003 私の進む道

 



 あたふたと焦る魔女を見て、ドロセアはすぐに彼女が悪い人ではないとわかった。




「ど、どどっ、どうしたらっ! そうだ、まずはこの杭を抜いて――」


「抜かない、ほうが……いい」


「でも痛いだろうに!」




 今さら痛みを心配するのがおかしくて、わずかに頬を緩めるドロセア。




「まだ……完全に、意識が、戻ったわけじゃ……たまに、化物に、持っていかれて……」


「そ、そうなのかい? 魔物化すると膨張した部分が人間の脳のような働きを始めるけど、やっぱり自我もそっちに呑み込まれて……って冷静に考えてる場合じゃない! ならどうしたらいい? 何か他にやれることはあるかい!?」


「まず、は……自力、で、体……取り戻、す」


「自力でって――いやそうか、声を取り戻したのも自分でやったんだったね」




 こくりとドロセアは頷く。


 つまり魔女にできることは無い。


 ひとまず実験を中断して見守っていてほしい、というのが望みだった。


 だが――困ったことに、そうなると魔女の中にはとある欲求が芽生える。


 彼女は親指を噛み苛立たしげにしばし悩むと、何やら忍び無さそうに口を開く。




「すごく、横柄なことを要求してるってのはわかってるんだけど……一つ、こっちからお願いしてもいいかい」


「……なに、を?」


「人の姿に戻ったらできる限り、何でも頼み事を聞くからさ。だから、その……人間に戻るまでの経過を、詳しく記録に残しておきたいんだ」


「ああ……」




 確かに、魔物を研究する人間としては、かなり興味をそそられるサンプルだろう。


 そもそも魔物化した人間というだけで貴重だろうし、そこから元に戻るとなると、過去にそんな例が存在したかもわからない。


 もちろんドロセアが首を横に振れば、魔女も諦めるだろうが――




「いい、よ。別に……困らない、から」




 ドロセアがそう答えると、魔女は「本当かいっ!?」と嬉しそうに声をあげた。


 だが不謹慎だと思ったのか、すぐに咳払いして真剣な表情に戻る。




「無事に戻れたら何を言うことを聞くよ。どんな無茶振りでも私もできるだけそれに応えるから。今のうちに考えといておくれ」




 急にそう言われても、何も思い浮かばないというのが正直なところだ。


 ひとまず今は後のことなど考えず、魔物の肉体を切り離す作業を始めることにした。




 ◇◇◇




 魔力を失った魔物の肉体は、まるで壊死したようにその機能を失う。


 そして肉が剥がれるたびに魔物の本能とも言うべき、暴力的な意識は弱まり、魔術の制御もしやすくなっていった。


 不幸中の幸いと言うべきか、どうやら肉体の主導権を奪われた中でシールドを行使する、という経験はドロセアの魔術制御の精度を格段に向上させたようで、作業は彼女自身も驚くほどスムーズに進んでいった。


 ひとまず一日をかけて、頭部を解放する。


 沈められた水の中から、久しぶりに地上に出られたかのような清々しさ。


 魔物の肉のせいで生くさい匂いが充満しているはずなのに、ドロセアは空気のおいしさを感じた。


 しかし彼女が安堵する一方で、あらわになったその顔を見た魔女は頭を抱えている。




「まさかあんなに小さな女の子だったなんて……しかも純朴で優しそうな子だ。それを生きたまま開いてたとか許されるわけがない……というか今までの魔物も実はそうだったりするのかい? だとしたら凹むどころの騒ぎじゃないよ……」




 森の奥の小屋で一人で暮らす魔女――と聞くと、浮世離れ、人間離れした常識の及ばない人物を連想してしまう。


 だがこの魔女はとことん人間らしかった。




「魔女さん、そこまで落ち込まなくても、あのときの私は誰がどう見ても化物だったから」




 頭部が解放されたおかげか、ドロセアは正常に近い状態で喋れるようになっていた。




「だからって――ん? 魔女さんってもしかして私のことかい?」




 自覚が無いのか、魔女は自分を指さしながら首を傾げる。


 うなずくドロセア。




「誰が見ても魔女さんって感じの格好してるから」


「ははっ、別にそんなつもりはないよ。知り合いが王都で流行ってるって言って持ってきたのさ」


「流行ってるの?」


「流行ってないのかい?」


「私は田舎に住んでたから、都会のことはあんまりわからないけど……見たことないかも」


「まさか流行がもう終わったなんてことは――ほんの五年前に貰ったばっかりだっていうのに」


「五年前。私、八歳だ」




 八歳という単語を聞き、魔女は固まる。




「……五年って長いんだねえ」




 そして時の流れの早さを嘆き、うなだれた。


 どうやら魔女を傷つけてしまったようだ、と気づいたドロセアは慌てて話題を変える。




「そ、そうだ、魔女さんって名前はなんていうの?」


「ああ……私はマヴェリカだよ、お嬢ちゃんは?」


「ドロセア」


「いい名前だね。そんないい名前の子を、私はあんな目にいぃ……!」




 再び罪悪感の渦へと呑み込まれてゆくマヴェリカ。


 被害者当人であるドロセアが何を言っても立ち直りそうにはなかったので、彼女は苦笑いするしかなかった。




 ◇◇◇




 翌日、なおもドロセアの自己治療は続く。


 ようやく罪悪感が落ち着いてきたマヴェリカは、徐々に戻っていく肉体を観察しながら、何かを記録しているようだった。


 しかしいくらシールドが初歩的な魔術で、消耗する魔力も限りなく少ないといえど、一日中使っていると疲れが溜まってくる。


 半日ほど作業を続け、外がすっかり暗くなった頃、ドロセアは「ふぅ」と息を吐き出した。




「今日はこれぐらいでいい、かな」




 首から右腕を解放し、続けて左腕も自由になったところまで進んだ。


 進行スピードは、面積で比べると昨日よりかなり早くなっている。


 右手で額に浮かんだ汗を拭うドロセアに、魔女は微笑みかける。




「今日も頑張ったね、ドロセア。お疲れ様」


「マヴェリカさんも、一日中ペンで何か書いてたし疲れたんじゃない?」


「そんなの気にするほどのことでもないさ。ところでここ一ヶ月ぐらい何も口にしてないはずだけど、お腹は空かないのかい?」




 ふいにそんなことを聞かれて、ドロセアは久々にその“概念”を思い出す。




「そういえば、お腹も空かないし喉も渇かない……」


「魔力で補ってるってことなのかねえ。けど内臓が正常な状態に戻れば、急激に反動が来る可能性もある。今のうちに食べておいたほうがいいかもしれないね」


「もらえるの?」


「当然じゃないか。言っておくけど、こんなのは償いうちに入らないからね」




 そう言って、マヴェリカはキッチンからパンを持ってきた。




「体が治ったら好きなもんを食べさせるよ。今日はお試しってことで、味気の無いパンだけど辛抱しとくれ」




 魔術で小さく切った硬めのパンが、ドロセアに手渡される。


 彼女はそれを口に運び――控えめにかじった。


 香ばしい風味とわずかな塩気が広がる。


 特に何かを思い出したわけでもないのに、勝手に胸が熱くなって、じわりと瞳が潤んだ。


 その様子を見たマヴェリカが慌てだす。




「お、おいしくなかったのかい? それとも急にお腹に入れたから具合が悪くなって――」


「う、ううん、そうじゃなくて。何でだろ、久々に人間らしいことしたなって……そう思っちゃったのかな」




 確かにパンは腹を満たしたが、これで何かが変わったのかはわからない。


 感じられたのは口の中の感触と、喉のあたりを通るまで。


 けど、たったそれだけのことが、無性に嬉しくて、それを嬉しいと感じる今の境遇が虚しくて。




「ただ大切な人と一緒にいたかっただけなのに、あんなに痛い思いをして、化物にされて……」


「よかったら聞かせてもらえるかい、ドロセアがどうして魔物に変えられたのか」


「うん……私には、リージェっていう親友がいたの。リージェは小さい頃からずっと一緒にいようねって約束した、妹みたいな存在で――」




 それは記録に残すためではない。




「本当にただ、一緒にいたかっただけなんだ。選定の儀とか、聖女とか、教会とか、そんなのぜーんぶどうでもよくて。リージェも同じことを考えてたはずなのに。でも、選定の儀があったあの日から。リージェがS級魔術師になって、私がZ級魔術師になった瞬間から、世界が変わっちゃったんだと思う」




 ドロセアが吐き出すために必要な時間だった。




 ◇◇◇




 次の日、ドロセアの上半身はほぼ人の姿に戻った。


 今のところ体調に問題は無い――が、腹部が戻ったあたりで喉の乾きと空腹感が戻ってきた。


 不便になったはずなのに、ドロセアはその人間みある感覚にほっとする。


 マヴェリカは、コップで水を飲む彼女の様子を見ながら、遠慮がちに切り出す。




「うーん……こういうの、私の方から聞ける立場じゃないってのはわかってるんだけど、一つ聞いてもいいかな」


「困ることでなければ」


「どうやって魔物の体を切り離しているのか、その具体的な方法だよ。正直に言うと、それが一番記録に残しておきたい部分なのさ」




 マヴェリカも本当は、ずっと尋ねたくてうずうずしていたはずだ。


 しかし今優先すべきはドロセアが無事に人に戻れること――そう自分に言い聞かせ、喉から言葉が出そうになるのを飲み込んでいたのだろう。


 だが、上体を起こし、自分で飲み食いができるようになったドロセアに対してなら、ギリギリ聞いてもいいはずだ、と判断したに違いない。


 無論、彼女はそれを拒んだりしないのだが、マヴェリカの良心の問題である。




「シールドの魔術を使ってるよ」


「それは見てたらわかる、けどそんな使い方ができるシールドなんて聞いたことがない」


「と言われても、シールドを使ってるだけなのは本当だから……」


「よかったら実演してもらえるかな」




 ドロセアはこくりと首を縦に振り、まず通常のシールドを手のひらの上に展開した。


 そして意識を集中させ、一枚のシールドを分裂させる。




「まずこうやってね、二枚の膜に分離させるの」


「分離!? シールドを二枚作ったわけじゃない……みたいだね」


「右が物理的な攻撃を防ぐ部分、左が流れる魔力を防ぐ部分」


「シールドが二層に別れてるなんて初耳だねえ。どうやってそれを知ったんだい」


「見えたの。シールドにある、魔力の境目みたいなものが」




 するとマヴェリカは眉間にシワを寄せ、ドロセアの顔を睨むように見つめた。




「薄々そうじゃないかとは思っていたけど、あんたの右目――通常の視界とは違うものを見ているみたいだね」




 これまでの言動と視線の動きから、彼女も気づいたらしい。


 隠すようなことでもないので、ドロセアも頷き肯定する。




「まだはっきりわかったわけじゃないけど、たぶん、魔力が見えてるんだと思う。真っ暗な中に、光の粒が浮かんでるのが見えるんだ」


「魔物化や、その後に受けた傷の影響で、視神経がまともじゃない繋がり方をしたんだろうねえ。通常の視力を失った変わりに得た能力ってことか」


「でもこれって本当に魔力なのかな」


「それは間違いないだろうね。でなければ、シールドの二層構造に気づけるわけがない」




 魔術が生まれてからもう何百年も経っている。


 普通の人間が気づけるものなら、とっくにそれぐらいわかっているはずなのだ。


 なにせシールドは初歩中の初歩、誰だって使えるような代物なのだから。




「それで、二枚に分けてからどうしたんだい?」


「魔力にだけ干渉するシールドを使って、“魔物の部分”から魔力を奪ってみたの」


「魔物の肉体が魔力によって支えられていると考えたわけだね」


「ひょっとしたら、魔力が急に増えたせいで私の体は魔物になったんじゃないかって思ってたから。でもそれだけじゃうまくいかなくって」


「つまり魔力を奪うのを諦めた、と」


「ううん、シールドの使い方を変えたんだ。実は二層あるだけじゃなくて、表と裏があって」


「ああ、それはわかるよ。確かにシールドの強度は裏と表で違う」




 いくら初歩魔術とはいえ、上位の魔術師だって身を守るのにシールドを使うことはある。


 その中で、表と裏の差ぐらいは気づく者もいるだろう。


 だが気づいたところで何かに使えるものではない。


 そもそも簡単に裏返せるようなものでもなかったし、裏返す必要もなかった。




「つまりドロセアは、それを裏返して使ったってことだね」


「うん、難しかったけど、なんとか」


「興味深い話だねえ……聞いた限りの印象だけど、ドロセアは異様なまでにシールドの制御に秀でている。過去にこんな例は聞いたことがない」


「異様……なのかな。昔から、手遊び代わりに形を変えて遊んだりはしてたけど」


「普通はできない。私ならやろうと思えば変形はできるだろうけど、そこで終わりだよ。まあ、一般的にそうする必要がないから、誰もやらないだけとは言えるけども――」




 誰もやらないのは、やったところで何の役にも立たないからだ。


 しかし、今は事情が違う。




「ドロセアのそれは、すでに他の魔術で代用できない領域まで達している。おそらく魔物化した状態から元の肉体に戻ったのは、この世界でドロセアが初めてだろうからね」


「私が……初めて……」




 本音を言うと、ドロセアは少し嬉しかった。


 リージェさえいれば何級魔術師でも構わなかったが、リージェが奪われた今、Z級であるという烙印は彼女にとってあまりに重い枷だ。


 それが少しだけ軽くなった気がする。




「魔物化した不自由な状態でシールドを使い続けたこと、そして魔力が見える目。様々な要素が噛み合った結果とはいえ、Z級の烙印を押された人間が夢見る“魔術師”の範疇はとっくに越えていると言っていい」


「持ち上げすぎ、じゃないかな」


「いいや、胸を張っていい。私はこう見えてもそれなりに実力のある魔術師でね。その私が言うんだ、むしろ自信を持ってもらわないと困るねぇ」




 そう言って歯を見せ笑うマヴェリカ。


 彼女は少々ナルシストというか、自分の魔術の腕に相当の自信を持っているようだ。


 だがその表情には、少しでもドロセアを元気づけようという意味合いも込められていたに違いない。


 すると彼女はきゅっと両手を握り、少し興奮した様子でマヴェリカに尋ねる。




「じゃあ、もしも私が今よりずっとシールドをうまく使えるようになったら……」




 リージェを連れて故郷に戻る。


 両親もいるあの場所で穏やかに過ごす。


 そんなありふれた願いに、並々ならぬ熱意を抱いて。




「S級魔術師よりも強くなれる?」




 ドロセアはギラギラとした渇望を帯びた瞳をマヴェリカに向けた。


 しかし魔女は裏腹に、気の抜けた言葉を返す。




「わからん」


「わからないんだ……」




 がっくりと肩を落とすドロセア。


 マヴェリカはイタズラっぽく笑う。




「だが、もし私がドロセア以外のZ級魔術師に『シールドしか使えませんがS級より強くなれますか』と言われたら、即座に否定するねぇ」


「可能性はゼロじゃないってこと?」


「断言はできない。無責任に言っていいんなら、可能性は無限大かもね」




 ドロセアは少し考え込んでから、口を開いた。




「あの、さ……何でもお願い、聞いてくれるって言ってたよね」


「言ったねえ」


「マヴェリカさんはすごい魔術師なんだよね?」


「それなりにはね」


「だったら……」




 おそらくマヴェリカも、ドロセアが何を言うつもりなのかわかっていたはずだ。


 そう、理解した上で止めなかった。


 だってマヴェリカもわくわくしていたから。




「私を、強くしてほしい。エルクも、教会も、邪魔する奴らをぜんぶ蹴散らして、リージェを奪い返せるぐらい」




 一人の探求者として、未知の領域に足を踏み込んだ人間が目の前にいることに。



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