噛み合わない黒と緋

「ちょっほ……! 痛ひゃ、痛ぃへふへほ」


 シルヴィが不満げに睨む。頬を引っ張ったことへの抗議はあるが、足元のナイフに気づく気配はない。……考え過ぎたらしい。すぐに手を離すと、大袈裟なくらい頬を擦って彼女は涙ぐんでいた。


「すまない。少し気がかりなことがあったから確かめさせてもらった。問題はない。好きに食えばいい」


「こんなことパパにだってされたことない…………!」


 けれど、緊張は解れていた。変な人だけど悪い人じゃない。……なんの確信もないけど。


 今も何もかもが訳が分からなかったが、シルヴィは深く考えようとはしなかった。彼が寄越したレーションを胃に押し込んでいく。


 正直、クソまずかった。しまりがなくだらけた味を調味料で誤魔化していて、その上パサついている。飲み物も……なんと言えばいいか、とにかく。塗り薬みたいな味がする。


 それでもなんとか食べ終えた。この人はいままでの人たちと違う。同じやり方はきっと通じない。丁寧に対応しないと。……助けてくれたし。


 シルヴィはしばらく黙り込んだままだったが。パクパクと魚のように口を動かして、深呼吸をつくと真摯な眼差しを向けた。


「……あ、ありがとう――――とか言うと思ったんですかぁ? 私が! ……泣いてたのは。あんたがその趣味わっるいお面つけてたから! しかもお尻抱えてぇ、そーんなに私の身体に触りたかったぁ?」


 シルヴィは――泣きたかった。自分の言動がどうにもならない。助けてくれたのに。普通にお礼が言いたかっただけなのに。


 なぜか普通の言葉が詰まって意地の悪い笑みを浮かべて嘲っていた。扇情的に腰を左右に振って見せる。恥ずかしいのに。頬が赤らむと誤魔化すみたいに歯止めが効かなくなっていった。


 普段から、こんな風に誰かを煽り散らしてれば。お仕置きだとか称してパパも研究者たちも甘えてきた。その瞬間だけは対等でいられたから。


 ――酷い言い訳。吐き気がした。


「……すまん」


 エストは抑揚の無い声で謝罪を口にするとそのまま気だるげに俯いた。


 シルヴィはジッと見詰めたまま胸を押さえる。格好いいって言いたかったのに。ありがとうって言いたかったのに。とにかくすぐに、何か言わないと。謝らないと。


「……ちが。…………あの、えっと。こんな幼い身体の女の子拉致ってナニしようとしてたんですかぁ? 変態。結局男の人なんてみーんな、下半身だけいっつも共振破壊砲♡」


 違う。最低。なんでこんなことしか出てこないの!?


 シルヴィは咄嗟に立ち上がって取り繕おうとしたが、出てきた言葉は煽り、バカにするものだけ。自分で言っておいて嗚咽が込み上げてくる。頭を抱えると牙が震えた。


「……無理してこんなさびれた部屋にいる必要もない」


 エストは少額の金と拳銃、食料を目の前に置いた。


 ――生き延びられるかは知らないが、選択の余地は与えるべきだろう。彼女が立ち去るなら、それ以上感傷の要因が増えることもない。


「ち、違う。違うの。えっと…………。バカ。バカぁ♡ 拳銃の使い方もこの街のことも全然知らないのに出て行ったら私がどうなると思ぅ? 捕まって、知らない人に捕まって滅茶苦茶にされるところが見たいのぉ?」


 染み付いた悪癖が暴走を続ける。シルヴィは赤らんだ頬を吊り上げて、ぐるぐると視線が渦を巻く中、短いスカートをたくし上げた。ふわりと揺れる桃色の髪。目頭が熱くなってくる。


 ――ここにしか居場所がないから、いさせて欲しいって懇願しようとした結果が。これ。ひどすぎる。


「条件が必要ならなんだってする。……ずっと、そういう役割をしてたから。貴方ぐらい簡単にぃ、のーみそトロトロにしちゃえるよぉ♡」


 これ以外の生き方を知らないから。私はまた自分を売った。けど今更なことで、躊躇いもなければこういうときだけはこの口調は働いてくれる。


「……趣味じゃない」


「女の子は対象じゃないの……?」


「そういう意味ではない。俺はキミの身体を好き勝手するために連れてきたわけじゃない。嫌なら出て行けばいい」


 エストは淡々と言い返した。言葉に混じる苛立ち。……自己嫌悪が胸を突き刺す。出て行かせれば、彼女はおそらく死ぬだろう。


 ――何も知らないまま死にたくないと言われたから。助けたのに。


「…………いたいなら勝手に居座ればいい。そこに対価を求めるつもりはない」


 悩んだが。付け足すように言い直してしまった。……便利屋を続けるなら他人と関わるべきではないというのに。


「なんで……何も求めないの?」


 シルヴィから嘲りが消えた。赤らんでいた頬は熱が冷め、表情が強張る。緋色の瞳が凛とした眼差しを向ける。


「必要なモノが特にない」


「で、でもそれじゃあ、私は何のために……造られたの」


 愛玩動物(ヴィヴィ)としての役目がなかったら、自分にできることは何もない。軽蔑されても、淫乱だと言われても。それしか私になかったからしてきた。


「知らん。自分の存在意義を他人への依存にするな。目的ぐらい自分で探せ。そもそも、キミが自由になりたいと言ったんだろう」


 ――見殺しにしないならもっと優しくできないのか? こんな言い方をしたって誰も得しない。いや、しかしこれでいい。関わってしまった以上は仕方ないが、深入りしない程度の距離は保てるはずだ。


 そう言い聞かせ滲む自己嫌悪を押し隠し、シルヴィを見下ろした。ガスマスクに隠れた表情が歪む。


 少女は口ごもるようにぱくぱくとギザついた歯を震わせると一層、幼い顔に影を差した。俯いたまま黙り込んでしまう。


 ……気まずい時間だった。

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