教育とは?

もち

教えること、学ぶこと、教育とは?

 教育イコール教えること、家族や友達に聞いてみたらそんな答えが返ってきそうだ。あながち間違ってはいないが、私たちが学んでいる研究していく教育とはやはり「教えること」だけでは足りないと思う。私が思う教育を私がこれまで経験してきたことを踏まえて書いていきたいと思う。

 まず、教えること学ぶことから考えていく。私はこれまで教えることは大学に入ってアルバイトでやったくらいで、それよりも私は圧倒的に学ぶことの方がこれまでの人生の中で多かった。教育学を学ぶ前の私にとって「学ぶ」とは、学校の先生が話したことを覚えて、問われたことに答え、ひたすらワークに取り組むこと。それが私にとっての「学び」だった。今それを客観的に見てみると、とても受け身の姿勢であるし、また主体的だと思っていた学び、例えば100点取れるように頑張ってワークを解くとか、先生に感心意欲態度で5をもらうために物理の講義を一生懸命聞くなどの「学び」は、他人によく見られたいとか、よく勉強した方が良い大学に行けるとかいう理由で動かされていただけで本当に主体的とは言えないのではないかと思う。ピーマンが嫌いな子にご褒美を目当てにピーマンを食べさせているようなものだ。私は学習指導要領にある主体的な学びはこれまできていたのだろうか。その後私は新たな学びに出会った。大学という新たな学びの場で出会った「学び」とはこれまで「学び」とは違っていた。誰の評価も関係なくただ「子ども」について考えるうちに出てくる問いを追い求める。それが楽しく、胸が熱くなる、そしてもっと先が知りたくなる。それこそが、私がこれまで外から影響されて、主体的に学んでいたつもりの学びでなはく、本当の主体的に学ぶってことなんじゃないかと私は思う。つまり、ピーマンを自分から食べられる、食べたいと思える環境や気持ちを作ることが大切だと思う。誰かに褒められるからやるとかではなく超人を目指して進むことが本来の姿だと言うことかと思う。そのような姿で私たちが進み続けるから(ピーマンを好きで食べる気持ち)そこ子どもたちが着いてきて、私たちも教えることができ、子どもたちも主体的に学ぶと(ピーマンを自分から食べる)いう本当の意味を知ることができると思う。教育と学びは表裏一体で私たちが学ぶ人であるからこそ教える人であることができるし、逆に聞いてくれる子どもがいるからこそ意欲的に学ぶことができる。そんな相互関係みたいなものあるので、教育力にもあるように、学ぶことをやめた者の「教える」には勢いみたいなものがなくなるのは当然なことである。だから私たちは学ばなければならない。

 主体性と学びについて考えるうちに、褒めることの注意しなければならない点が見えて来た。子どもは褒められることが大好きだ。大人と比較して未熟な点が多からこそ、認められたいという気持ちが強いからだと思う。だからたくさん褒めてほしい。そんな子どもを見ると私もついつい、たくさん褒めてしまいたくなる。褒める行為が子どものやる気に繋がり、そのやる気によって勉強する楽しさなどに繋がれば良いのだ が、褒められることを目的としてしまって逆に主体性がない勉強を引き起こしてしまうこともある。褒めてやる気にさせることも大事だが、やはり私たちの主体性を 真似(まね)ば せることが、より正しい主体性を促すことに繋がる。この点からも分かるようにやはり私たちが学ぶことは必須なのかもしれない。つまり教育の中には自分自身が学び成長することも含まれているのだ。

 次に、学ぶ環境とそれを作り出す私たちの心構えを考える。教育が行われている場(空気)というのは、緩すぎては力が育たないし、キツすぎるとやる気を削いでしまう。齋藤孝さんは教育力で、切磋琢磨できる環境を作ることが教育者としての役割だと言っている。適度な緊張感を作るためにテストなどの勝負や課題があると良い。勝負は勝つ人、負ける人の単なる関係になってはどちらかかが酷く落ち込んだり、勉強をしたく無いと思わせることがあるので勝ち負けはあるけど学んだことを考えるとどちらも成長している、つまりwin-winの関係を作らなくてはならない難しさもある。他にも「そんなことも知らないの?」と言われる悔しさみたいなものを感じられる心を育てたい。知ほかにも、らなくて当然と思う社会の空気、読書の衰退などが問題視している。「そんなことも知ってるんだ」という関心とか、負けず嫌いな気持ちがもっと我々の心に必要なのでは無いだろうか。もちろん教育を競争として捉えてはならないのはいうまでも無い。学んでいく空気を作る上でやはり教員の力も大事になってくる。「先生なんも知らないじゃん」と言われては仕事にならないし、教える人間として自分自身に力があることは必須条件だろう。それだけではなく、この人にならなんでも話せるみたいな安心感みたいな人間力も必要だと思う。そして何より子どもに教えたい、成長を見届けたい、子どもたちこんな資料をやらせよう、みたいな教育欲が溢れていることも必須条件だと教育力を通しておもった。

 教育力や今までの学習を通して私が思う教育力とはいかに子どもを自立させるかどうかであると考える。いくら微分積分を知っていても社会に出て提出物を出さないとか、ルールを守らない人間に育ってしまっては数学ができるか以前にもっと基本的なことでその子が困ってしまう。思考力や判断力を数学で育むことは もちろん提出物を出すとかのような基本的な内容を教えていくことも同じくらい必要だ。社会が求める過剰な愛国心のような教育はやりすぎだが、共同体的我々が生きていく以上子どもの社会化は社会が我々に求められる大きな仕事だと思うし、何より子どもが困らないためにも教えていく必要があると思う。他にも我々が求められる教育力には文化を継承する力、研究者的に教育を発展させる力、子どもとこコミュニケーション能力など様々である。さらに教育力を通してその一つでも欠けることの許されないことを知った。この文章を書いていてこんなにすることがあるのかととても驚いた。私自身子どもと触れ合っていると疲れることももちろんある。それでも子どもが笑ってる顔見るとそれだけでまた頑張ろうという気持ちが湧いてくる。教育力を身につける、教育をやっていく理由というか根源はやはり子どもへの純粋な愛でそれも必要な教育力だと私は思う。

 教育を別の言葉で表すと「自力」にすることができるのでは無いだろうか。各段落で話した内容もは根本的なとこを辿れば子どもたちの自立につながる。私が教育(教育力)とは何かと問われた時、迷わず教育イコール自立と答える

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