50「ハンバーグ」
「あれ? 今日はみんな、居ないんだ」
佐藤家の階段を下りながらリビングに目をやると、そこには誰ひとりとして座っている人もおらず、キッチンで母が何かを調理する姿だけが見えた。
「みんな居ないって何時だと思ってるのよ」
そう母に諭された私は壁の時計に目をやる。緩やかなアーチを描き先端を尖らせた針が二つ、一方は11と12のちょうど間、もう一方は5と6のちょうど間を指していた。寝起きだったということも相まって、スマホの待ち受けのデジタル時計に馴染みのある私が壁の時計の針を一目見て、時刻を理解することは難しかった。
「いいじゃん。今日は当分仕事ないんだし」
あれからというもの、殺し屋の仕事の依頼はなかった。それはきっと伯父さんが親友を無くした私に配慮して仕事を受け付けなかったのかもしれないし、ただ単に本当に仕事が無かっただけかもしれない。
副社長の一件は金にはならなかったが、もやもやと渦巻いていた感情がすっきりしたこともあって、私は大きな仕事を一つ片付けた気分でいた。
それに、今までの収入の貯蓄もあるし、当分はこのままゆっくりと実家で暮らしていくのも悪くないなとさえ感じている。ただでさえフリーランスで働いているのだ。こういう時ぐらいまとまった休みがなくてはやってられないと自分に言い聞かせていた。
私はテレビのリモコンを手に取り、適当な番組を流した。そして無造作にリモコンをテーブルに置き、冷蔵庫へ歩みを進め、麦茶の入った冷水筒を取り出し自分の赤と白のストライプのマグカップに注いだ。
注がれる麦茶の透明な茶色と流れる僅かな水の音が心地よくて見惚れてしまう。そのせいでいつもより多めに注がれたコップの麦茶は、テーブルに持っていくまでの数mで何mlか床にこぼしてしまった。
「あぁ、もう」と母は私のこぼした麦茶と同じくらいの水量の愚痴をこぼしながら床を拭く。
「ごめんて」と私が振り向くと母はもうすでに床を拭き終えており、キッチンの水道で拭いた雑巾を絞っていた。
私はリビングのいつもの場所に座り、またこぼさないようにと慎重に啜るように麦茶を飲んだ。
額の絆創膏はしばらくして取れたが、まだ触れると痛みを感じる。私が額を軽く擦りながらぼんやりと眺めていたワイドショーでは、超能力者を自称する教祖が開祖した、ある宗教団体の献金問題について司会者とコメンテーターが言いたい放題言っていた。
「お母さんは綺麗好きだよね」と私が何気なく呟くと、「あら何言ってんの? 当たり前でしょ? というかあなたもじゃない」と朝食か昼食かも分からない料理を運んできた。
運ばれた米飯、味噌汁、ハンバーグ、サラダのラインナップを見て私は気付く。
「あれ? 今日の昼はハンバーグなんだ」
そう呟いた私に母は「ぶー」と得意げに言った。
「え、じゃあ朝ごはんの残り? もしかして朝からハンバーグ作ったの?」
私の問いに母は先ほどと同じように「ぶー」と変わらぬアクセントで言った。そして母は続ける。
「正解は昨日の夕飯の残りでした!」
なぜか嬉しそうに答える母の姿が、つまらないことではしゃぐどこかのバスツアーのおばさん達のように思えて、私は「あっそ」と簡潔な感想を伝えた。しかし母も私の反応が乏しいことも見越してか、特にそこから何か付け加えようとはしなかった。
「いや、でもね。超能力なんてね、信じる人いるんだね」
急に話題が変わったが、母と暮らせばよくあることであるし何も気にならなかった。
「ね。マインドコントロールなんだってさ。超能力っていうよりも心理テクニックみたいなもんでしょ?」と母に言った私は、小さい声で「いただきます」と言いながら出された食事に手を付けた。
「ふーん。でも昔はいたわよね、超能力者。ほらあのー、なんだっけ? スプーン曲げる人」
「え、ダイゴ?」
「いや、あの外国の方よ」
「マリック?」
「Mrマリックは日本人でしょ? あの人よ。ゆらりらーみたいな人」と母は両手をバタつかせて思い出そうとしている。
「ユリ・ゲラー」
「あぁ! そうそう! ユリゲラー」
母はそういうとすぐにキッチンのほうへ向かった。私はハンバーグを咀嚼しながらその背中を眺めていた。母の言ったユリ・ゲラーはユリとゲラーで区切ることなく「ユリゲラー」と言う繋げたイントネーションだったため、私は少し気になった。
「あれは超能力者じゃないよ」と母に聞こえない程度の声で呟いたつもりだったが、母の耳に届いていたらしく、キッチンの見えない場所から「え? そうなの?」と母の声がした。
てっきり聞こえていないと思っていた私は母の声に驚く。
「え、そうでしょ? 違うの?」
私がそう返すと再びキッチンの見えないところから「私は超能力者だと信じてたけどね。だってテレビの企画で彼が出た時に『テレビの前の皆さんのスプーンを曲げます』っていって、私スプーン持って見てたけど、本当に曲がったもの」と声が聞こえた。
そんなことあったのかと初耳だった私は、真面目にスプーンを持ってテレビの前で正座する若き母の姿を想像してしまい面白くなる。
「いや、それってさ、お母さんが超能力者なんじゃない?」
少し馬鹿にしながら私がいうと、キッチンから顔を出した母が、「私も今ちょうどそう思ったところなの! え、待ってこれってテレパシー? え、嘘」と本気で困惑し始めた。
「いやそれはただ親子だから考えが似てるだけでしょ」と言いたかったが、あえて私は口をつぐんだ。
母のいう超能力というのはスプーンを曲げたりすることなのだろう。そして母からすれば異常に耳のいい私も超能力者なのかもしれない。
本当は超能力なんかではなく幼い頃から繰り返し強制的に行われた訓練により得た力なのだが、そんなことを知らない母からすれば十分に超能力といっていいのだろう。
幼い頃に受けた虐待や暴行とさえ言い表せられるあの訓練。暗い部屋で目と口と全身を冷たく硬い何かで塞がれ固定され、聴覚以外を遮断され多種多様な音を何日間も延々と聞かされ続けるといった思い出したくもない訓練を母は知らない。与えられるのは腕を固定する硬いベルトのような何かの数mmの穴に突き刺さされる一本の細い針から流れる点滴だけということは母は知らない。神田もシンも同じような訓練を受けただけのただの人間であるということを母は知らない。超能力なんて物はなく、あるのはあそこで生み出された後天的かつ強制的で矯正的な人間の能力だということは母は知らない。
そして母は私の耳が異常に発達し、誰かの殺気をハウリングとして感知できることは知らない。いや、母は何も知らなくていい。
「いやそうかもね。お母さん、超能力あるかもよ」
私は大袈裟に母を煽ってみた。すると面白いことに母は神妙な面持ちで「うん。そうだわ。きっとそうなのよね」と本気にし始めた。私はそれが面白くとりあえずそのままにした。そうすればきっと帰ってきた妹の礼奈や兄の礼斗に「お母さん、超能力者なの」と話し始める光景が目に浮かび、私はにやにやしていた。そして母は未だにキッチンの見えないところから「いやぁ驚いたわ」「本当だったのね」と独り言のように繰り返していた。
そして「あ、そうだ」と母が何かを思い出したように呟く。
「なに?」
「もしかしたらあれもそうなのかも。ほらお母さん、耳いいでしょ? あれも超能力なのかも」とキッチンから顔を出し私に言う。
「あー、そうかもねー」と本当に耳のいい私は小馬鹿にした返事をし、テレビを眺めていたが、「ちょっと、あんた何言ってんの」と母が不意に少し大きな声を出したため、私は体を縮ませた。ゆっくりキッチンのほうへ振り返る。
「え、何、急に」
恐る恐る私が尋ねると母はキッチンから顔を出していた。一瞬、時が止まり、私は唾を飲み込む。その音が耳の中で反響してうるさいくらいだった。
「だって私の耳の良さが超能力だったら、あなたも超能力者ってことじゃない」
母の言っている意味が分からなかった。わざわざ声を張って制止してからいうことでもないし、そもそも意味が分からない。
「な、何? どういうこと?」
母は再びキッチンから顔を隠し、再び手を動かした。
「だって礼央、耳、凄くいいでしょ」
私は誰もいないように見えるキッチンを凝視するしかなかった。私の表情など見えない母はお構いなしに続けた。
「ほら、私に似てるから。遺伝なのよ、遺伝」
やはり母には敵わない。昨日の晩御飯の残りを飲み込みながら、私はそう思った。
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