第五夜
君がいなくなってからずっと。
君の命を奪った原因である『車』という乗り物には、近寄れないままだったし、見たくもなかった。
今日、彼に『責任』をとらせるために、本当に久しぶりに車に乗ったんだ。
君がいつも座っていた助手席には、とても爆弾なんて置けなかったけどね。
このボタンを押せば、彼の家とこの車、双方は同時に爆発する。
君といつも天体観測をしていたこの場所で、君が好きだった星空の下で最期を迎えられるのが、いまの僕にとっては何よりの幸せなんだ。
そろそろ、サヨナラするよ。
君が生まれてきたこのかけがえのない世界と、君を奪ったこのクソったれた世界の全てに。
……。
……。
……。
……?
……あれは……?
僕がボタンを押す正に直前。
助手席の前の収納、グローブボックスから、少し白い紙がはみ出しているのが見えた。
それを見た瞬間。
僕の脳裏に去来するものがあった。
そういえば、君とは春夏秋冬いろいろなところに出掛けたけど、最後にこの車に乗って紅葉を観に出掛けた時、不思議に思ったことがあった。
僕がサービスエリアのトイレから帰ってきた時、それを車内から見た君が、助手席のグローブボックスを慌てて閉めていたんだ。
それから日々の忙しさの中で忙殺されて、あんなことがあってから車には一切近寄っていなかったから、そんなことがあったことすら忘れていた。
これがなにかを確かめる前に。
この命を絶つ訳にはいかない。
僕がおそるおそるグローブボックスを開けると、中から出てきたのは一枚の『手紙』だった。
懐かしい日々の。
あまりにも鮮やかな色が蘇ってくる。
久しぶりに見た、君の書くあの文字だ。
『かけがえのない、大切なあなたへ』と書いてある。
僕が、いまのいままで、その存在すら知らなかった。
君の。
僕への手紙。
震える手で封を開けると、あの、いつも見慣れた、世界で一番美しい君の文字が踊っていた。
『いずれ自分の口からちゃんと言うつもりだけど、あなたが見つけた時にびっくりさせたいから、ここで先に予告しちゃいまーす。まだハッキリとはわからないけど、良い報告ができるんじゃないかなと思ってます』
……良い報告……?
『いつか、わたしたちの赤ちゃんができたら、星に関連する名前をつけたいねって、二人で話したよね。わたしね、考えたんだ。女の子だったらスピカ、男の子だったらオリオンってどうかなって』
それを見て僕には、『あの日』の君の言葉の意味が、初めてわかった。
「それじゃあ、わたしも少し用事を済ませてから行くね。へっへ~ん、今日は大事な報告があります」
あの日。
あの忌まわしい事故が起きた日。
君の声が弾んでいたのは……。
「ウソだ……ウソだウソだウソだ……」
あの時。
君のお腹の中には。
僕たちの新しい命が。
混乱で、思考に整理がつかない。
『あなたの誕生日も近いね。早くスピカやオリオン、新しい家族と一緒に、あなたが生まれた日をお祝いできたらいいな』
手紙はそこで終わっていた。
読み終えた瞬間。
全身から、全ての力が抜けた。
こんな感覚は、今まで全く味わったことがなかった。
涙も鼻水も一向に止まる気配がなく、次から次にボロボロと溢れてくるし、起き上がろうにも全身に力が入らなかった。
そこから、僕にとっては永遠とも思えるような時が流れていった頃。
完全に脱力し、もう二度とは立ち上がれないような僕を、スマホの着信音が襲った。
画面を見ると母親で、僕は強いめまいを感じ、過呼吸のようになりながら電話に出る。
母は慌てふためいた様子でこうまくし立てた。
「あなた今どこにいるの!?」
相手と自分に『責任』をとるために、車の中にいるとは到底言えなかった。
「大変なことになってるの!!早くニュースを見なさい!!」
母の今まで見たこともないような剣幕に非常事態を感じ、僕はすぐにスマホの新着ニュースを確認した。
すると、そこには僕の予想もつかないような文字が踊っていたんだ。
『〇〇町自動車運転過失事故の運転手、自宅にて死亡』
……。
……。
……。
……なん……だって……?
『自室にて首を吊っているところを妻が発見し、警察に通報。現場には遺書が残されており、自殺と見られている模様。本件は以前から社会問題となっている自動車運転による過失致死に発展した事故であり、運転手の労働環境についても法を逸脱した過酷な環境であったことが、当時の社員であった人物から告発されており……』
その瞬間。
車内にとても形容しがたい嗚咽が響いた。
……なんで?
……どうして?
この世でもっとも憎んでいた人間が、僕が手を下すまでもなく自ら『責任』をとったんだ。
本来は喜ぶべきことだろう。こんなに嬉しいことはないはずじゃないか。
それなのに。
なぜ。
どうして。
彼の死に、こんなにも涙が溢れて止まらないのだろう。
その時。
僕は初めて気づいた。
この世で誰よりも強く彼を憎みながらも、本当は、誰よりも強く彼のことを赦したかったのだと。
病室で、駆けつけた僕を初めて見た時の顔。
僕の家に、彼が初めて謝罪に訪れた時の顔。
土砂降りの雨の中、傘も持たずに玄関先で立ち尽くしていた顔。
素行調査の時、職場の同僚と弾けるような笑みで写真に映っていた顔。
彼は。
どんな顔をしていただろうか。
彼は。
どんな人間だっただろうか。
全てを視界から消し去ったつもりでも、その実、僕は彼の全てを覚えていたのだ。
彼は自らの過ちを、心から悔いていた。
そして、そんなことはとてもおこがましいと考えたんだろう、僕に赦しを請いながらも、それが受け入れられないことに、けして泣き言を言ったりはしなかった。
ただ。
毎日毎日。
一日たりとも欠かさず。
僕の家を訪れた。
僕が手を下すまでもなく、彼はもう自らに『罰』を与えていたのだ。
けして赦してはもらえないことがわかりながらも、この世で最も憎まれている僕の憎悪を、その一身に受け続ける『罰』を。
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