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バス停へ向かっている途中、通りすがりの男に呼び止められた。
「あの、すみません。ここら辺にミツタ工業って会社があるのはご存知でしょうか?」
肥満体型で、身長は平均よりやや下か。黒いスーツを着ているとなぜだかさらに冴えない印象が際立つ男だ。
俺の直感がこの人には関わらない方がいいと訴えているが、質問の内容には答えられる範囲で答えななければ人として駄目だろう。
「ミツタ工業……いや、聞いたことないですね。そもそもここら辺って住宅街で会社自体が少ないような……小さな事務所しかないような会社ならあると思いますけど」
「いえ、建物自体はそれなりに大きいみたいです。バス停から歩いて三分以内に着くらしいんですけどそんな大きい建物、見当たらないよなってずっとうろちょろしているんですよ」
男は首筋を掻きながらスマホの画面とにらめっこしている。もしかしたら地図を開いているのかもしれないと思い貸してもらった。
「あっ、ここって……申し上げにくいですけど、ここからだいぶ離れていますね」
「ええっ、どうして。駅からバスに乗って一本、そこから直ぐに着くんじゃないんですか!」
「その、バスを乗り間違えたみたいですね。あなたの行きたい所へ行くバスに正しく乗っていればこんな所までは来られないので」
「そんなー。でも、言われた通りの地名行きのバスに乗ったんですよ」
「確か、着く区域は違うけど同じ地名行きのバスが二つあるんですよね。会社が別だから被ったんじゃないかって言われていますけど……」
「なんでそんなややこしいんだよ」
ミスをしてしまったと判明して顔を真っ赤にして激昂したような態度をとる。こうなってしまった人間にはやはりなるべく関わらない方がいいのだが、この男がまた仕切り直してそこへ行くとなれば、道のりは同じ。最悪だ。
「えっ、じゃあまた駅まで戻らないといけないんですか?」
待てよ。そこまで戻らなくてもいいんじゃないか。俺は地図を指で動かして模索してみる。
「いえ。途中まではそんな大きく外れたルートではないので……あっ、ふるさと村自然公園入り口というバス停で降りれば、そこから歩いて……十五分ほどで着きますね」
「ふるさと村自然公園入り口……そんな名前のバス停あった気がするな。そこから十五分なんですね」
いや、実際の時間はスマホ画面上の地図を見ただけでは判然としない。かと言って大きく外れた所要時間でもないはず。俺は徒歩十五分で通した。
「はい、ちょっと遠くなりますが駅まで戻るよりはマシですよね」
と、男のスマホを返す。
「分かりました。ありがとうございます」
やりきれない不満をなんとか抑えてそうだが一応、礼儀として頭を下げた男の動作はぎこちなかった。
ともあれこれでいなくなってくれるとホッとしかけたが、男は頭を上げたらいきなり俺の顔を気持ち悪いくらい舐め回すように観察した。
「もしかして、どこかで一度会ったことあります?」
何を言い出すんだ。あるわけないだろう。俺がここまで生理的に拒否反応を示す男と以前に会ったことがあるなら、忘れたいところだが忘れるはずなどない。
「いえ、気のせいだと思います。今日、会ったのが初めてでしょう」
「ですよね。こんな抜群のスマイルを絶やさない人、忘れるはずありませんもんね。失礼しました。でも、なんか初めて会った気がしないんだよな」
どうも釈然としていないようだが今度こそ、その男を見送る。
難は去ったわけだがこのまま俺も歩き始めればバス停でまたお会いましたねと早すぎる再会をすることになる。
この流れを無駄にすることはないか。乗るバスを一本後にして帰ることにしよう。
思わぬ時間ができてしまった。職員室で立ち尽くしたように俺はまた棒立ちをくらう。こんな姿を帰宅する生徒達に見られるのも恥ずかしい。亀のようなスピードでも前へと進むとするか。
側頭部、右側に違和感が。頭を水分を弾く犬のようにブルブル振る。
先ほどの蜘蛛の糸がまだ残って絡まっていたのか。身体から取り除けたのか分からなかったが、異物の感触は無くなる。
ちょうど街灯の真下に入った。右手を光に照らすとその蜘蛛の糸と思われるものが人差し指の爪に引っかかっており弧を描くようにゆらゆらとうねる。
「石田先生、そこで何をしているんですか?」
一難去ってまた一難。そうか、後ろにはこいつが控えていたか。
しかし、変な所を見られてしまったな。
「家永先生。生徒の相談はどうでしたか?」
俺のことは気にするなと言わんばかりに間髪入れず別の話題を投げかける。そうだ。俺はあのメモを読んだ上で先に帰ろうとしたんだ。
「お待たせしました。はい。ちょっと授業で出した課題のことで、時間がかかりそうな相談だったので、私が部活で時間を取らなくてもいい日に改めることにしました」
お待たせしました、というのはどういうことだ。気になる一言であったがそこに触れるのはもう遅かった。
「そうですか。家永先生は好かれていますね。僕なんか授業以外で生徒に話しかけられたことなんて一度もない」
「そんな自分を卑下しないでください。石田先生が常に生徒のことを考えているのは私は知っています。今日だってわざわざここで待ってくれたんですよね」
さっきから何を言っているんだ。俺がここに居るのは生徒のことを考えて? あの意味深な言葉といい、まるで
「どういうことですか?」
「だって、私もそこまで気が回らなかったんでさすがだなと思いました。結局その子、校門の前で直ぐに別れることになっても私と一緒に帰るって聞かなかったので、一緒に学校を出ました。もしもそこに石田先生も加わったらちょっと気まずい空気になっていたかもなーなんて想像したので。私がいつも通る道で待っていてくれたのはさすがです」
なんて都合の良いように解釈するんだ。
なるほど。下校時刻が迫る遅い時間に生徒と先生が一緒に過ごせばそのまま共に帰ることもあるわけか。
すっかり馴染んでいる空気に飛び入りで第三者、しかもろくにコミュニケーションを取ったことがない先公がやって来たらその空気をぶち壊す、有り得ない話ではない。
「いや、まぁ、なんか校内で待っているより道中で合流した方が自然かなと思っただけです。そこまで考えていません」
妙な圧に気後れして俺は待ち合わせに同意したことにしてしまった。これは失態だがもう修正はできない。
「生徒の前ですもんね。あんまり浮ついた姿を見せるのは良くないかもしれませんね」
照れ臭そうに言いやがって。浮ついているのはお前だけだ。
バスの中。一番後ろの席に座ろうとしたがその前の二人用の席に座ろうと誘われた。後ろの席から順に席を埋めていきましょうとか言って拒否する気力はなかった。
家永の気持ちに確信を持ってしまってからというもの、積極的に会話をする気が起きなくなった。
しばらくは無言でもいいだろうとこっちは思っていたが、「石田先生。さっきは何を見ていたんですか?」とその質問にはもっと深いニュアンスが含まれているかもしれないと感じた。
今日、初めて家永と目を合わせたかもしれない。先ほどの浮つきとは打って変わってその真剣な眼差しはやはり、これまで遊ぶようにつつかれた茶化しとは訳が違うと興味をそそられる。
「何を見ていたのかと聞かれたら、蜘蛛の糸だと思います。なぜか頭に絡まっていたので」
試しに文字通りに答えてみた。これでなんだと納得するならそれで終わりだ。
「蜘蛛の糸ですか。それにしては随分、神妙な顔つきでしたね。なんか、存在を確かめるようにというか」
「なんでこんな所で蜘蛛の糸に引っかかるんだろって不思議に思ったからじゃないですかね」
「確かに。不思議です」
俯き、思い通りにいかないもどかしさを表しているのか唇をギュッと噛み締めていた。こんなモジモジしている家永は初めてだ。俺の前では過剰なまでに明るく努めるのに。
「私、たまに変なものを見るんです」
言いたかったのはこれだと意を決したのか、満を持して飛び出した告白。今は恋する家永ではない。
「変なものとは?」
「うーん、なんか宙を魚みたいに泳ぐ
同じだ。家永は俺と同じなのではないかと察知してこんな事を打ち明けてくれたとしか思えない。
「もしかして、僕も同じものを見ているんじゃないのかって思っています?」
スーっと首を上げる家永。
「……はい。石田先生をふと見る度になに見ているんだろうって思うことが何度もあるんですよね。生徒からもたまに聞きます。石田先生は授業中たまに別世界を覗き見ているかのようにあらぬ方向を見ているからなんか怖いって」
自覚はあるとはいえ俺の不気味さがよく伝わる表現で自虐的に笑ってしまう。
「家永先生も僕と同じだとするなら、なぜ家永先生はそんな風に生徒から怖がられないのか是非、教えてほしいですね」
口を右手で押さえて噴き出す家永。そんなに可笑しいか。
「えっと、私は我慢しているんだと思います。いちいち反応しないように」
「他人には見えないものが見えているんですよ。よく我慢できますね」
「実はそんな現象はそれこそ幼稚園に通っている頃から続いてて、もうこの歳になると慣れたんだと思います。石田先生はいつ頃からですか?」
「そんなに早くから。僕は
「なるほど」
「しかも、最近になってその頻度が増えている上、より鮮明に見えるようになった気がするのです。家永先生はそのような変化はありましたか?」
『まもなく、ふるさと村自然公園入口。お降りの方はバスが停まるまでお立ちにならないようお願いします』
車内に次のバス停に着くことを知らせる機械音声が流れる。そこはあの男が降りたであろう停車所だ。それを耳にして反射的に意識がそっちに持ってかれた。視線を窓の外へ。その自然公園の入り口だと一目で分かるアーチ状の看板が数十メートル先にあり、ライトアップされていた。
「どうかしましたか?」
集中力が切れた様子を見て家永が質問を投げかけた。
「いえ。こっちから聞いておいてよそ見してすみませんでした」
俺としてはどうなろうと知ったことではないが、予定外の道でもしっかりと辿り着けたのか今更ながら心配になった。
あの男は地図を見てはいたものの、GPS機能はオンにしていなかった。それをオンにしていれば現在地と目的地の距離が判明して自分が見当違いの所に居ると他人から指摘されなくても気が付くことができたはずだ。それ以前に地図の正しい見方が出来ているのかも怪しいが。
無事に着けるようにと祈りを込めて最後にもう一度、窓の外に目をやるタイミングでバスが停車する。
向かい側には上りのバス停があった。
そこに真っ白な少女がぽつんと居た。
飛びかかるように前のめりになり壁となっているガラスを両手でピタッとつけてしまった。しまいにはおでこまでつけて俺は仰天する。
「ちょっと石田先生?」
その声は意味を成さない音に過ぎない。家永に醜態を晒したことなどお構いなしだった。
バスが動く前に……そう思うといつまでも座っている場合ではない!
反転したと同時に家永と衝突してしまう。いかに動転していた思い知らされた。
家永の胸に飛び込んでしまった形になり顔と顔が数センチまで接近してしまう。その瞬間、家永がニヤっと、満面の笑みを浮かべたのを見逃さなかった。
それでガクンと力が抜けたのか倒れ込むように家永の太ももに上半身が着地しようとしたが目の前の黒い手すりに掴まりなんとか踏ん張る。
プシューと音を立ててドアが閉まる音。バスは次の目的地に向かって発車した。
あの少女は、俺の記憶が正常であれば……そんな馬鹿な。
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