第13話 私が飛べる海は
ガランガランガラン!
バケツは通路に転がってから、中のエサごと水に落ちた。固まって降ってくるエサにとまどうように魚たちがかわるがわるつつく。
水そう上の通路から転げそうになった私の腰には、撫子がしがみついていた。上半身を完全に乗り出してしまった私は、通路に戻ってヘタヘタと座り込む。
もう落ちたと思った。怖かった。
「ハコベちゃん、だいじょうぶ?」
「……ありがと」
私は涙目だ。こんなことがあると、あの日の窓辺を思い出してしまう。ムリ。
こわばった顔のレイくんも私の所に来てくれた。そして私の手をつかんで立ち上がらせようとする。
「ここ、嫌だろ。あっちに」
「ハコベちゃんにさわらないで!」
撫子がレイくんの腕を叩いた。青い顔でレイくんをにらみながら私の肩を抱きしめる。さっきまで飼育員だった撫子は、また中学校の制服姿に戻っていた。
「ナデシコ……?」
「ハコベちゃんは、私のなんだから」
どうしたんだろう、へたり込む私より、必死にしがみつく撫子の方が弱々しく思えた。レイくんは私の手を放して撫子をじっとにらみ返している。
「ハコベはハコベだろ。ハコベが大事なら落ちそうな所なんかに連れて来るな」
「なによ! 私あなたのせいで――!」
そこで撫子はくちびるをかんで黙った。私をつかむ指が、すこしふるえていた。
『はこべちゃんは、友だちがいっぱいいるよね』
渡り廊下の掃除当番だった時、撫子が言ったことがある。外だし、いろんな子が通りかかっては声をかけてくるんだ。
『んー、でもあいさつするぐらいだよ? 友だちっていうか、知ってる人って感じかなあ』
『私は、あいさつする人もあんまりいない』
竹ぼうきを静かに動かして砂をはき集めながらポツリと言う撫子に話しかける子は、その日たしかにいなかった。
『……撫子は、人とちゃんと向き合ってるんでしょ。私なんて広く浅くしか人づきあいしてないような気がするよ。そういうのも、どうかと思う』
『私とも浅いつきあいなの?』
『え、そうじゃない……と思うな。いちばんいろいろ話せるのは撫子だし』
あの時、撫子はとてもうれしそうに笑っていた。
『私、はこべちゃんがいればいい。はこべちゃんが私の特別なの。私は他の人の特別にはならないし、はこべちゃんの特別でいたい。私だけがはこべちゃんの特別だといいな』
にらみ合う撫子とレイくんの間に青ざめた私が入り、バックヤードから出た。一般客用の順路に戻るとそこにあったベンチに並んで座り、休けいする。
目の前の水そうにはペンギンたちが泳いでいた。かわいくヨタヨタとパレードしていたヒゲペンギンも、水の中ではすばやい。
見上げるとさっきのペンギン飼育場の水辺があった。あそこはこのプールにつながっていたのか。
水族館って意外と高さのあるつくりになっているんだな、と私は思い知った。深い水そうがあるのはわかっていたけど、その上にスタッフ通路があるなんて。そしてまさか、そこから落っこちかけるなんて。びっくりだよ。
私はやっと笑えるようになって、ふう、と息をついた。
ペンギンは水に飛び込むととたんに軽やかに動く。
まっすぐに進み、キュインと曲がって急上昇し、その勢いのまま陸に飛び出す。
とても、きれい。
上がった陸ではヨチヨチしているのに、水中ではどうしてこんなに自由なんだろう。本当に飛んでいるみたいだね。
「ね。ペンギンは飛ぶでしょ」
私が思っていたのを見すかすように撫子が言った。
「うん。すごい」
私はうなずきながら思い出していた。
あの日も撫子は、そんなことを言っていたな――。
『空に行こうよ。はこべちゃんも』
『飛行機で? CAさんにでもなるの?』
英語しゃべる自信ないよ、と言う私に、撫子は首を振った。
『私、自分で飛びたい。ペンギンが飛ぶみたいに』
『ペンギンが飛ぶ――前に言ってたね。海を飛ぶって』
『そう。私が飛べる海はあるのかな。飛べる空は』
よいしょ、と窓枠に座った撫子は夢を見るような目をしていた。キラキラと、ほほえんで。
『あぶないよ』
私は撫子に手をのばす。すると撫子は空に手をのばした。
『飛びたいなあ。きっとあるの私の空は、そこに』
――そして撫子の体は、空に吸い込まれるようにグラリとかたむいたんだ。
私はとなりに座る撫子を見つめた。ペンギンをながめる楽しそうな横顔。
どうして。ねえどうして。
「ナデシコは、だから飛んだの? 空に」
ちらりと私を見て、やっぱり今日も撫子はほほえむ。
「ナデシコ――死にたかったの?」
「ううん。そうじゃないよ。生きても死んでも、どっちでもよかった。私が飛べる空を探していただけ」
撫子は立ち上がって、ペンギン水そうに近づいた。
泳ぎまわる、飛びまわる自由な鳥たちを見上げる撫子の背中はピンとしていて、私はそれでとても悲しくなる。
「ペンギンが飛べる空は海なの。私の空も水の中ならもぐる。私の空が窓の外なら、乗り越える。それだけだった」
「……わかんないよ。わかんないよ、そんなの!」
私がいたのに。目の前にいたのに。どうして私は撫子を助けられなかったんだろう。私の目からは涙がこぼれてしまった。
「飛ばなきゃだめだったの? なんでそんなに苦しかったの? 私に教えてくれてもよかったじゃない、友だちだと思ってたのに!」
「友だちだよ。ハコベちゃんは私の、だいじな人」
撫子は振り向いて静かに笑う。そして私に手をのばした。あの時みたいに。
「ね、ペンギンさんたちの水そうに入ってみよ? 飛んでるところ、もっと近くで見たい」
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