No.5 ポメラニアン小太狼

風白狼

ポメラニアン小太狼

 僕の家に子犬が来たのは確か僕がまだママとお風呂に入っていた十歳のとき、少年として目が開いたか開かないかわからないような時分、「テレビの砂嵐」とか「カセットテープ」、それからダイヤルを回すタイプの黒電話がまだポピュラーに通じたくらいの頃だった。子犬は柴っぽい模様の長毛の犬でたぶんおそらく今思えば半分くらいポメラニアンだった。というか今思えばあの毛玉がポメラニアンでないわけがないので、ポメラニアンだったということにしておこう。

 そのポメラニアンは、姉が、父母に無断で友達からもらってきてしまったものだった。犬を飼うなんて余裕は我が家にはない――と元の場所へ突っ返すには夜も遅いし、なにせ犬も連れてきてしまっているものだから、もてなさないわけにいかない。何よりポメラニアンの子供は非常にかわいらしくモフモフと愛嬌を振りまき自分の尻尾など追いかけて僕らを和ませるものだから、外に捨ててしまうなんて選択肢は最初からなかった。僕らはここですでにポメラニアンの術中にはまっていたのだった。

 父がデスクトップパソコンを立ち上げて、未だ情報に乏しかったインターネットの記述を読み漁り、子犬の食べ物を都合するころには、とっぷりと暮れた夜空に満月が浮いていた。

 ポメラニアンの小太郎こたろうが我が家に居座るまではそんなに時間がかからなかった。あれだけ反対していたママが、その犬のことを「小太郎ちゃん」と呼んでいるのに気付いたときには、ポメラニアンこと小太郎のモフモフの首にはきちんと真っ赤な首輪がついているのだった。僕は恐怖した。

 今まで我が家の末っ子を担ってきた僕の立ち位置をぽっと出の犬畜生がかっさらっていったのだからそれはそうだ。僕は真っ先に「ママを取られてしまった」と子供ながらに思ったものである。母はかいがいしく小太郎の世話を焼き、散歩をこなし、餌を与えて撫でまわした。母の膝の上は小太郎に占拠され、僕の入るスキはまったくなくなってしまった。

「なんで小太郎なの」と母に思い切って尋ねたとき、「風魔小太郎っているじゃない」と答えをもらった。いや、そうではない。なんで僕ではなくて小太郎ばかりかまうのかと聞いたのである。だけど語彙も文法も十歳並みに頭の悪かった僕はただ何も伝わらないことが悲しくてアホほど泣き崩れた。

 小太郎は一番偉い人間を嗅ぎ分けて媚びを売るのが得意だった。父の前では無害なモフモフを演じて道化、いや子犬よろしくじゃれつき、父を喜ばせた。「小太郎は俺のことが好きだなあ」と目じりを下げて笑う父は普段と違って柔和な雰囲気を醸していた。子供の僕たちには引き出せない表情である。父の大きな手に抱え上げられた小太郎は小さな尻尾をぷりぷりと振っていた。

「きゃうきゃうきゃうん」

「そうかそうか」

 泣き崩れるまではいかないけれど、やはり小学生だった僕は小太郎に対してなみなみならない敗北感を抱いていた。小太郎はあっという間に家族に侵食してきてヒエラルキーをひっくり返し、カーストをごちゃごちゃにしてしまった。

 年齢も二十を回った今になっても、あの敗北感は苦々しく思い出せる。

 僕の家をひっくり返した小太郎は僕のことを早々に格下とみなしたらしく、僕の言うことだけはがんとして聞かなかった。中学に上がるまで小太郎の夜の散歩は僕の担当だったのだが、これ以上なくリードを引っ張って、僕はつんのめりながら彼を追いかけた。まるで僕が小太郎に散歩させられているみたいだった。最後までそういうやつだった、小太郎は。


 僕以上に小太郎の素をわかっていた奴はいないと思う。それは小太郎に存分に見下げられている僕だからわかることだった。ポリシーというか、絶対に捨てない心意気みたいなものを小太郎は持っていた。僕はそう信じている。他の人が、例えば姉が、「小太郎のことだしそんな難しいこと考えてないよ」と言ったとしても、僕は、僕だけは、小太郎の魂を信じている。

 小太郎はどんな時だって「自由な狼」であろうとしたように思う。それがたとえ格下の僕に「俺が俺が俺の方が格上だぜきゃうん」と見せつけたかった犬のプライドの問題だったとしても……僕の前でだけ小太郎は狼だった。小太郎は親分で、僕は子分だった。そこには、越えられない身分の壁みたいなものがあった。小太郎と僕にしかわからない壁だった。

 小太郎は何かと月に吠えるのが好きで、何度も遠吠えをしては僕を困らせ、散歩道をあちこち寄り道してはしきりにマーキングし、フンを僕に拾わせ――目いっぱい「俺が上!」をアピールしながら、僕の前をぷりぷりの尻で歩いて見せた。

 愛犬がその調子だから、姉の態度も変わっていった。小太郎の中のカーストは家族に伝播していき、僕は実質家の中で一番下の位置につくことになった。今もそうだ。

 だけどそんなことはどうでもいいのだ。小太郎を憎んだこともあるし、あんな馬鹿犬いなくなればいいのにとほぞを噛んだこともあるし、なみなみならない感情その他もろもろもあるのだけれど。小さくてかわいくて毛がもっさもさの犬が、この家に入ってくるときに張った精いっぱいの虚勢とか、精いっぱいの努力とかを、大人になった僕は今更感じていて。正直、社会人になった今、あの時幼い子犬がどんな努力とか我慢とかを重ねてあそこに居座ったのかを思い返すくらいには、感傷的になっている。


「なあ、小太郎」

 会社帰り、スーツのジャケットを脱ぎ捨てて、僕はバスケットの中の老犬に語り掛ける。

「散歩にいくか?」

 小太郎は足が悪くなってしまった。我がもののように駆けまわっていた家の中すら移動できない。時間になったら外へトイレに行き、また戻る。その繰り返しばかりだ。すっかり衰えてしまった小太郎は僕の目を見て、くんと鳴いた。

 小太郎がもう長くないことは、家族一同が知っていた。

「今日は満月だぞ。まあるい月だぞ」

 小さな軽い小太郎を抱えて、僕は外へ出る。くまのない満月が、老犬の頭上に輝いている。小太郎は満月を見上げて、甲高く吠えた。

「きゃおん。きゃおーっ!」

 それは久しく聞いていなかった遠吠えに似ていた。ぼくは滞りなく小太郎のしもの世話を終えると、小太郎を抱えて家の中に戻る。


 小太郎が旅立ったのは翌日のことだ。眠るように虹の橋を渡った愛犬を前に、僕はそっとさよならを告げた。

「ばいばい、小太郎。お前はいい親分だったよ」

 出社の時間が近づいている。僕はネクタイを締める。いつもよりも潔く、締める。

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