第5話 夜の森の中で

 その日の夜、僕はタンサの町の南にある森の中にいた。


 所持金が銅貨二枚で宿屋に泊まることができなかったからだ。

 近くの川辺で水を飲み、硬い干し肉をかじる。


「明日は、冒険者ギルドに行って、仕事を探さないとな。保存食もこれで終わりだし」


 太陽より十倍以上大きく見える巨大な月に照らされて水面が輝いている。

 ぱしゃりと音がして銀色の魚が跳ねた。


 今のは銀魚か。香りがよくて胡椒をつけて食べると美味しいんだよな。


「一眠りした後は、魚でも捕るか……」


 その時、頭に強い痛みを感じて、僕は片膝をついた。


「ぐっ……また……か」


 この痛みは普通とは違う気がする。脳の奥から感じる痛みだ。

 おかしい。精神にダメージを与える効果がこんなに長く続くはずがないのに。当たり所が悪かったせいなのか?


 両手で頭を押さえて、僕は歯を食いしばる。

 しかし、前と違って、痛みは長く続いた。


 こ……これはマズイ状況……かも。


 視界が真っ白になり、僕は横倒しになる。


「ぐうっ……う……」


 頭が炎に包まれたかのように熱く感じる。


 もしかして、僕は……このまま死ぬ……のか?

 頭の中の脳がどろどろに溶けていくような気がした。

 視覚、聴覚がなくなり、言葉を発することもできない。


 子供の頃からの記憶が次々と脳内で再生された。

 フローラ院長に頭を撫でられている記憶、リリスと遊んでいる記憶、僕を本当の兄のように慕ってくれている孤児院の子供たちの記憶……。


 まだ……死にたくないな。冒険者になって……やっと……フローラ院長に恩返しできるようになったのに……。


 いつの間にか、僕の意識がなくなっていた。


 

 冷たい風が頬に当たるのを感じて、僕はまぶたを開いた。


「……あ……あれ?」


 僕は上半身を起こして、自分の頭に触れる。痛みは完全に消えていた。


「大丈夫……なのか?」


 立ち上がって、軽く手足を動かすが、特におかしなところはない。


 いや、前より頭がすっきりしてる気がする。まるで古くなった脳を新しいものに取り替えたみたいに。


「何が起こったんだ?」


 僕は巨大な月を見上げてつぶやく。


 もし、また頭痛があったら、魔法医に診てもらったほうがいいのかもしれない。


 その時――。


 右側の茂みがガサリと音を立て、四本脚のモンスターが姿を見せた。

 体長は三メートル近くあり、顔はライオン、頭部にヤギのような角を生やしていた。全身を覆う黄金色の毛の中からは数十匹のヘビが顔を出していて、細長い胴体をくねらせている。


 キマイラっ!? どうしてこんな場所に?


 全身の血が一気に冷えた。


 キマイラは多くの生物の特性を持つモンスターだ。複数の属性の魔法を使うことができ、スピードとパワーもある。前脚の爪は鋭く、ヘビの牙には毒がある。


「何て運が悪いんだ。キマイラは高地の森に生息しているはずなのに」


 僕は短剣を手に取り、ゆっくりと後ずさりする。


「グゥウウウ!」


 キマイラはうなり声を出して、僕に近づいてくる。


 まずいぞ。キマイラはBランクの冒険者でも手こずるモンスターだ。Fランクの僕が倒せるわけがない。

 キマイラが高くジャンプした。


 くっ、一瞬でもいい。攻撃を止めないと!


 僕は意識を集中させ、六枚の紙を出そうとした。


 その瞬間、白い紙が百枚以上具現化した。その紙にキマイラがぶつかり、地面に横倒しになる。


「えっ?」


 戦いの最中に僕は驚きの声をあげた。


 何だこれ? 僕の基礎魔力じゃ、紙を十五枚しか具現化できないはずなのに。

 それに紙の強度が上がってる。そうでないと、キマイラの巨体を紙で止めることはできないはずだ。


「グゥ……グアアアア!」


 キマイラの頭上にオレンジ色の火球が具現化した。その火球が紙に当たって燃え上がる。


 火属性の魔法か。紙とは相性が悪いな。


 キマイラが僕に駆け寄り、前脚を振り下ろす。僕は短剣でその攻撃を受けた。甲高い音がして、短剣が弾け飛ぶ。


 ぐっ、オーガ並のパワーだ。


 落ちた短剣を拾おうとしたが、その前にキマイラの前脚が短剣を踏みつける。


 まずい! 武器がなくなった。予備の短剣はポーチに入れてるけど、あれじゃ、刃が短すぎてどうにもならない。


 僕は奥歯を強く噛んで、視線を左右に動かす。

 茂みにも川にも逃げ込むのは難しい。ここで戦うしかない!

 深く息を吸い込んで、腰を軽く落とす。


 原因はわからないけど、まだ、基礎魔力は残ってる。それなら、【紙使い】の能力で戦うことはできる。


 僕は脳内で魔式をイメージして剣の形をした紙を具現化した。


「いっけええっ!」


 宙に浮かんでいた紙の剣が動き出し、キマイラの左肩に深く突き刺さる。


「グガッ……」


 キマイラの胴体にくっついているヘビが左肩に刺さった紙の剣を口で引き抜いた。その部分から、緑色の血が流れ落ちる。


 いけるぞ。紙の剣の斬れ味も前より格段によくなってる。それに基礎魔力が減った感じはしない。まだまだ、紙の剣を具現化できる。


「グゥウウウ」


 キマイラはうなり声をあげながら、僕にゆっくりと近づいてくる。

 僕は新たに二本の紙の剣を具現化して、キマイラを攻撃する。

 しかし、その攻撃をキマイラは予測していた。巨体とは思えない動きで紙の剣を避ける。


「グゥ……グゥウ」


 キマイラは体を低くして、後脚を大きく曲げる。


一気に突っ込んでくるつもりか。


 紙の壁を……いや、ここは攻める。たくさんの紙の剣を具現化して、キマイラを攻撃する!


 そう思った瞬間、百本以上の紙の剣が具現化した。紙の剣は射られた矢のように次々とキマイラに突き刺さる。


「グガ……ガッ……」


 キマイラは緑色の血を流しながら、横倒しになった。黄金色の瞳から輝きが消え、キマイラの呼吸が止まった。


 僕は動かなくなったキマイラに歩み寄る。


「僕がキマイラを倒したのか?」


 掠れた声が口から漏れる。


 ありえない。紙を剣の形に加工して強度を上げるだけで、普通の紙の具現化より、三倍以上魔力が必要なはずだ。それを百本以上も? そんな魔力、僕にあるわけがない。


「まさか、夢ってことは……ないよな?」


 僕はキマイラの死体を見下ろす。

 刺さっていた紙の剣は具現化時間を過ぎて消えている。しかし、キマイラの体には紙の剣がつけた無数の傷跡が残っていた。


 わけがわからない。これだけの紙の剣を具現化するには、基礎魔力を上げる【魔力強化】のスキルを持っていても……。


「あ……」


 僕は子供の頃に無くなったユニークスキル【魔力極大】のことを思い出した。


 そうだ。【魔力強化】の上位スキル【魔力極大】なら可能か。あれなら、基礎魔力がものすごく増えるから。


 僕は意識を集中させて、基礎魔力を確認する。

 あくまでも感覚的なものだけど、僕は基礎魔力を容器に入った水に見立てていた。その容器の量が今までの百倍……いや、千倍以上に大きくなっている。

 前の容器がコップだとしたら、今は自分の背丈より大きな大樽のサイズだ。 


 これは【魔力極大】の効果が発動してるとしか思えない。


 ハンマーが頭に当たったことで、子供の頃に無くなった【魔力極大】のスキルが復活したってことか。そんな効果があのハンマーにあるとは思えないし、精神にダメージを与える効果と物理的なダメージが重なって、偶発的に起こったことなんだろう。


「こんなことがあるんだ?」


 僕の口から抑揚のない声が漏れる。


【魔力極大】のスキルがあれば、多くの紙を具現化できる。強度のある硬い紙や特殊な効果を持つ紙、属性を付与した紙も……。


「僕は強くなれるのかもしれない」


 僕の体が微かに震えた。

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