第2話 悪魔が生まれた日
「何のマネですザルトクス子爵!? 鍛錬と言うには悪趣味じゃないですか!?」
トモヤは石材で作られた台の上で手足を拘束されていた。
夜、いつものように就寝し、異様な気配を感じて、粘つくような眠気を振り切って目覚めてみれば、この有り様である。
かつての召喚時のまま、フード姿の術者を十人ほど引きつれた中年貴族――サルーイン・アルム・ザルトクス子爵は、もう口調を隠そうともせずに彼らの勇者へ嘲笑を浴びせた。
「……やれやれ、つくづく精神耐性が強固な事だ。眠っているうちに済めば、お互い楽だったものを」
「眠っているうち? 僕の意志は無視するというわけですか!」
「は! さんざん反抗的な態度で手間をかけさせおってからに、まだ言うか平民ごときが! ……しつけの悪い子供のお守りはもうたくさんだ。使い勝手は少々悪くなるが……致し方あるまい」
トモヤの胸に急速に嫌な予感がわき上がる。この男は……多分、自分の意志を……!
「やめろっ! 約束が違うぞ! 魔王を倒したら……無事に日本へ帰すと……! 何だ? 魔法……魔力が……通らない?!」
「ふん、何の備えもせずに処置を始めると思うか馬鹿者が。お前を縛っているのは『魔封じの鎖』上級デーモンの魔法さえ封じる代物よ。抵抗するだけムダだ。鬱陶しいわ」
それだけ言い捨ててサルーインは背を向け、術者にあれこれ指示を飛ばす。もうトモヤの感情に何の興味もない様子だった。
術者たちは、それこそ感情を捨て去ったかのように淡々と勤めをこなす。少年の声は一顧だにされずに、頭部を頑丈な万力で固定され、額に注射器状の器具が迫った。
「やめろ……やめてくれっ! あああああ~~~~! ちく……しょぉぉぉっ!!」
その瞬間トモヤは、召還されて以来初めて純粋な怒りを覚えた。それまでは、いくら身勝手に思える相手の言い分といえど理由はあるかも、などと考えていたから。怒りにまかせて魔力を解放した瞬間――石台は赤橙色の閃光に包まれ、魔封じの鎖は融解しながら砕け散った。
◇
「はっ……はっ……はっ……」
……恐らく危険領域まで魔力を消費してしまったのだろう。しばらくは体が動かないばかりか、感覚器官さえも働かなかった。どれだけの時が経ったものか。荒い息のまま、ようやく力が入るようになった体に鞭打って、トモヤは石台を下りて室内を見渡した。
かつて召還に使われた場所に思える。広さは中規模なコンサートホール程度だろうか。様々に魔法的な仕掛けが施されているらしいが、もう稼働してはいない模様だ。石台を中心に爆発が起こったかのようで、辺りの術者、設備は、放射状に広がった暴圧を受け、破砕されていた。
無論、この場の指示者、サルーイン・アルム・ザルトクスも同様に……体の孔全てから血を吹き出して絶命していた。
「…………」
サルーインの死に顔をながめながら、トモヤの胸に湧いたのは……乾いた疲労感だった。自分の人生をねじ曲げた男だった。それだけに飽き足らず、意志を持たない木偶人形に仕立て上げようとして、つい先刻までは殺意に近い怒りを抱いていた相手なのに、遺体を前にすると、ひたすら空しい。ただ『人を……殺しちゃったな……』その思いは実感を伴わないまま、脳裏に残響し続けた。
部屋から這い出て、薄暗い上り階段を伝っていく。部屋はどうやら地下にあったらしい。行く手に仄かな明かりが見えて、人の声が聞こえてきた。こちらの足音に気づいたらしい。
「どなたです? 私はマーサ。トモヤ様お付きのメイドです……」
「マーサさん! 僕です!」
マーサはトモヤと分かると、持っていた手燭を取り落とさんばかりに足下に置き、トモヤの胸に飛び込んで抱きしめた。
「心配したんですよ! ……お部屋におられなくて……。お屋敷の方も何人か、行方がわからなくて……」
「……ごめん、心配かけたね。大丈夫、僕はこのとおり、大丈夫だから……」
マーサの温かさに、一時トモヤは、地下での出来事を忘れ緊張を解いた。
「……トモヤさん、あの、旦那様をご存じないですか? どこにも、おられなくて……」
「ああ……子爵は……」
言いよどむトモヤ。何と説明したらいいのか。
「トモヤさん?」
「……その……落ち着いて聞いてね。地下の部屋で……事故があったんだ……」
「事故? あの、どのくらいの? けが人とかは……いえ、子爵様は?! どうなされたのです?」
ツバを飲み込み、トモヤは続けた。
「子爵は……僕が最後に見た時は、大量出血していて……多分、あれでは、助からないと思う……。急いで家令のロバートさんに連絡して」
「あなたが、やったんですね?」
マーサの言葉と共に、トモヤは腹部に鈍い痛みを感じた。思わず身を引きはがすと……己の腹部に突き立てられた短刀。憎悪の籠もった瞳でトモヤの顔を見上げるマーサ。
「何てマネを……なんて事をしてくれたの! あの方は私を妾に取り立ててくれるはずだった……! 一生、〝指図する側〟で生きていける、そのはずだったのにっ!」
さらに彼女は短刀を引き抜き、トモヤの頸部を横なぎに切り払った――後にも先にも、ここまで対処を忘れて一方的に攻撃されたのは、この時だけである。トモヤも衝撃の余り呆けていたが、マーサの動きも完全に訓練された者の早技だった――。が、この時まで鍛錬を積み上げていたのはトモヤも同じである。そして〝異世界転移〟とは、それをなした者に理不尽なまでのアドバンテージを与えるものらしい。
ほとんど、自己の思考が追いつかないままに、トモヤの手はマーサの利き手を短刀ごと拘束した。その瞬間でも、勝利の確信めいた余裕がマーサの表情にはあったのだが、自分の短刀が全く血に濡れていないのに気づき、表情は驚愕から恐怖へと変化していく――
それは「この世界」の理の一つである。生物として、あまりに格が違うものは、例え鉄の剣で肉の身に切りつけても傷つける事は難しい。一説には魔力による肉体保護機構だという。マーサの刺突も斬撃も、痛痒こそ与えてもトモヤの皮膚を破っていなかったのだ。
「……なあんだ、マーサさんも、〝そっち側〟の人なんだ……。なら、いいよね?」
自分自身の声をどこか遠くに聞きながら、トモヤは――恐怖から、情けを乞う卑屈な笑みに歪んでいく女の顔の中心に向かって、拳を振り切った。
◇
夜空は次第に白み始めていた。子爵家騎士堂で教えられていた「この世界の常識」によれば、東西南北の概念は同じはずである。それなりに拓けた農地と、うっそうとした森の境目に来て、トモヤはやってきた方向を振り返った。子爵の居城が、炎の明かりに浮かび上がって見える。脱出の際に守備隊の騎士団と繰り広げた戦闘の結果だった。――火の魔法を使って火災を起こしたのは騎士団の魔術師部隊なので、自分が火事の責を問われる謂われはないのだが。
これからどうしよう? まずは一刻も早く遠くへ逃れる事だろう。短い期間ながら味わい知った、この世界の身分制と権利意識のレベルからは「公正な裁判」など望むべくもない。身を隠して、生き延びる。そして、いつの日か……
(守らなくちゃ……千秋。必ず……帰るから……)
小さな誓いを生きる力に変えて、少年は目の前に広がる森の中に分け入っていった。
◇―――――◇
『ザルトクスの悪魔』
トラヴァリア王国のザルトクスに、慈悲深い領主さまがおられました。どうすれば領民を安んじられるのだろうと、いつも心にかけていました。
そんな領主さまの前に、黒目、黒髪の男が現れます。
「私はザナ神さまに使わされた勇者です。領民思いの子爵さまを、お助けするように言いつかりました。私が来たからにはもう安心。魔物も悪人も異教徒も、寄せつけはしませんとも」
領主さまはたいそう喜び、勇者を手厚くもてなしました。
ところが勇者は偽者で、実は悪魔が化けていたのです。宴が終わって皆が寝静まると、悪魔は本性をさらけ出し、領主さまののど首を食い破り殺してしまいました。さらには、眠っていた兵を次々殺して館に火を放ち、森の中に逃げてしまったのです。
領主さまの跡継ぎは、このことをたいそう深く恨み、今でも黒目黒髪の悪魔の行方を探しているそうです。
◇―――――◇
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