思考錯誤

@bekka

外見

 世界が驚いたあの出来事。私もその一人として視線はテレビに釘付けとなっていた。それから一週間。この出来事を知って語らなかった者は世間にいたのだろうか


 まだ夏だ、そう言っても良いほどの日差しの中、私は新宿へと向かう電車の中にいた。平日午前十時ならば、朝夕に見られる光景はそこにはなく、一人一人を考察できる程度しかこの車両には人はいない。もちろん、その時は考察などしてはいなかったが。

 いつもの如く、手元に開く法律用語の羅列に視線を這わせてながら、何回かの車両の扉の開け閉めと乗客の乗り降りにお付き合いしていると、何やら車両の空気が変わったのだ。

 そっと顔を上げると、先ほどよりは人が多くなったような感じがする。それはそうだろう。新宿へと着々と近づいているからだ。ふと私は右前方の一人の男性に目が行った。気になるのは服装だ。紫のニッカポッカを履き、茶色のベストを着た二十代前半の顎鬚男性の額に巻いたタオルの隙間から鮮やかな金髪が溢れている。彼は座らずに車両の扉の所に立ち、私を威嚇するように凝視しているのだ。

「なるほど、彼が車両に乗ってきたからか」

そう思った私も彼を凝視した。私はそこそここのようなことには慣れている。それはそうだろう。私も彼と同じように金髪、顎髭。違いは私は短髪で、口髭も多少あるところか。

 彼は私から目をそらし、窓の遠くを望み始めた。

「座らないのか。そうか、すぐに降りるのか」

 彼の周りには席が空いている。人。二人分空けて人。また二人分空けて人。

 私は気を彼からもう一度、手元の法律用語の羅列に戻し、目で追い始めた。

 それから一分もしなかっただろう。私の視線は参考書より少し上にあった。乗客がが私の前を左から右へと次々と歩いていくのだ。その量は普段の比とならないことはよく分かる。何かあったのだ。私は今一度、顔を上げた。先ほどの男性は窓の外を望み続けている。私の視線は動く電車の中を歩く乗客を避けながら、その原因を探した。

「ああ、なるほど」

私は多少頷きながら、今度は足早に隣の車両へ移動する乗客を目で追った。すると電車はゆっくりと減速し、駅に停車した。各扉からは老若男女、数名が乗り込んでくる。だが、半分はすぐさま車両を替え、半分は一度席に座るもある人物達に気づき車両を替えた。

「随分とガラガラになったな。この車両にいるのは・・・」

私は車両を左右見回した。まだ到着まで二十分はあるとしても、新宿に向かう車両でこのガラガラは見たことがない。おそらくこれからも見ることはないだろう。

 車両には五人いた。一人は私。二人目は隣の車両に一番近いところに座るお婆さん。三人目は先ほどの若いニッカポッカの金髪男性。そして四人目と五人目は私の左斜め前に隣同士に座るスーツ姿の二人の男性。二人共スーツケースを膝の上に乗せ、共にうつ向いている。日本人ではない。

 私は大きく深呼吸をし、無意識に目の前の窓の外を見た。すると、扉のそばに立っていた金髪男性が車内の吊り輪を雲梯でもするかのように動き出した。彼は私の目の前にドンと構えて座り、足を大きく組んだ。人が多く乗車している時ならば忌み嫌われる非常識な態度だ。彼は私をチラッと見た後、二人分離れて座る外国人二人を見てた。私は彼の挙動を見ていたのだが、いささか驚いた。彼は「ああっ」と風呂にでも入ったかのように息を吐き、両肘を窓枠に乗せて踏ん反り返ると突然、声を発したのだ。

「俺はここで良いけどな」

首を一回しし、私を見た。私は咄嗟に顎を上げ、彼に反発する態度でゆっくりと小さく小刻みに何度か頷いた。正直言えば、私は二人の外国人に対する世間の反応に同調する気はなかった。ただ、頷いたのは彼に負けたくなかったのかもしれない。彼は私に無言で言ったのだ。

「まさか、お前はこの車両から逃げないよな」

と。彼は私に勝負を挑んだのだ。私は受けて立つ気はなかったがその場に留まった。いや、最初から留まるつもりでいた。

 彼は私の頷きを見てうれしそうな顔をし、そのまま窓の外の流れゆく景色を見始めた。

 私は知らずに指を挟んで閉じていた参考書を開きながら外国人二人を見た。手前の外国人は私をチラッと見た後、またうつ向いた。

 数回、駅に停車したがこの車両に入ってくる乗客は同じように乗っては去り乗っては去る。状況は変わらずにいたが、次の駅で停車するために電車が減速し始めると、二人の外国人はゆっくりと立ち上がり、扉の近くまで歩き始めた。私は外国人の持つスーツケースを確認した。持っているのか、座席か網棚に置いてあるのか。

 電車が止まると外国人二人は体を丸めるかのような態勢で電車を降りて行った。さすがに乗り込む乗客は多くなり、みるみると座席が埋まっていく。金髪男性の態度は変わらずだ。

 次の駅で乗客が乗ってきた際、一人の足の不自由な年配女性が乗ってきたが誰も席を譲ることをしなかった。私は席を譲ろうと立ち上がり、立っている女性の肩に触れようとした時、女性は目の前の席に申し訳なさそうに腰を下ろした。あの金髪男性が席を譲ったのだ。

 

 新宿駅に着き、ホームの端にある灰皿の脇でタバコを吸う金髪男性を見た。もちろん彼を見たのはそれが最後だ。

 今思えば、座っていた外国人は東南アジア系またはインド系で、その時世間で注視された地域の出身ではなかったのではないか。今ではそう思うのだ。私と異なる肌の色に悪しきフィルターがかけられ、世間の判断通りに私も思ってしまったのかもしれない。いや、もしかしたら日本人だったのかもしれない。肌や髪の毛、目の色で日本人だと判断することは容易ではないのだから。

 私はあの数十分の出来事に三人の顔が記憶された。

 もちろん、一人目の顔は金髪男性の顔だ。私を凝視した顔でも、無言で勝負を挑んだ時でもない。足の不自由な年配女性に席を譲ったときの笑顔だ。まるで、祖母に接する孫の顔だった。

 二人目の顔は私をチラっと見た外国人の顔。何かに追われてるかのように怯え、そして申し訳ないと訴えたあの目。彼らは世間から差別されたのだ。彼らは何もしてはいない。仕事のために電車に乗っただけ。あの時車両を移動した乗客は、その時のこと等は覚えていないだろう。しかし、数駅だけ乗った二人のサラリーマンは一生思い忘れることはない出来事だったかもしれない。ただ、私も隣の車両に移動した乗客を責める資格はない。私自身、外出時に無意識でドアに鍵をかけるかのように、スーツケースの所在を探してしまったからだ。テレビ等で人種差別などのワードを耳にすると、否応なしにあの外国人、いや、だったかもしれない人のチラッと私を見た顔が思い出される。

 そして三人目の顔。私がこの数十分の出来事を思い出し、また話を持ち出すと必ず最後についてくる顔。私が足の不自由な年配女性に席を譲ろうと立ち上がったが金髪男性が先に譲ったことで元居た席に戻っろうと振り返った際、その数秒で座った五十代前半のサラリーマン男性の上目使いチラッと私を見た顔だ。




 

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