最終話

 ──意識が戻ると、波のように襲う痛みはなくなり、代わりに全身がだるかった。


 目をそっと開くとわたしを覗き込む瞳が光った。


「ミザリー」


 聞き慣れた声に安堵する。


「でかした。産まれたのは元気な女の子だったよ。いまは産婆が清拭するからと別室にいるよ。父もネリーネも大喜びしている。後で連れてこよう」


 ハロルド様はわたしの手を取り握りしめた。


 ああ。よかった。赤ちゃんが無事に産まれたのね。


「ミザリー。本当にありがとう」

「……こちらこそありがとうございます。一年前はこんなことになるなんて考えてもなかったわ」


 ハロルド様は慈しむようにわたしの手を握り、ずっと見つめている。

 優しい瞳に安心する。


「ねぇ。どうして一年前、わたしと結婚しようと思ったの?」


 一年間聞きたくても聞けなかった質問を投げかける。


「……理不尽な目に遭っても真っ直ぐに前を向く君なら一緒に生きていけると思ったんだ。我が家は理不尽なことが多い」


 ハロルド様はわたしの手を撫でながらそう言った。


 この一年間、社交界で下賎な商売をしてると馬鹿にする貴族たちから浴び続けた視線を思い出す。


「だってそうだろ? 君は我が家で奴隷のように働くつもりだったのに、強引に花嫁に仕立てられて、子供までもうけている。理不尽この上ない」


 おどけて誤魔化すハロルド様の手を握り返す。


「そうね。一年後、家に戻っていいなんて言いながら返す気はないんだものね。確かに理不尽だわ」


 誤魔化すハロルド様を逃がさないように睨むと、罰の悪そうな顔に変わった。


「……ファサン子爵家に戻りたい?」

「えぇ。父から連絡が来て、名も名乗らぬ投資家がファサン子爵領に現れて多額の出資をしてくれて、領地の彫金工房に親方達を呼び戻せたし親方達が作るアクセサリーの販路も以前よりも高く評価してくださる商会と取引をしているの。今や、王都ではファサン領のアクセサリーは流行の最先端よ」


 ハロルド様はわたしの話を黙って聞いている。


「それにその紳士に国の農業政策で水路整備と一緒に道を整備するための補助金が出ると教えてもらって工事ができたの。道も麦畑も見違えるほどになったんですって。馬車だって轍に車輪を取られて立ち往生することもなくなって、王都への農産物の流通もできるようになってきたそうよ。だから、お待ちいただいた借金の利息を返済する目処もたったって手紙に書いてあったわ」


 ハロルド様の顔は目鼻立ちがはっきりしているから、少し眉を顰めただけでも絶望しているように見える。

 そんなハロルド様は絶望すると、驚くほど無表情になるのを今日初めて知った。


「ハロルド様が根回しして、我が家の事業を立て直してくれたんでしょう。短絡的で騙されやすい父は今も名も名乗らぬ見ず知らずの紳士が助けてくれたと思い込んでるの。落ち着いたら実家に子供を見せに行くついでに、きちんと説明しなくちゃいけないと思って。里帰りしていい?」


 そういってわたしはハロルド様に笑いかける。


 少し意地悪だったかしら?


「もちろん!」


 ハロルド様は表情を取り戻し、わたしを強く抱きしめた。


 一年前は、借金のかたに奴隷のように下働きするつもりだと思っていたのに、こんなに歓迎されて溺愛されるだなんて思ってなかった。


 わたしはハロルド様に包まれながら、心の中でそう呟いた。


~完~



***

おまけの小話が続きます。

引き続きよろしくお願いします。

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