メンヘラ、異世界へ行く
チモ吉
第0話 メンヘラ、異世界に行く
ある男の話をしよう。
その男は善性を持ち、道徳を重んじ、信仰こそ持たなかったもののいつも誰かに良くあれと行動してきた。
勉学に励み、運動をし、日々真面目に生きてきた。
少なくとも表面上は、対外的にはそう見えていたし。本人も表層審理ではそれこそが自分なのだと疑わず、そう信じて生きてきた。
時には辛いこともあった。
その男は合わない人間とはとことん相性が悪かった。自分の中の正しさ以外を認められぬほどに男は不器用だった。
喧嘩をした。恋に落ちた異性に嫌われることもあった。努力しても報われないことも多かった。
だが、男は善良であった。
一時の感情に呑まれることはあれど、それを引きずることなく人生を歩んでいった。決して他人を疎まず、憎まず、羨まず。そうあれと教えられたまま、彼は育っていった。
幼少期を過ぎ、少年期を過ぎ、青年期を過ぎ、社会人になった。それでも男のあり方は変わらなかった。
変わらなさ過ぎた。その男は、あまりにも不器用であった。
他人に良くあれと生き続けた。そうでなければいけないから。
努力と研鑽を怠らなかった。そうでなければ自分を保てないから。
教育と経験によって形成されたその自己同一性は、その実天性の彼の気質とは根本的に相性が悪かったのだ。
彼は、自閉症と呼ばれる症状を患っていた。
幸運なことに、彼に知性の発達に遅滞は無かった。不運なことに、彼の知性は平均よりも優れていた。
彼は感覚で理解できない他人の感情、機微を知性と経験により類推しパターン化することで問題なく人生を歩めてしまっていた。その所為で、幸か不幸か彼はコミュニケーションに対しあまり困難であるという自覚を持たなかった。
男自身も。そしてその周囲の人々も。誰もそのことに気付いていなかった。
そしてその生き方は社会にとっては順風満帆そのもの。しかし彼にとっては少しずつ、しかし確かな歪みを形成するに十分な代物だった。彼の精神は彼自身が気付かないほどに少しずつ削れていってしまっていた。
始めは倦怠感や頭痛、耳鳴り程度。男自身も働き過ぎたのかと思っただけで、一日だけ仕事を休んだ。彼は誠実で真面目、勤務態度も好評であったため休暇は問題なく受理された。
一日の休息で、その症状は問題なく回復した。しかし翌週になり再発。どういう訳か症状は悪化して再来した。
心配した周囲の者の勧めもあり、彼は再びの休暇――数日程――を取り通院することにした。
検査の結果、体のどこにも異常はなく。過労によるストレスだと判断され、男は何処か違和感を感じつつも門外漢たる自分が判断することではないと医者の指示に従い休職することにした。
家で体を休める男。だが、症状は一向に改善しない。それどころかどうしてか、どういう訳か悪化する一方だ。
耳鳴りや頭痛、倦怠感はより頻度を増し、夜も上手く眠れなくなり、食欲も減って酷い時には何もせず一日寝たきりな時すら現れるようになった。
そんな日々を過ごして何日しただろうか。
何週間……数ヶ月……時間間隔が無くなった男の元に、一件の連絡。
それは、解雇通知だった。
労働基準法に基づいた、正当な解雇通知。解雇の三十日前に通告される、解雇通知であった。
それを見て、男は虚無感以外何も感じなかった。
当然のことだと思った。
会社は営利団体だ。法人だ。生産物を生み出さない自分を、そう長い間いつまでも従業員として留めておく理由などないと、そう思った。
男はその通告を見てから、ふと思い立って携帯電話を確認した。
体調を崩してからしばらくは、彼を心配する言葉が綴られたメッセージが見られた。だが、日付が進むにつれてそれらは数を減らし、代わりに彼に対する不平不満、時には罵詈雑言とすら呼べるほどのモノへと変わっていっていた。
その言葉の数々は、使用者である社長や会長だけでなく同僚各位、ひいては男の両親からの言葉ですら例外ではなく。
そうして数日して。
病死か、餓死か、それとも自死か……それは誰にももう分からず、男自身にも分からず、既にどうでも良いことなのだけれど。
彼は、この世界から旅立ってしまった。
――――
始めに、どこか青臭いような植物の匂いを感じた。
次に日の光。心地よい暖かさと、まぶた越しでも強いと感じる光量。涼し気な風、適度に乾燥した空気。遠きに聞こえるは鳥のさえずりと彼彼女らの羽ばたく音。
都会からかけ離れた大自然とも言える平原。あるいは草原。
そこに自分がいるのだと目を開かずとも分かった。
だが、それだけだった。
匂いに、日光に、空気に、音に、雰囲気に。それらすべてに心地よさは感じる。確かに感じる。
だが、心の内に広がった虚無感が。この体を地に射止める重力が、無気力な倦怠感と活力の無さが、それらを上回るのだ。
心地よい。だからなんだ。どうでもいい。
もう何も考えたくない。何も感じたくない。
目を閉じたまま。眠れるわけがないと自覚しつつも男は意識を失おうと無意味に努力する。
そうしてしばらく。
風と、それに揺れる草の音に混じって、やや人工的な駆動音が近づいてくるのを男は感じた。
その音は機械音に近く、例えるなら畑を耕すトラクターのよう。だがそこまで激しく大きな音でもない……駆動する歯車が互いに軋ませ合う音、が近いだろうか。
その音は目を閉じた男の傍で停止した。
何が起こるのだ、と男は考えた。
何が起こってもいい、とも男は考えた。
全て、全てが今の彼にはどうでも良かった。
「――――、――」
何か、言葉のような音が聞こえた。
どうでもいい。
頬に何かが触れた。
どうでもいい。
胸倉を誰かに捕まれ、強引に立ち上がらされた。無意識に体がバランスを取ろうとして、それに失敗しよろけそうになる。それを誰かが支えた。
どうでもいい。
「…………」
僅かに息を飲むような気配。そして。
頬に痛烈な熱さ。
過去の経験則から、自身が殴られたのだと男は気付いた。
生物として備わった防衛本能故か、そこで彼はようやく目を開いた。
目の前には、人型のナニカがいた。
目が、視界がぼやけてなにも見えない。
「――――――」
その存在は何事か呟くと、強引に男の口に何らかの物質――口内から感じる形状からして錠剤のようななにかだろうか――をねじ込み、さらに水を無理矢理飲ませてきた。
男はむせ返りつつも反射的にそれを飲み込む。
しばらくして――男はなぜだか。ようやく。
どうでもいい、以外の感情を抱くようになっていた。
そして、第一声。
「なんか……疲れたな……」
それこそが、前世では一度も言えなかった彼の本音であった。
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