もう一つの器
数秒間、時が止まったかのように静寂が訪れた。地面にコロンと、濃い緑色の核が落ちる。それが決着がついた合図となった。しかし全てが終わったのに、どうしてか緊張感は漂い続ける。
そんな中リーベは居ても立っても居られず、拘束する紾の手を振り払い、リーラの元へ駆け出した。
「リーベ君!」
「あの馬鹿」
ヨアケは舌打ちし、追いかけようとした紾を止める。正直、事情が分からない澄とアゲハも、リーベと同じように駆け寄りたかった。それでも、なんとか理性で足を地面に縫い付ける。
リーベはいつもよりも高いリーラの背中に抱き付いた。背中を覆う鱗は針金のように固く、刃のように鋭い。
「リーラ……?」
何故か彼女の感情が読み取れず、リーベは恐る恐る呼びかける。するとリーラは声に引き寄せられるように、ゆっくりと彼に振り向いた。綺麗に編まれた三つ編みを揺らす頭に、鋭い爪の生えた手が伸びる。
顔を覆いそうな大きな手に、リーベは反射的に目を閉じた。しかし次に来たのは、ポンと頭を撫でられる感覚。その手の仕草は、いつもの優しいリーラだ。
様子を見守っていた紾はほっと胸を撫で下ろし、ヨアケもそこで拳銃を下ろす。
やがて、焼けこげるような音がリーラから聞こえた。翼が散り、徐々に黒い鱗が柔らかな灰色の肌に戻って行く。獣のような手足も同時に戻り、長い髪が隠す体は完全に人に戻っていた。
ふらりとリーラの体が揺れ、その場に座り込む。あの姿になったあとの人間の姿は、とても疲れる。リーベは改めるように、彼女の首に抱き付いた。少しの刺激だが、今のリーラにとっては計り知れない激痛だ。しかし耐えるような唸り声は、リーベの泣き声で掻き消える。
「ワタシは無事だよ。本当に坊やは泣き虫だなぁ」
しかし一度は死んだと思ったのだ。失ったかもしれない恐怖と無事だった安堵で、涙腺はしばらく治りそうにない。
側に行こうとしたヨアケに続いた紾と澄の前に、アゲハが壁を作るように立ちはだかる。紾は何かと首をかしげたが、彼女の真っ赤な顔に意味を理解して背中を向けた。裸を見るなという事だろう。あの姿になれば、必然的に服はボロボロで布切れにもならない。すっかり忘れていた。
リーベも男ではあるがそれどころじゃないだろうし、共に過ごしている仲なのだから、許容範囲か。
紾は一緒に駆け出した澄を、チラリと見る。すると予想通り顔を真っ赤にし、体を固めていた。まるで錆びたロボットのように、小刻みに背中を向ける。
「……澄さんてさ」
「当然ありませんとも。そもそも20時間勤務百連勤のおかげで女性と話すのなんて数年ぶりで」
「ごめん、落ち着いて。ていうか……100連勤て何。アニメでくらいしか聞かない単語なんだけど」
違法労働だとは聞いていたが、よくここまで生きていられたものだ。下手すれば狩人よりも死に直結しそうな職場だ。
澄は背を向けた状態で見えないのに、固く目を瞑っていた。まだ治らない顔の熱に、手でパタパタと煽いでいる。
「……怖くなかった? 初出勤で、リーラのあの姿を見ちゃってさ。普通だったらまず、弱いテンシで、段階踏むからさ」
「あ、いや……凄いものを見てしまった感は、正直あるのですが。な、なんと言いますか」
澄はやっと消えそうだった熱を再度溜めながら、言葉を抑えるようにもごもごと口を動かす。紾は小声でいいように、さり気なく近寄った。すると彼は、風に攫われそうなくらいの小ささで言った。
「興奮して、しまいました」
予想外の言葉に、紾は黒い目をキョトンとさせた。彼の表情を見た瞬間、澄は語弊があると、慌てて言い換える。
「ら、裸体にではなく、その……戦い方や、あの笑顔」
戦闘を心から楽しんでいる、純粋でいて恐ろしい笑顔。容赦のない姿。あれが頭から離れない。心臓が恐怖ではなく、興奮で高なっているのだ。あんな残酷な人の隣で仕事をするなんて普通は怖いはずなのに、関われる事に奇妙な快感を覚えた。
紾はポカンとした顔で、澄の辿々しい弁解を聞いていた。確かに狩人になる者は、皆常識のネジが緩んでいたり、抜けている。しかしまさか彼がそんな事を言うとは思わなかった。
紾は珍しく小さく吹き出す。彼はすぐ辞めてしまうかもと思っていたから、少し安心した。
「僕、澄さん好きかも」
「へっ?」
「僕の助けが欲しかったら、いつでも言って。貴方の事は、多分、忘れないから」
紾はクスクスと淡く笑いながら、そろそろかなとリーラたちへ振り向く。ちょうどヨアケが預かった上着をかけているところだ。歩き出した彼に澄はハッとすると、慌てて背を追った。
よしよしと白い頭を撫でているリーラに、バサリと雑に上着が被せられる。驚きもせず、スムーズに袖を通す彼女にアゲハは目を瞬かせた。
『あの、もしかして……ヨアケさんに預けたのは、全てを見越してですか?』
「ん? あぁ、その通りだよ。力を解放すると、服が無事じゃ済まないからね。あとはワタシが暴れすぎないよう、見張ってもらていたんだ。ほら、ヨアケが合図していたろう?」
アゲハは心の中で、合図? と小首をかしげる。そんなものあっただろうか。
リーラが葉巻を加えると、ヨアケが自分のライターで火をつけた。痛みのせいで、手に力が入らないのは分かっている。
火は葉巻の先に灯り、焦がしていった。その様子を見たアゲハの頭は、記憶にまだ新しいヨアケの手元を重ねさせる。彼女は思わず声を出しそうなのを、ギリギリで堪え、素早くスマホに打った。
『タバコ』
「あ?」
「ははは、正解。よく気付いたね」
ヨアケは上着を預けたところで、リーラが最初は遊ぶ事も、一人で決着をつける事も伝わった。そしてタバコを吸い始めたのは、リーラに「吸いきるまでに終わらせろ」と言ったのと同意。そしてリーラもそれを理解していた。
彼女とは、日本に来てから知り合った仲だ。正しい判断で皆を守ってくれると、心から頼りにしている。だから銃も託した。
「こいつは長時間あの姿だと、中身まで悪魔になるんだよ。だから遊ぶのに時間制限がいる」
「と、言う事は……?」
「敵味方の区別が付かなくなっちゃうって事」
「ま、一度もそんな失態はないがね」
『もしそうなったら?』
「殺す」
紾と本人以外の全員がその言葉に凍り付く。やっと泣き止んだリーベは、紫色に染めた目にまた涙を溜めた。するとリーラは「こらこら」と苦笑いしながら、訂正する。
「数秒間気絶するだけさ。だから坊や、そんな顔をするんじゃない」
「り、リーラさんは……俗に言う不死身、なんですか?」
「完璧な不死身じゃない。再生力と自己治癒力が強いから、すぐ追いつくんだ。それよりも早く刻まれて心臓を潰されでもしたら、さすがにワタシも死ぬ」
一拍置いて、リーラは「と思う」と自信なさげに付け加えた。まだ狩人になって間もない頃、とある人物に何度か半殺し程度にされた。だがそれ以外で、そこまでの相手に出くわした事はない。まあそんな相手に出て来てもらう前に、こちらも強くなればいい。
リーラは葉巻の煙を深く吸って吐く。少しずつ痛みが薄れてきた。試しに手を握るが、来るのはいつもの微量な痛みだけ。
「リーベ、核を持っておいで」
「分かった」
あれは大天使の、リーベの核だ。回収は任せて、リーラはゆっくり立ち上がり、上着のボタンだけ止めた。
「今日は帰るよ。諸君、協力ありがとう。メグル君、後日弁償代を振り込むよ」
「うん」
「その他、怪我がある者は?」
『ありません』
「同じく。あの、そのままお帰りに?」
「替えは持って来てないんだ。荷物になるし」
「露出狂だな」
「仕方ないだろ? 服なんて人間の文化だし。飛んで帰るから捕まりやしないさ」
可笑しそうにクッと笑うヨアケに、リーラは肩をすくめる。そこでリーベが核を拾って戻って来た。テンシの残骸が純白な羽根になり、風に舞う。
その白に混ざるように、漆黒の翼が開かれる。リーベが差し出された手を握るとひょいと抱き上げられ、翼が空を掻いて飛んだ。
「それじゃあ、また」
「ばいばい!」
軽く手を挙げたヨアケに続き、紾とアゲハは手を振り、澄は深く腰を折って見送った。
黒い翼は灰色の空を悠々と駆けて行く。リーベはその間、落とされないようにしがみついた。
「リーラ」
「ん?」
「わたしも、戦いたい」
首に抱き付きながら零れた小さな願いに、リーラはキョトンとする。まるで存在を確かめるように腕に力を込める背中を、優しく撫でた。
「痛いし怖いぞ?」
「うん、いい」
今回、役に立たなかったわけではなかった。しかし戦う皆の後ろ姿を見て、ひどいもどかしさを感じた。大切な人の安否に怯えるのは、自分が怖い目に遭うよりも嫌だ。
「すごく痛くても、すごく怖くても泣かない」
「そうか……いい子だ。だが焦るのは良くない。辛抱できるね?」
戦うには、心身共に鍛えなければならない。そう簡単に実戦すれば、無駄に死に急ぐ。リーベははやる気持ちをぐっと飲み込み、小さく頷いた。
ロイエの店前で降り立ち、翼が消える。扉に掛かったcloseの看板はそのままに、鍵も閉めてそのまま二人はクローゼットを通った。リーラは自室のベッドに浅く腰を下ろし、新しい葉巻に火をつけた。
「核を見せてごらん」
テンシに渡ったせいですっかり穢れただろう。しかし真っ白な手に転がる核は、新緑のような鮮やかな色だ。聞けば、リーベが拾った時に輝き、姿が戻ったのだと言う。
考えてみれば、これはリーベの一部。彼が浄化できてもおかしくない。
「これ、どうすればいいんだ?」
「飲み込んで体内に入れるんだ。そうすればまた一つ、力が戻る」
すでに二つの核が、リーベの体を動かすために集まっている。しかしそのどちらも、意識が無かった時で全く覚えていない。そのため、石を飲み込むという行動は彼にとって初めて同然。少し怖い。だがこれで、少しでもみんなと戦える力が手に入る。
リーベは目を瞑りながら手の中の核を口内に入れ、ごくんと飲み込んだ。喉を通っても痛みや違和感はない。しかし胸の奥に暖かな熱が灯ったのを感じた直後、深い睡魔の影に引き摺り込まれる。
強張っていた顔が弛んだ時、リーラは倒れる前にとリーベの腕を引き寄せた。胸の中にぽすんと収まった彼は、スゥスゥと穏やかな寝息を立てている。これでやっと三つが集まった。先は長い。
「おやすみ坊や」
膝までの三つ編みを解き、額に口付けをする。ベッドに寝かせ、リーラはスマホに通話をかけた。テンシ狩りが無事終了した事をマスターに伝えるためだ。
テーブルに置いて、スピーカーにする。今にも寝てしまいそうに疲れているから、通話が終わっていつでもベッドに倒れられるよう、身支度するためだ。ローブを取り出したところで、相手が通話を取る。
「やあマスター。事後報告の電話だが、時間いいかね?」
『もちろん。そろそろだと思っていたよ。でも……珍しく疲れてるみたいだね?』
「久々に暴れたからね。眠くて敵わんよ」
リーラは大きくあくびをし、出た涙を拭いながら報告を続ける。主には被害者の人数と規模、テンシに新たな動きがあったかなどだ。規模は新宿区内と紾の山だけに収められた。だがやはり、相手が寄生して拡散し続けるタイプだったため、被害は免れなかった。
『悔やみすぎないようにね』
「分かってるよ。だが、大天使の核が大きな影響を及ぼすんだ。のんびりはできない」
倒した時間は数分程度。しかしリーラがその時間内に終わらせたのは、独が力を驕りすぎたからだ。もっと賢く扱いに長ける者の手に渡れば、倒すのに苦労するテンシが現れる。
『それについては集会で』
「そうしよう」
今回のような異例が起こると、数日後に各国代表が集められて報告会が設けられる。そうでなくとも、通信手段を持たない代表が多数いるため、意思疎通などのために年に数回は集会が開かれている。
リーベを紹介するいい機会だ。
『報告ありがとう。日程は調整して後日連絡するよ。あ、書類は明後日までで大丈夫。今日明日はゆっくり休むといいよ』
「恩に着るよ」
それを最後に通話が終わった。部屋の中はしんと静まった。
寝息を立てるリーベの頬を、黒く長い指が撫でる。一つ、気になる事があった。それは彼が失踪から帰って来た時の、紅茶と花の香り。そして消された記憶。
(ヤツが絡んでいる。おそらくドク君が核を持っていたのも差金だろう。リーベに接触されたのは痛手だった)
だが大天使の核は回収できた。今回はこちらが優勢であったのを信じたい。
「ん……り、ぃら」
一瞬意識が浮上したのか、リーベは目を開けずにリーラの指をきゅっと握る。リーラはそれに可笑しそうに笑うと、握り返して彼の体を包んだ。
「大丈夫。オマエたちは、ワタシが守るよ」
悲しい思いはさせない。たとえこの世界や人間に絶望するような事が起こっても、必ず傍にいる。
─── **─── **
空のような青い花びらが、バルコニーのテーブルに舞い落ちる。そこでティーカップを傾けていたギヴァーは、閉じていた目をふと開けた。一緒にいたグレースはどうしたのかと首をかしげる。
「戻った」
「何が?」
「大天使の核さ。もう少し上手に使ってくれると思っていたんだが……あの娘も強くなった」
彼女が強くなったのか、それともテンシが弱かったのか。ノアの言う通り、もう少し賢い相手を選んでも良かったかもしれない。だが何も収集が無かったわけではない。やはりあの核はテンシの力を大きく跳ね上げる。
ギヴァーは嬉しそうに微笑んで、揺れる赤茶色の水面を見つめた。
「イヴァン、僕に気づいたかな? もう少しで会いに行くよ」
その名前は、彼にとって大事な存在の名前。グレースは誰なのかは知らないが、それだけ分かっている。だがその誰かは、ギヴァーと真逆でテンシ狩りを作った。
「どうして辞めさせないの?」
「僕らは同じ考えだからね。イヴァンにとって、テンシ狩りの存在が世界の幸せを作る。その考えを、僕は尊重しているだけだ。グレースだって、僕といるのは君の考えだろう?」
「うん」
ギヴァーは来るものも去るものも拒まない。来るものは暖かく迎え、去るものも優しく見送る。そんな人だ。だからグレースは、彼が大好きで大切だった。
淡く微笑んだ彼女の頭を、ギヴァーは優しく撫でる。彼はゆっくり立ち上がると、花畑へ背を向けた。
「ノアの様子を見てくるよ。すぐ戻る」
一緒に行こうと椅子から降りたグレースにそう残し、ギヴァーは部屋に戻った。
家の床に、階段があった。そこを通れば、薄暗い地下室にたどり着く。ノアはよくそこに居た。覗いて見れば、予想通りそこで座り、じっと一点を見つめる彼が居る。
「ノア、体調は?」
「……はい…………変わらず」
「そろそろ寝室に戻りなさい。無理はいけない」
相変わらずの掠れた声だ。ノアは杖に重心をかけて立ち上がり、ギヴァーに会釈して去って行った。ギヴァーは転びそうな足取りを見守り、一人になると、彼が見ていたソレに視線を向ける。いくつもの管に繋がっているのは、人が一人寝られるポッド。
「すまない、もう少し夢の中を楽しんでくれ」
白い手袋が包む指が撫でたその中で眠っているのは、リーベそっくりの少年。目は安らかに閉ざされている。
「きっと君らは歌ってくれる。世界に楽園を。誰も悲しまない、素敵な世界を」
ギヴァーは願うように、冷たい肌にキスをした。
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