 それは全国区のニュースとしても取り上げられたので翌日は職員室でも生徒と同じように大騒ぎだった。

 この事件が異様だったのは会話の通り学校内で、しかも放課後に自殺を図ったことだ。自殺をするにしてもなぜ職場で、放課後に自殺を?

 これが意味することは相当、職場に不満を募らせており何かを訴えたかったからだろうと推測できる、のだがこれも首を傾げてしまう。

 これまたあの二人の言葉を借りるなら、どちらかと言えば自身が他人を自殺に追い込む側の人間だと恐れられていたからだ。

 そんな奴が逆に追い詰められて自害させるほどの猛者もさがあの学校に居るというのか? それは考え難いというのがおおかたの見方だ。

 強い恨みを持つ者がいたとして、そいつに殺害された方が腑に落ちる。それはそれで大事件なわけだが。

 世の中、奇妙だと思う事件、事故はいつの時代も起きている。これもそのサイクルの中の一つとしてその内、忘れ去られるのだろうが引っかかる点が俺にはあった。

 事件の内容自体は実に痛ましいものだが、が訪れたのもまた事実であろうから。

 そこに光明がある。

 この事件を心のどこかで祝福している人達がきっと大勢いる。そう思うだけで、その喝采の声が今にも聴こえてきそうだ。現にあの二人はどこか嬉しさが、いやもっと卑しく、ざまぁみろと本音が滲む声で話していた。

 本当に、その教師は自ら命を絶ったのであろうか。

 違うなら誰かが仕向けた、どうやって? 

 ……馬鹿な考えはよそう。平和が訪れたならそれでいいじゃないか、探偵気取りで推理するほど暇じゃない。


 職員室に戻ると部活動を終えた何人かの先生達が戻って来ていた。

 身構えるように辺りを見渡す。家永の姿はなかった。諦めの良さにいささか拍子抜けしたが、これでいいんだ。何事も平穏が一番。

 と思った矢先、悪寒が足の裏から背筋へつたう。

 自分の机にメモ書きが半分に折り畳まれて置かれていた。メモの内容を読んでみるとやはり……。


石田洋一朗いしだよういちろう先生へ 

 生徒から相談を受けたのでどこか空いている教室へ行きます。十五分ほどで済むと思うので待っていただけると嬉しいです。家永みなみ』


 ご丁寧に商品として売られているであろう角に青い薔薇がプリントされている便箋を使用していた。明かに女性だと分かる丸みを帯びた筆跡。

 ルンルンと音符を出しながら書いている姿が浮かんできた。わざわざフルネームで書きやがって。

 濁った水が胸になだれれたと同時に、澄んだ透明な水も確かに混じっていた。

 生徒からご指名されて相談を受けるような先生でもある。眼鏡をかけた見るからに気の弱そうな女子生徒に対して親身になって話している姿を廊下で見た時は素直に感心した。

 きっとあの時も生徒から話しかけてきたのだろう。つい悩みを抱え込んでしまいそうな生徒でもこの人ならと相談したくなるオーラがある。これは教師にとって強みだ。

 ここまで人によって評判が極端に分かれる先生も珍しいかもしれない。

 俺は一人の同僚としてなら何ら問題はないが、それ以上の関わりは持ちたくない。それで評価が下がってしまうのは残念ではあるが、変に勘違いさせて期待させてしまうよりはなから無関心の態度を示した方が本人のためだとこれまでの経験で学んでいる。

 俺は無視を決めた。メモに気が付かなかったとか言い訳などいくらでもできる。

 急いで帰り支度をしている途中、ふと動きがピタッと止まる。

 このメモを机の上に置いたまま帰るなんてして良いのか。良いわけがない。

 困ったと頭を掻きたくなる。かと言ってゴミ箱に捨てるのも俺がメモに気がついた証拠になってしまう。そもそもこんなメモを他人に見られたくない。こんな格好の噂のネタになるメモを学校内で捨てるのは賢明ではない。自宅で処分をするべきだ。

 立ち尽くし、このままここにずっと居るのもまた賢明ではない。俺はメモを適当に鞄の中に放り込み職員室を去った。

 メモを読んだ上で立ち去った。それで嫌われたって構いはしない。

 職員用の下駄箱から靴を取り出して履き替える。正門の前、周辺ではいつでも帰れるように荷物はまとめて、体操着を着たままの生徒が三つほど塊を作り雑談をしている。

「石田先生、お帰りですか?」

 半袖の白いTシャツに、長ズボンのジャージ姿の陸上部でコーチをしている村上さんが生徒の話し相手をしている最中さなか、俺に声をかける。

「はい。お先に失礼します」

 一言、挨拶を済ませて集団の中を潜り抜ける。なぜか体が縮こまっていた。無邪気な笑みを浮かべる生徒の面々。

 あの中にも心に悪魔を宿している者はいるのだろうか……。

 不意に振り返る。何か、黒い影が俺の横を通り過ぎた気がした。

 これは全てが気のせいで終わる。俺には何か他の人には見えていないものが見えているのではないか、そう弄られる時もあれば真面目に「どこを見ているの?」と心配されたり、怖がられることがある。

 自覚はある。

 最近はその頻度が増えている気がする。遂にはこないだ、授業中に銀色に光る点が幾つも頭上に降り注いでいるのを見てしまった。あれを気のせいで済ませていいのであろうか。

 あんな現象は初めてだ。数秒、静止していたのは間違えがない。つっこまれることはなかったが生徒達はどんな目で見ていたのか

 すっかり暗くなってしまった空を見上げる。何かが迫り来る気配。そんな予感をしているのは俺だけであろうか。

 また歩き始めようと一歩を踏み出した瞬間、首に何かが引っかかった。

 ロープを巻きつけられた時にする動作のように両手でその正体を探った。

 忙しなく両手を動かしてややその正体をつかむのに時間はかかったが、実体は掴んだ。

 これは、蜘蛛の糸か? 弾力、粘り気のある思いの外、太い糸だった。なぜこんなものが。また空を見上げる。

 どこからやって来たのかは分からないが、これは。物理的な、確かな物体のはず。

 ……この糸が首にかかった瞬間、そのまま空高く吊るされる俺の姿が脳裏をぎったのはなぜなんだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る