イーライ・ホップ ~青春ヨーヨーをキミと~

スギモトトオル

プロローグ

第1話 非常階段と少女の憂鬱

 見上げれば、雲が流れていた。


 雑居ビルに囲まれた渋谷の裏通り。狭い空に、ちぎれた綿雲が現れては、風に流されてビルの影に去っていく。

 渋谷といっても、大通りから外れてしまえば、路地にはあくびが出る様な穏やかな時間が流れている。三階の外階段に腰掛けて見下ろした平日の裏町は本当にのどかで、通行人だってめったに通らない。


 ここは静かだ。

 窮屈な街も、道路を横切る猫も、お尻をつけている階段の鉄の冷たさとかも、そっけなくて丁度いい。世界が私とは無関係に存在している感じ。ここは、一人になれる。余計なことを忘れられる、気がする。


 季節は初夏だけど、私の腰掛けている階段は影の中で、汗ばむ陽気もここには届かない。前髪のクセっ毛を揺らす程度の風がときどき涼しくて、気付いたら何時間でもボーっとしてしまいそう。

 メインストリートの雑踏も、遠くの出来事のように切り離されて聞こえていて、本当に東京のド真ん中なのか、ってくらい。


 だけど、こうも考えられる。これだけ穏やかにボケっとしてられるのは、さっき突き付けられたばかりの『現実』ってやつを、まだ上手く呑み込めていない証拠かもしれない、って。


 現実。私には、才能もツキも無かった、ってこと。


 笑っちゃうくらいに当然で、

 どうしようもないくらいに悔しくて、

 どうにかなってしまいそうなくらいに憎らしい。


 でも、それが現実。私たちは大いなる壁に挑戦して、負けちゃったんだ。

 メジャーデビューを目指して今日まで頑張ってきて、やっと、なんとか掴みかけたチャンスは、消えて無くなってしまった。


 三人のメンバーで組んでいたヒップホップユニット。メンバーは私と、兄貴と、それから兄貴の同級生の眞一郎しんいちろうさん。兄貴がMC、いわゆるラッパーってやつで、眞一郎さんがDJ、そして私がダンサー兼ボーカル。まあ、そんな中途半端な構成のユニットが、そもそもメジャーで活躍なんて出来るのかどうかは怪しいのだけど。


 高校から帰ったら、兄貴が大真面目な顔で「レコード会社に呼ばれた」って言うから、私も慌てて着替えてついて来て。眞一郎さんは先約の用事があったから来られなかったけど。「お前もメンバーなら、結果は知る権利がある」って言って、兄貴は私をレーベルの担当者との面会の場に入れてくれた。


 同席させてもらえたことが良かったのかどうか、正直よく分からない。「君たちをウチのレーベルからデビューさせることは、残念ながら出来ない」って直接言われたことは、少なくとも正直結構ショックだった。

 衝撃が強すぎたのか、なんだか私は気が抜けてしまったみたいだ。その後の話があまりに右から左へ通り抜けるものだから、二人に断って先に抜け出てきちゃった。それでこの通り、雲なんか眺めている。


 あーあ、空が青いなあ……


 ぼんやり眺める青空は、ビルとビルの間で細長く切り取られていて、小さく千切れた雲が、その下を静かに流れていく。

 そろそろお尻が痛くなってきたな、と思い始めたころ、見上げた空に、雲よりもずっと低いところから吹き込んでくる白い煙があった。


「随分と落ち着いてるな、キズナ」


 階段の上には、踊り場でタバコを吹かす兄貴、浅葱あさぎ圭一けいいちの姿があった。


「おかえり」


「おかえりじゃねえよ。ったく、マイペースな奴だな。てっきり落ち込んでるかと思いきや、階段でボンヤリ涼んでやがる」


 タバコの煙と一緒にため息を吐いて、兄貴は長い髪をかいた。見事に脱色されたご自慢のホワイトブロンドの長髪は、いつ見ても見事だけど、下から見上げると青空に透かして明るく輝いていて、尚更に綺麗だ。


 兄貴はゆっくりと降りてきて、私の二つ上の段に腰掛けた。


「聞いた通り、デビューの話は無くなっちまった」


「うん」


「この間のイベントに呼べた客の数が、向こうの想定したラインを下回ってたからだ」


「そうか、あれでもダメなんだね」


「仲野さんも仕事だからな。俺らみたいなのにも親身になってくれた人だけど、仕事には当たり前にシビアだっつーことだ」


 今しがたまで会議室で顔を合わせていたレーベル担当の名刺をクルクルと指の間で回しながら、ぼやくように兄貴は言った。


「俺たちのユニットは、今日限りで解散だ」


 ああ、兄貴は言っちまった。そして、私も聞いてしまった。それは、以前から決めていたことだ。今回の話がもしフイになったら、私たちは解散する。


 就職か、音楽か。大学生の兄貴が、今後の人生や未来の可能性について、考えて、考えて、悩み抜いて出した答えだ。周囲の同級生たちが就活を次々と始めていく中で、兄貴なりに突き詰めた結論だって分かってたから、私と眞一郎さんもすぐに受け入れた。思うところが無かったわけじゃないけど、それでも納得はしたのさ。それで、晴れて今日から、兄貴は就活生の一人になり、私はただの女子高生になる。


 華やかな、煌びやかなメジャーの世界にどれだけ憧れたって、そこに立つ実力を認められなければ、それはどこまでも夢でしかない。私の手には、届かなかったってことだ。


 だけど、こうもあっさり終わっちゃうなんてなぁ……


「お前、どうする。俺はこれから世話になった人たちに挨拶回りに行くけど、キズナ、ついて来るか?」


 兄貴はタバコを携帯灰皿に揉み消しながら、そう訊ねてきた。私は前髪をいじりながら、その表情を盗み見る。いつもと同じ、そっけない無表情な横顔。


 なんか、全然平気みたいなカオしてさ。


 分かるよ。ハタチ過ぎて、兄貴も人生の岐路の真っ只中なんだ。悩んでたことも知ってるし、ちゃんと私たちにも意見を聞いてくれて、全部納得ずくで決めたことだ。

 それでもさ、絶対に悔しいはずじゃんか。今度がダメでも次なら、って絶対ちょっとはどこかで思ってるはずなのに。

 なのに、それをひとつも見せないで、妹の前だからって大人の顔しちゃってさ……


「ううん、私、眞一郎さんのところに行って伝えてくるよ。ちゃんと会って、直接言ってくる」


「そうか……分かった。そっちはよろしく頼む」


 でも、私には言えることなんて無い。所詮、兄貴にくっついて、言われたことをやっていただけの活動だったし、今更決めたことをひっくり返して、兄貴の人生も巻き込むのなんて、軽々しく出来るわけがないしさ。


「でも、もう少しだけ、ここにいる」


「……そうか」


 ゆっくりと腰を上げ、兄貴が階段を降りる。私の横を通って、一段ずつ遠ざかる背中を見たら、急にやりきれない気持ちになった。


「お兄ちゃん」


 私が呼ぶと、その背中は止まる。


「これで、もう終わりなの」


 次の段に足を下ろしかけたまま、兄貴は動かない。タバコの煙の混じらない吐息をひとつ吐き出していた。


「おう、俺たちはこれで、晴れて解散だ……長いようで、短かったけどな」


と、ヘンに明るい声で言ったかと思えば、少し俯いて「ごめんな」と小さく口にした。


「お兄ちゃ……」


 私は思わず手を伸ばしかけたけど、何故だかそこで躊躇って止まってしまい、その間に兄貴は全然届かないところまで遠ざかっていった。

 ガン、ガン、と少々乱暴な靴音で非常階段を降り切った兄貴は、そのまま振り返ることもなく、ビルの間を通って表通りへと吸い込まれていった。雑踏に混じったあとは、どれが兄貴の背中か、ここからじゃもう分かんなかった。


 空が、変わらず青い。

 一人残された私は、どこかで猫が鳴く声を聞きながら、持ち上げかけていた手をだらんと降ろして、冷たい手摺りの柱にもたれかかった。ひんやりと硬い鉄の欄干は錆びついた匂いがした。

 木曜の午後のことだった。


〈続く〉

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