005 マヴェリカ師匠の魔術講座

 



 朝、目を覚ますと隣にはリージェがいた。


 彼女はいつの間にかドロセアのベッドに潜り込んで抱きついていたらしい。




「お姉ちゃん、おはようございます」




 リージェが朝早くから家にやってきてドロセアを起こすのは、そう珍しいことではなかった。


 領主の娘が平民に尽くすはどうなんだ、と良い顔をしない村人もいたが、そんなお小言ぐらいでやめるほど二人の関係は浅くない。




「おあよ、りーじぇ」




 ドロセアは眠そうな顔でリージェの頭をぽんぽんと撫でる。


 そのまま起き上がるかと思いきや、リージェを抱き枕にして二度寝を始めてしまった。




「お姉ちゃん、起きてください。お父さんとお母さんが待ってますよ」


「んぅ、寝るぅ……」


「もう、夜更かししてたんですか?」


「本……」


「うちから借りていった本ですね。お姉ちゃんは集中すると周囲が見えなくなるから、寝るのも忘れて読みふけっちゃったんでしょう」


「たぶん……そう……」


「でも起きないと、今日は畑仕事だって言ってたじゃないですか」


「んー……」




 なかなか起きないドロセアに業を煮やしたリージェは、ついに実力行使に出ることにした。


 まずはレベル1。




「起きないなら起きるまでくすぐっちゃいますよ」




 耳たぶを指でふにふにしてみる。


 しかし反応はいまいちだった。




「不公平です、お姉ちゃんに触られるとわたしは声が出ちゃうのに」




 ここはリージェの弱点だ、ドロセアに通用はしない。


 次にレベル2。


 首筋をくすぐってみる。




「んふ……んぅ……」


「んふふふ、ここは少し効くみたいですね。早く起きないともっとひどくなりますよ?」


「んー……」


「い、いいんですか? もっとすごいことしちゃいますからねっ」


「いい……よぉ……」




 許可が出てしまった。


 リージェは「お姉ちゃんが悪いんですからね」と呟くと、指でくすぐっていた首筋に顔を近づける。


 距離が縮むほどに、少しだけ汗の混じった甘い香りが強くなる。


 ドロセアの寝息も耳をくすぐり、リージェの顔はみるみるうちに赤くなっていった。




「ほ、本当にいいんですね……唇で、ふ、触れちゃいますからね……?」




 繰り返し許可を取るということは、それが不健全な行為であるという自覚はあるらしい。


 とろんとした目のリージェはさらに首筋に顔を近づけ、唇と肌の距離がさらに近づいたところで――緊張と興奮から、ふっと吐息を吐き出す。


 呼気がドロセアの首を撫でる。




「んっ、ふうぅ……」




 震える喉から甘い声が漏れ、リージェはガバッ! と体を起こし飛び退いた。




「い、今の声……お姉ちゃん、が……? そんな、お姉ちゃんがあんな声を出すなんて……っ。い、いけませんそんなのっ!」




 思わず彼女は床にへたり込み、自分の胸に手を当てた。


 聞いたことのない、色気のあるうめき声に心臓がバクバクと高鳴る。


 とてもいけないことをしている気がして、禁忌を破る背徳感に背筋がゾクゾクして体が震える。


 平静を取り戻すべく深呼吸をしていると、自然とドロセアが目を覚ました。




「リージェ、だきまくらぁ……」




 しかし完全な覚醒にはほど遠く、リージェを抱いて三度寝するつもりのようだ。




「も、もうっ、いい加減に起きてくださいっ!」




 軽く八つ当たりするように、不機嫌な返事をするリージェ。


 異変を察知したドロセアはゆっくりと体を起こし、寝ぼけ眼をこする。




「……どうしたの、リージェ」


「お姉ちゃんがわる……いえ、なんでもありません」


「でも怒ってる」


「怒ってませんって! その、全部わたしが悪いので」


「んー、よくわかんないけど……ぎゅーってしとく?」




 両手を広げるドロセア。


 強烈な誘惑だった。




「まだ二度寝するつもりでしょう」


「もう寝ないよお、お父さんに怒られちゃうから」


「でしたら……」




 わずかにためらいながらも、リージェはドロセアの胸に飛び込んだ。


 大好きな人の腕に包まれながら、リージェの乱れていた心は落ち着いていく。




「しあわせだねぇ」


「はい、幸せです」


「ずっとこうしてたいねぇ」


「はい、ずっとこうしていたいです」




 これだけあれば他に何もいらない。


 心の底から、二人はそう思っていた。




「お姉ちゃん、大好き」




 恥じらいもなく、惜しげもなく、リージェはドロセアに好意をぶつける。




「私も大好きだよぉ」




 当たり前のように、ドロセアはそう返事をする。


 もはや疑う余地もない。


 何なら言葉にする必要も無いほどに、二人はお互いを求めあっていた。


 ふと、リージェが顔をあげる。


 ドロセアを真正面から見つめて、至近距離で瞳を潤ませる。




「お姉ちゃん」




 そして頭から大量の血が流れ落ちた。




「たすけて」




 その体がどろどろに溶けていき、ドロセアの上で血と肉のスープと化す。




「たすけて、たすけて」




 スープはなぜか流れ落ちずに、まるで絡みつくようにドロセアの体に染み込んでいく。


 生ぬるく生暖かい生きた液体が、血管に侵入して全身に運ばれていく。




「お姉ちゃん――」




◇◇◇




「たすけて」




 朝、目を覚ます。


 場所はマヴェリカに与えられた部屋のベッドの上。


 閉じたカーテンの隙間から光が差し込み、暗い部屋をわずかに照らす。


 不自由な視界の中、目の前には人の顔らしきものがあった。


 魔物化した肉は全て切り落としたはずなのに、右腕の前腕が紫色に膨らんでいる。


 そこから伸びた触手はドロセアの顔に近づき、表面に人間の顔らしきものを浮かび上がらせていた。


 それを一瞬でリージェであると判別できるのは、おそらくこの世でドロセアだけだろう。




「お姉ちゃん……わたし、ここにいる、よ……」




 しかしそう長くは続かず。


 触手は急に力を失うと、灰色になって枯れてしまった。


 ドロセアの腕からも剥がれ落ち、やがてサラサラの灰になって消えていく。


 彼女は無言でそれを見送った。


 落ち着いているのか、困惑しているのか、夢と現の狭間にいるような感覚の中、ドロセア自身にもよくわからない。


 灰もどこかに飛ばされて残っていないので、触れても痕跡すら見当たらなかった。




「リージェの身に、何か起きてるの?」




 不安に胸がぎゅっと締め付けられる。


 だが今のドロセアにできることは、リージェを救い出すために少しでも早く強くなることだけだった。




◇◇◇




「よろしくお願いします、師匠っ!」




 ドロセアはそう言って勢いよく頭を下げた。


 やる気に満ちた彼女を前に、マヴェリカは困り顔で頭をかいた。


 『S級魔術師より強くなりたい』というドロセアの願いを聞いてから、三日ほどが経過した。


 彼女はすっかり元の人間の体に戻っている。


 何箇所か傷跡が残っていたり、体力は完全に戻り切っていないようだが、森で軽く体を動かすぐらいなら問題は無いだろう。


 そう思ってマヴェリカはドロセアを連れ出したわけだが――彼女はやる気に満ち溢れていた。




「いいかいドロセア」


「はいっ!」


「この世界で魔力を自前の目で見ることができるのは、おそらくドロセア一人だけだ」


「そうなんですね、師匠!」


「う、うむ……私が師匠になると言っても、教えられるのは既存の魔術についてのみ。シールドやその目の使い方については、二人で調べていくことになる」


「わかりました、師匠!」


「だから、師匠と弟子というよりは共同研究者とでも言うべきで――」


「はい、師匠!」


「……あのさ」


「なんでしょうか、師匠!」


「師匠って呼ばれるのむず痒いんだが……」




 マヴェリカが困っている最大の理由は恥じらいであった。


 彼女は弟子など今まで取ったことがない。


 距離感を測りかねているのだろう。




「ですが師匠は師匠です」


「最初みたいに別に砕けた口調で話してもいいんだよ?」


「教えを乞う立場ですから、こっちの方がいいかと思いまして!」


「そうかな?」


「はい、そうです!」


「体力が有り余ってる返事……まあ、ドロセアがそれでいいなら私が慣れていけばいいだけの話か……いや慣れるかなぁ……」




 観念したマヴェリカは、気を取り直してドロセアと向き合う。




「ひとまず、最初は簡単なところから行こう。私の体内の魔力は見えてるかい?」


「はい、まるで血管に乗って移動してるみたいに全身を巡ってます」


「魔力は血液に溶け込んでるからね、まさにその通りさ。じゃあ次は初歩的な魔術を使ってみるよ。どう魔力が移動してるかを教えてほしい」




 マヴェリカは手近な木の幹に向かって手を伸ばすと、術式を展開。


 10センチほどの石の塊を射出した。


 勢いよく飛び出した石は木に衝突し、その表面を深くえぐり取る。




「今のはどう見えた?」


「まず師匠の体の中から魔力が手のひらに集まっていきました。そのあと急に術式が浮かび上がって、魔力がその中を通ると、個々が独立した粒だった魔力が四個ずつくっついてました。あれ何なんですか?」




 ドロセアの言葉を聞き、マヴェリカは満足気に口角を上げる。




「本当に便利な目だねェ。普通の人間がそれを見ようと思ったら、王都の研究所にあるバカみたいに高い道具を使わないと不可能だ。しかも精度だってそこまで高いわけじゃない」


「そんなに大変なんですね」


「研究所にいる魔術師全員、喉から手が出るぐらいほしいだろうさ」




 ドロセアは喉から手を出す魔術師たちの姿を想像し、「うえぇ」と頬を引きつらせた。




「赤い薬を飲ませた連中は、おそらくドロセアを殺すつもりで使った。けどそれは結果としてドロセアに唯一無二の力を与える結果になったわけだ。そう考えると清々しい気分にならないかい」


「ざまあみろって思っちゃいますね」


「だろう? こういうのは前向きに考えるのが大事なんだ」




 励ましのつもりだろうか。


 マヴェリカの端々ににじみ出る人の良さがなんだかおかしくて、ドロセアはくすりと笑った。




「さて、話を戻そうか。魔力ってのはただの粒子に過ぎず、それ単体では何の力も持たないんだ。術式を通すことで、その魔術の属性に応じた形状に結合を行う」


「魔術って、元素精霊に呼びかけて火や風なんかの自然現象を起こすって聞いたことありますけど、それとも関係あるんですか?」




 それは魔術の基礎知識である。


 体内にある魔力を使い、あらゆる現象を司る“精霊”という存在に呼びかけるのだ。




「精霊たちは結合した魔力を食べる代わりに様々な現象を引き起こしてくれる。言ってしまえば魔力というお金で、精霊たちを雇ってるというわけだね」


「結合してないとダメなんですね」


「ただの粒子の状態では興味も示さないようだねえ、贅沢なやつらだよ」


「そのために術式は欠かせないわけですか」


「そして精霊の種類によって好む魔力の結合形状も異なる――つまり術式の形状も変わるってことだね」




 そう言って、マヴェリカは手のひらの上で火、水、氷、土、風と順番に生み出していく。


 さらっとやっているが、一般的にどんな魔術師でも扱える属性は一つであることが多い。


 ドロセアはリージェの近くにいたからか、はたまた魔術に詳しくないからなのか、反応が薄かった。


 マヴェリカは内心では少し落ち込んでいた。


 それはさておき、ドロセアにはそこに発生した魔力の形状の違いがはっきりと見えているようだ。




「ほんとだ、形も色も違う。つまり術式は、精霊と人間の橋渡しをする翻訳道具ってことでしょうか」


「正解だ」


「術式って、あの複雑な図形を頭の中に浮かべて作ってるんですか? 魔力で作られてるみたいですけど」


「魔術の才能がある人間が、正しく脳内でイメージして魔術を発動すれば勝手に浮かび上がってくる。魔力に備え付けられた機能の一つだよ」




 いまいちピンと来ないのか、ドロセアは首をかしげた。


 Z級魔術師である彼女はどれだけ念じても術式を生み出すことはできないのだから、それも仕方のないことだ。




「ただの粒子なのに、そんな機能まで付いてるんですね」


「便利すぎる、と思うかい?」


「はい……率直に言うと、少し不気味に思うぐらいに」


「その違和感は悪くない、忘れずに胸の奥に秘めておくといいよ」




 想定外のマヴェリカの反応にきょとんとするドロセア。


 少し失礼なことを言ってしまったかな、と思っていたのだが反応は真逆だった。




「ただし、今はそういう現象だと理解してもらうしかないねえ」


「てっきり、みんな術式を暗記して使ってるのかと思ってました」


「魔術が生まれたばかりの頃はそれに近いことはやっていたようだねえ。しかし時代が進むにつれ、より効率的な魔術の使い方が広まっていったというわけさ。けれどどちらにせよ、才能の壁は立ちはだかる。肉体の魔力との相性……体質ってやつだね。仮に術式を完全に頭に叩き込んだとしても才能が無ければ魔術は使えないし、雑なイメージしかできない人間でも才能があれば使えてしまうのさ」


「それを区別するのが選別の儀……」


「そういうことになるね。今でこそ儀式とか言って教会がやってるけど、本来はあれも魔術師の研究によって生み出された成果なんだ」




 手柄を横取りし、『神のお告げ』のように扱う教会が気に食わないのか、マヴェリカの言葉にはちょっとした棘があった。




「魔術の才能は鍛えることはできない上に、血統も関係してる。魔術師は自分の才能を次代へと受け継ぐために、結婚相手に魔術師を選ぶことがほとんどだ。それを繰り返すうちに特権階級と化し、魔術の恩恵を受けられるのは一部の人間だけになっていく……」




 リージェは領主の娘。


 エルクも裕福な家の息子だった。


 ドロセアがZ級魔術師になったのは、なるべくしてなった結果とも言える。




「当然、魔術を使えない人間は魔術師への不満を抱えることになる。それを和らげるために、神に責任を押し付ける手法を否定はしきれないんだよねえ。平和のためには仕方がないことなのかもしれない」




 仕方がない、と言いながらマヴェリカは不満げだ。


 ドロセアも今さら不満には思わないが、不公平な仕組みだとは思う。




「でも才能に関係なく、シールドだけは誰でも使えますよね」


「あれは特殊だからね。一般的な魔術は、魔力を精霊に食わせることで発動する。しかしシールドは違う。魔力に備え付けられた“術式生成”という機能を使わない。魔力そのものを防壁として使うから、術式が必要ないからね」


「赤ちゃんでも使えるって言いますもんね」


「確かにそういう例はあるみたいだねえ」


「最弱の初歩魔術――」


「“原初の魔術”って言えばかっこよく聞こえないかい?」


「ものは言いようですね」


「実際、ドロセアのシールドは特殊なんだ。それぐらい見栄を張っていいと思うよ」




 ドロセアはまだそこまでの自信を持てていない。


 だがそうも言ってはいられなかった。


 リージェをエルクや教会から奪い返すと決めた以上、止まるつもりはない。




「早速、そのシールドで実験を始めようか。まずは普通に展開してごらん」




 自らの前方にドロセアはシールドを広げる。




「そこに私が魔術をぶつける。最初は……そうだね、炎の魔術から行ってみようか」


「炎……魔力粒子は三つ、三角形に結合してましたね」


「それがシールドと衝突したとき、どうなるのかを見てほしいんだ」




 飛来する火球。


 その内側に存在する結合した魔力。


 それらはシールドに衝突すると、形を維持したまま弾かれるものもあれば、結合が解け単一の粒子に戻るものもあった。


 続けてマヴェリカが指示を出す。




「続けて魔力障壁のみ、物理障壁のみをそれぞれ試してみよう。終わったら見たものをこっちの紙に記録してくれるかい」


「これってまるで実験みたいですね」


「言ったろう、教えるというよりは共同研究だと。だから師匠なんて呼び方せずに――」




 それでマヴェリカは師匠と呼ばれるのを嫌がっていたかというと、実際はそれだけではない。


 傷つけてしまった相手に、師匠と呼ばれる資格は無いと思っているのだろう。




「いいえ、師匠は師匠です」




 だからこそドロセアは呼び方を変えない。


 マヴェリカを責めるつもりなど微塵もないのだから。




「思ったより頑固な子だねえ」


「責任持って強くしてもらわないと困りますから」


「そう言われると返す言葉が無い。気を取り直して、さっき言ったのをやってみようか」




 二人の実験は続く。


 物理のみを防ぐ障壁でも、魔術の防御は可能だ。


 しかし魔力を弾く作用は無いため、防ぐというよりは受け流す、と言ったほうが近い挙動になる。


 一方で魔力障壁を用いた場合は、弾かれた際に魔力の結合がほどける。


 それらの記録を取りながら、ドロセアはふと思いつく。




「師匠、今度はこのシールドで魔術を受け止めたいんですが」


「これは……シールドの表面に細かい凹凸――スパイク状にしてあるのか」


「魔力の結合を解除するには、シールドと強く衝突する必要があります。こうすればより効率的に魔術をほどく・・・ことができるのではないかと」


「面白いね、やってみようか」




 先ほど同様、マヴェリカは炎の魔術を放つ。


 燃え盛る赤い球体はドロセアのシールドに接触すると、霧散してその大半が消滅した。




「こりゃあすごい。少し形状を変えるだけで、こうも効果が出るとは!」




 目を見開き喜ぶマヴェリカ。


 よほど大きな成果だったのか、拍手までしている。




「形状もさほど複雑じゃない、個人が使える対魔術防御の手段としてはかなり上等だろうね。まあ、シールドを変形させる時点である程度の訓練は必要になるが――訓練だけで誰でも使えるという点で大きな意味がある」




 一方で、ドロセアはどこか不満げだ。


 実際にシールドを使用した人間として、この方法が完璧ではないことに気づいていたからだ。




「……もっと効率よく、魔力をほどく形がある気もします」


「それはこれから少しずつ試行錯誤していけばいい。最初にしてはかなり大きな成果だ、素直に喜ぼうじゃないか」


「そう、ですね。今までの私より、ずっとすごいことできてるんですから」


「ああそうさ、ドロセアが考案した、ドロセアだけの魔術とも言える」


「そう言われると、自分に才能があるような気がしてきます。調子に乗っちゃいそうです。ではもう一つ、別の方法を試してみたいんですがっ」


「ふふっ、いい好奇心だねえ。私も楽しませてもらってるから、いくらでも付き合うさ」




 次も凹凸のあるシールドで魔術を受け止める、という点までは一緒だった。


 だがその後が違う。


 ドロセアはマヴェリカが放った炎の魔術をシールドを弾いた直後、布で包み込むように形状を変化させた。


 完全な球体になったシールドの中には、くすぶる炎と不可視の魔力が浮遊している。




「風船の中に魔力を閉じ込めたのかい」


「んん……閉じ込めた魔力を再利用できないかと思ったんですが……」


「はは、シールドに封じ込めたとはいえ他人の魔力だからねえ。それはさすがに制御できないだろう」


「そうですね。シールドの魔力に流用できたら、自分の魔力を消耗せずに済んだのに」




 肩を落とすドロセア。


 シールドを解除して、閉じ込めた魔力を解放しようとしたところで――「待った!」とマヴェリカが制止する。




「どしたんです、師匠」


「そのままで聞いてくれ。無茶だと思ったら途中で言ってもらっていい。まずその球をそのまま輪っかに変えることはできるかい?」


「問題ありませんけど」




 ドロセアの手の上にあった球体は、真ん中に穴の空いたドーナツ形へと変わる。


 続けてマヴェリカは緊張した様子で指示を続けた。




「その管をどんどん細くしておくれ。破れて魔力が外に飛び出さないよう、限界まで」


「両手を使っても構いませんか?」


「ああ、構わないよ」




 集中したドロセアにより、輪っかはどんどん細くなっていき、やがて裁縫糸ほどの太さになってしまった。




「ここまでやれちまうのかい」


「遊びであやとりの紐代わりに使ったりもしてたんですよ。リージェも喜んでくれたので、浮かれてもっとも上手にできるようにって練習したことだってありました」


「あやとり……じゃあこの状態からさらに変形させることもできるんだね?」


「行けます」


「できるだけ単純な術式・・を選ぶつもりだけど、無理するんじゃないよ」


「術式……?」


「まず中央から下に管を垂らして、そう真っ直ぐ。ちょうど真ん中まで――」




 そこからマヴェリカの指示はさらに細かくなった。


 シールドで作り出した輪の中に、まるで繊細な絵でも書くように。


 ドロセアの額に汗が浮かぶ。


 さすがの彼女も、ここまで細かい図形を描くのは初めてだった。


 だが無理だとは思わない。


 右目のおかげで、シールドがぶれて崩れそうになる予兆もわかる。


 魔力の制御は以前に比べると格段に楽になっており、まだ自分の限界は先にあるという確信があった。


 そして作業を続けること一時間――




「できた」




 興奮し目を見開いたマヴェリカが、そうつぶやいた。


 ドロセアが作り出したのは魔術の術式――それも、先ほどマヴェリカが使用した炎の術式と同じものだった。




「確保した魔力はまだシールド内部に閉じ込められているかい?」


「ええ……ほとんど外には漏れていないはずです」


「魔力の循環はどうなってる?」


「糸の中で勝手に動いてます、まるで体を循環する魔力みたいに。これって、まさか……」


「そのまさかだよ。それはシールドで擬似的に作った術式が正常に動いてる証拠だ。もし、そのまま正常に魔力の結合まで起きるのなら――炎の魔術が発動するはずさ」




 マヴェリカの目が、燃えたぎる好奇心にギラついている。


 当事者であるドロセア以上に、彼女が起こそうとしている現象に心を奪われていた。




「魔力が加速する……」


「術式中を循環する魔力の速度が一定以上になれば……魔力同士の結合が起きる。放出のタイミングはドロセアの好きなようにしな。十分な量の結合が行われたと思ったんなら、解き放って構わない!」


「……い、いきますッ!」




 マヴェリカに気圧され、さらに緊張しつつも、ドロセアのシールドは揺るがない。


 循環する魔力粒子はやがて火を纏い、術式全体が赤く染まった。




「てえぇぇぇえいいッ!」




 そしてシールドを解除し、内部の魔力を解き放つ。


 燃え盛る火球が射出され、前方にあった岩に衝突。


 炸裂し、その表面を砕き、焦がした。


 威力は大したことない。


 だが大事なのは、Z級魔術師の烙印を押されたドロセアが魔術を使えたという事実である。




「おめでとうドロセア、今のが火属性の基礎魔術であるファイアボールってやつだ」


「私の魔術……術式が作れなくても、魔術って使えるんですね!」




 自分の手のひらを見つめながら、感激するドロセア。




(参ったねえ、まさか成功するとは。これは大事件だ)




 一方マヴェリカは内心少しばかり困っていた。




(これでこの子は理論上――この世に存在する全ての魔術を模倣できるようになったわけだ。しかも他人の魔力を利用してね)




 ドロセアがあらゆる魔術を完全に理解するという前提がある以上、机上の空論に過ぎないが、秘めたるポテンシャルの高さは計り知れない。


 マヴェリカは数日前、冗談半分で『無限の可能性』という言葉を使ったが、あながちそれも間違いではないのかもしれない。


 ドロセアはそんな師匠の心中を知る由もなく、無邪気に喜んでいた。



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