敏感に障る五感
薄汚いビルの裏側、手の付けられない空き地に目撃者などいない。破れた網フェンスを切り裂いて、自然と同時にそれぞれが背を向けてメガハートポリスへと肉薄する。
彼らが通信機を手に取るよりも早く刃が一閃を描いた。
「がッ…………」
レーヴェの仕留めた敵が呻き声を漏らして崩れ落ちる。緋色の軌跡に撫でられた敵は、死んだ事にも気付かないようにそのままだった。血の一滴すら流れていない。それでも指で突けばバラバラになって崩れるだろう。
「このまま下水道を経由する」
エストはレーヴェの様子を確かめもしなかった。
シルヴィは自嘲しながら胸を押さえた。
握ったままの拳銃、二人が一瞬で仕留めることなんてわかり切っていたから、引き金に指を当てることもなかった。
そのことを分かって欲しくて、ぶんぶんと大袈裟に手を振ったら、戒めるみたいに鋭い視線が突き刺さる。
「ぐぅ。私だって信じてるもん…………」
不満を零したがいつものようにスルーしてくる。でも、メスガキとしてはこういう対応をされた方が構って貰えてるってことになる? ――何考えてんだろ私。
「呆けるな。足を滑らせるぞ」
蓋の無いマンホールの中へ、梯子を滑るようにエストが降りていく。追うようにレーヴェが飛び降りて、あとはシルヴィだけになった。エストが怪訝そうに見上げてくる。
「……降りられるか?」
「ふん、ここより数十倍は高いところから飛び降りさせたくせにぃ、今更何言ってるの? 余裕に決まってるじゃん。それとも? もしかしてそうやって動機を作って私を見上げて見たかった? へ、変態さん♡」
梯子を慎重に伝いながら煽るようにヒラヒラとスカートを揺らす。揺らしてから、視線の位置が構わず微動だにしないことに気づいて恥ずかしくなってとっとと滑り降りた。
「……見た?」
「見ない方が良かったのか」
「そうやってとぼけてまでガン見したかったんだぁ。そんなに見たいならもっと近くで見せてあげよーかぁ?」
――本当は見せたくない。恥ずかしい。でも、恥ずかしさを表に出す方が恥ずかしくて弱っちく思えるからいつものメスガキの仮面で誤魔化す。どんな状況だってそれは変わらない。
「うわ、わぁ……。そういうのよ、良くないと思うよ? えっと、シルヴィ……さん」
レーヴェは慣れていないらしい。困惑するように手と視線が泳いで、たわわと揺れる。――無垢だ。それを隠す様子も取り繕う様子もない。
「……羨ましい」
吐き出すみたいにシルヴィはぼやいた。遅れて周囲を見渡して、すぐ足元で転がっている浮浪者を見下ろす。
「……酩酊してマンホールに気づかず落ちて骨を折っただけだろう。無視でいい。そのうち誰か来る」
エストはすぐに歩き始めた。シルヴィは慣れないように周囲を見渡しながら後を追った。
じめついて薄暗い地下を音もなく進んでいく。整備され等間隔に伸びる十字路。雨風を防げるからか、地上よりも浮浪者やらの数が多い。すぐ隣を流れる下水とは別に、ツンと不快感を煽る異臭が漂い続けている。
「うへぇ……。ここ嫌い。いつまで歩くの?」
シルヴィはやつれた表情で周囲を睥睨し威嚇した。下水道に住んでいる輩の好奇の眼差しやら品定めするような視線、異端な存在への嫌悪感を隠そうともしない奴。臭いよりも肌に突き刺さってくる。
「……気配が障るのか。長居はしない。我慢しろ」
エストは悟られないようにシルヴィを一瞥したが、覆い隠した僅かな気配にすら呼応するように赤い瞳でガスマスクをジイっと見上げる。
「どうしたの? 私がぁ……可愛いことに気づいて構って欲しくなっちゃった?」
へなへなと脚を揺らして蠱惑的な声を発するシルヴィに強さを感じられる気配はない。今まではハッキリとしなかったが、むしろ弱々しく見せているようにも思えた。
「……殺意でもなければあまり気に取りすぎるな。疲弊するぞ」
警戒すべきなのか、過剰な心配だったと溜息をつくべきなのか判断がつかなくなる。
――こんな考えをして、何ら関係もないはずのこの少女を連れ歩いてしまっている時点で便利屋としては二流以下だ。感傷や隙を生むことになる。いちいち気に掛けていてはキリがない。
「しばらく仕事は控えるべきか……」
思考を纏めるようにぼそりと呟く。幸い、誰にも聞こえた様子はない。シルヴィは向かう視線へ鬱陶しそうな溜息をつくとモゴモゴと口の中を気にし始める。
気配への感知。垣間見える殺意。反して子供のように集中に欠け、警戒の欠片もない。チグハグした二面性を見ていると頭が痛くなる。
「エストぉ、後で【緋色の剣】で髪切ってよ。なんか、長くなった気がしてちょっと鬱陶しい。ほらほらぁ、そしたら私の切った髪ぃ、あげるから。クンクンしてもいーよぉ?」
瑠璃、薄紫、桃色。長い髪は靡き揺れるたびに色彩を鮮やかに変え続ける。――皆の髪とは違う。
「他人が持つ刃物を信じすぎるな。……ハサミでなら斬ってやる。戦闘において長い髪は不利になる」
「女の子の髪の毛触れて嬉しい~?」
「自分の髪の毛ぐらい自分で切るべきだ」
言い切ると同時、下水道を出た。梯子を登ると僅かに外は眩しい。淀んだ曇天の切れ間から薄白い陽光が照らしている。
相も変わらず薄汚れたビルの裏。ゴミ袋の積まれた狭い路地を進んだ先が目的の場所だった。特徴もないぼろっちいアパートだ。エスコエンドルフィア製薬のビルから見下ろせる有象無象の中でも塵芥のような建物。
「うわぁ……こんな場所あるんだね」
感嘆するようにシルヴィは呟いた。好奇心を満たすように周囲を見渡すが打ちっぱなしのコンクリートの壁と床と天井。それでおわり。
トレーラーハウスよりは広いが、あそこ以上に何もなかった。
「置いてきちゃった荷物ってどうするの?」
「どうしようもない。思い入れもない」
盗聴器、カメラの類の有無を確認しながら淡々と答える。
「お酒、あんなに造ってたのによかったの?」
「構わない。飲むわけでもない」
食い入るような即答。本当にどうでもよかったらレーヴェの分も、私の分も造ってないくせに。
「まっ、そういうことにしてあげる。また、造ってね? 甘くておいしかったし」
シルヴィは牙を見せてヘラヘラと笑ってやった。気遣うぐらいならこうして無遠慮なほうがお互い気も楽だった。
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