裏切り者の末路

 溢れ出る憎悪に背筋を震わせる。戦場に慣れているヨアケも、この相手は見た事がない。力が外に溢れるほど強力なものは初めてだ。しかし殺意を向けられているリーラだけは、楽しそうに笑っている。


「蛾かと思えば蜘蛛か。忙しいね、キミ」

『笑ってられるのも今のうちだ。四肢をもいで、仲間の目の前で犯して殺してやる!』


 リーラは指輪を手袋と一緒に外した。それから膝丈まである上着を脱ぎ、全部ヨアケに渡す。その際彼女にウインクすると、全てを察して心底面倒くさそうにため息をつき、タバコに火をつけた。その表情にククッと笑うと、改めるようにテンシの前に立った。


「いいよ、好きにしたまえ。殺せるならね」

『なめるな!』


 大人を余裕で包めそうな巨大な手が、リーラを地面ごとなぎ払った。その勢いは突風を巻き起こすほどで、体と手が接触した瞬間、彼女は相手の力に抵抗できずに叩き飛ばされる。

 受け止めようとした木が、背中で何本も折れたのが分かる。痛い。骨にヒビでも入ったのか、呼吸するたびに激痛が走る。口の中が血の味で満たされながらも、しかしリーラは笑っていた。

 ゆっくり起き上がると、自身の下敷きになった木屑を土台に、思い切りテンシへ飛びかかる。銃弾のような動きは、やはりいくら狩人と言えど、人間にはない俊敏さだった。

 テンシは八本あるうち前の両手を重ね、小さな拳を受け止める。たった一人の、子供の手より小さく感じるはずの拳なのに、なんて重さだろう。踏ん張る四つの足が、地面を引きずって後退する。ただの手のぶつかり合いなのに、見ているリーベたちにも風圧がやってくるほどだ。

 その勝負は、リーラの拳が勝った。黒い手が、テンシの巨大な白い手を弾く。ガードが外れたところを狙い、彼女は胴体を蹴り上げた。離れた体を宙で器用に捻り、もう二度蹴りを入れた。

 ドコンッという、重く鈍い音が山に鳴り響く。勢いに、図体がデカいテンシの体がぐらりと揺れた。体勢を崩した。しかしテンシの表情は、ニヤリとした怪しい笑み。


『蚊より弱い』


 テンシの蜘蛛のような胴体には、傷ひとつない。まるでダイヤのような硬さだ。リーラの足の方が、骨に痛みを伝えている。

 その様子を遠くで見ていた紾は、意外そうに「ふぅん」と呟く。


「あんなに硬いテンシ、見た事ある?」

「ねえな」


 ヨアケは五十年テンシ狩りをしている。そんな彼女でも見た事のないテンシ。第一、リーラのあの攻撃を喰らって平然としているモノを見たのは初めてだ。

 圧倒的にリーラが劣勢。このままではテンシの標的が五人に向くのは、時間の問題だ。しかし二人が焦っている様子はない。リーベとアゲハ、澄は不安そうに戦闘を見守った。

 テンシはリーラが地面に着地する寸前を狙った。どれほど身体能力に長けていても、その瞬間は足元をすくいやすい。そう思って振り上げた腕の下、思っていた獲物が居ない。


「上だよ」


 声に釣られて見上げれば、雲間から太陽が二人を観戦しに覗いている。無数の目を持つ蜘蛛を模したテンシにとって、その逆光は充分な目眩しだ。しかしテンシが顔をしかめたのは、たった一瞬だけ。次には、また楽しげな笑みを見せる。

 牙が生えた口を大きく開け、リーラに息を吹きかけた。


「!」


 赤い煙がリーラを包む。それが何か、紾はすぐに分かった。毒ガスだ。リーベの口を後ろから塞ぎ、他の三人にも同様に目で指示をする。

 視界を悪くしたリーラは、その場から離れて口を拭う。その瞬間、胃から激しい熱を感じ、たまらず吐き出した。咄嗟に抑えた手の平には、嘔吐物だけではなく血も混ざっている。

 気持ち悪さと内臓を焼くような痛みに、額から頬に汗が流れた。痛みには慣れているが、こう、吐き気のようなものはどうにも耐性がつかない。


「リーラ!」


 リーベが思わず叫んだ。その声に前を向いた紫の瞳に、テンシの手が映る。避ける暇もなく、右腕が掴まれた。指数本に包まれた腕は、少し力を入れただけで小枝のように折れる。ボキ、パキという音は観戦側にも聞こえ、アゲハと澄は自分の痛みのように身震いした。

 さすがに骨の砕かれる痛みには耐えられないのか、リーラの顔が歪む。テンシはそれに恍惚の笑みを浮かべ、そのまま彼女の体を、人形のように乱暴に振り回した。一回、勢いよく円を描くと、リーラの体は重力に負けて地面に叩きつけられる。

 しかしテンシの手の中には、リーラの片腕が残っている。よく見れば、地面に伏せる彼女の右肩から先が無かった。テンシはそれを、見せつけるように喰らう。

 恐怖に染まったリーベの紫色の目が、ヨアケと紾を見る。どうして二人は助けないのか。ヨアケに至っては、ゆっくりとタバコを堪能している。そんな視線に気付いた彼女は仕方なさそうにため息をつく。


「お前が行って、何になる」

「でもっ」

「そうですよ、やっぱり少しでも加勢した方が……!」

「足手纏いだ。俺らが行っても、邪魔なんだよ」

「チビ、お前はそんな事より、自分のパートナーがどんなヤツか、よく見ておけ」


 ジジ……と、火がタバコを短く燃やして行く。もうひと吸いすると、ちょうど半分だ。ヨアケは最後、深く吸ってゆっくり吐いた。そして、未だ地面から動かないリーラに伝える。


「半分だぞ」


 テンシは言葉の意味が分からず、五人に振り返る。もうリーラが死んだと判断した。死んでいなかったとしても、簡単には動けない。あの毒はそれほど強烈だ。

 テンシは残りを片付けようと、両手を振り上げる。


「…………キミ、もう少しゆっくり吸った方がいいぞ?」


 背後から、やれやれと言ったような声がした。それはリーラの声。まだ言葉を紡げるような余裕があったとは。さすがは代表と言うべきか。

 しかしこれで最後。テンシは五人へ振り上げていた手を、今度こそリーラに落とした。


『……あ?』


 潰した感触がない。かと言って、地面に手の平が触れている感覚もなかった。

 手の勢いで、土埃が辺りに舞う。


「そうじゃないと、リツ君にまた叱られるぞ?」

「余計なお世話だ」


 ヨアケは鬱陶しそうにタバコの煙を吐きながら、リーラの揶揄う声に応えた。

 まるでテンシを無視したようなやりとり。それにテンシは顔を羞恥に歪め、再び叩き潰してやろうと腕を上げようと力を込めるが──上がらない。何かに掴まれている。

 一体何が起きているのか? 少しずつ土埃がそよ風に攫われて、明らかになっていく。


「ほら、よく見て。あれが僕らの代表で、君のパートナーだよ」


 皆の視線を連れて、紾が煙の中心に指をさす。そこに居たのはリーラだ。だが姿が違う。

 テンシの大きな手を掴む黒い手は、少し掠れただけで深い傷を作りそうに鋭い爪がある。地面を踏む足も、まるでドラゴンのように太く力強い。体が黒い鱗に覆われ、頭にも鋭いツノが生えていた。


『な、んだ、その姿っ……?!』


 リーラの楽しそうな笑顔の覗く口は、獅子のように鋭利な牙が生えている。まるで別人だ。

 彼女はそのまま、掴んだ人差し指を思い切り引っ張った。テンシの体は悠々と浮き、放り投げられる。空中に浮いたテンシを、リーラは漆黒の翼で追った。そして、剛鉄のように硬い腹を踏みつける。一秒とかからず、テンシの体は地面に落ちた。

 その強さで地面にはクレーターが作られ、耐えきれずに腹にヒビが入る。リーラはひっくり返った状態の腹に乗ると、テンシの顔を覗き込んだ。さっきまであった笑顔はどこへやら、テンシの顔は青ざめ、恐怖で染まっている。


「どうした? そんなに怯えて」

『ばけ、もの』

「何を今さら。化け物同士じゃないか」


 紾とヨアケ以外の三人は、リーラの姿に唖然としていた。


「り、リーラさん、なんですか?」

『あの人はハーフで、人間なのでは?』

「あ? 誰が人間とのハーフつった?」

「まあ、勘違いするよね。普段は人間の姿だし。でもあの人、一滴も人間の血は入ってないよ。あれが本来の姿なんだ」

「じゃあ、なんで最初からならないんだ? そうすれば、痛い事なかったのに」

「裏切り者にはあーするんだよ」

「勝ったと思わせて、絶対に勝てない絶望感を最後に与えて、後悔させてから殺すんだって」


 その悪趣味さは、普段の姿からは想像できない悪魔さだ。しかしどちらも事実。今あのテンシは、彼女にとってはただ頑丈なオモチャにすぎない。

 ヨアケはもちろん、紾もそれを知っていた。だから独に忠告したのだ。リーラは何より、仲間を大事にする。仲間に危害を加えようとする裏切り者が大嫌いだった。そんな彼らが送られる最期は、ただのテンシでは味わえない痛みと恐怖の地獄。

 化け物同士だから、今のテンシには彼女に敵わないと分かるだろう。そして自分が最初から遊ばれる側であったのを、やっと理解したはずだ。

 現に急所ではなく、足を引きちぎる彼女は無邪気な子供そのもの。ギリギリ壊れない程度に痛ぶり、遊んでいる。絶え間ない痛みに、テンシの叫びが響き続けていた。


「消えるぞ」


 ヨアケの指に挟まれたタバコが、彼女の肌を焦がす直前まで短い。その声が聞こえたのか、返り血を浴びるリーラの笑顔が、キョトンとした顔になる。

 ヨアケは念の為、上着と一緒に受け取ったリーラのレッグポーチから拳銃を取り出す。皆の前に立つと、それをテンシではなくリーラに向けた。リーベは驚き、銃口を下げさせようとヨアケの腕に絡んだ。しかし弱い力では、少しも標準が変わらない。


「黙ってろ。お前らも死にてえのか」

「そ、それは一体どういう?」


 ヨアケに銃口を向けられたのを理解したリーラは、不思議そうにしていた顔を再び笑顔に戻した。そして、少し物足りなさそうな顔でテンシに微笑む。


「地獄で会おう」


 リーラはぐっと拳を構えると、渾身の力を込めて振り落とす。ダイヤのような蜘蛛の鎧は、あっけなく穴が空いて消し飛んだ。残ったのは、本体である独の面影を残した人型のテンシ。

 テンシは必死に生きようと足掻く。もう残っているのは、頭と胴体だけ。逃れようと、芋虫のように這う。だが頭を掴まれ、持ち上げられた。ギチギチと、手に力が籠る。テンシは最期、歯をガチガチ鳴らしながら尋ねた。


『お前は、どうやったら殺せたんだ……!』

「さあ?」


 ドパンッと水気のある音を最後に、テンシの頭は潰れた。

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