毒虫の誘い
誰も居なくなったロイエのドアを、客人が開ける。店内に入ったのは、一人の青年。彼はテンシ狩りの一員である
(? なんだろう、この匂い)
涼やかでいて甘い香りが、中途半端に残っている。しかしリーラが香水を普段から使っているのを思い出し、彼女の残り香だろうと納得した。
店の中で自分以外居ないのが分かると、慣れた足取りで客室へ向かう。ドアを軽くノックしてから中へ入る。すると、彼女の姿を認識するよりも前に、誰かとの会話が聞こえてきた。
「ああ、13番を頼む。それと──」
話し相手は液晶画面の向こうのようだ。ローテーブルには、メモ帳と分厚いファイル、まだ商品前の核が広がっている。
リーラは話しながら目線を紾に向け、挨拶するように手をあげた。そして立ち上がると、ソファを指さす。座っていろという事だ。紾が頷いたのを見ると、彼女は話す手を止めないままキッチンへ消えた。
紾は指示された通り、先程リーラが座っていた席と向い合うソファに座った。暇になって彷徨った視線が、テーブルにそのままになったファイルに落ちる。そこには小さな絵がいくつも描かれていた。核を包む銀細工のデザインファイルだ。リーラはいつも、デザインに振られている番号で職人に頼んでいる。
「やあ、待たせたねメグル君。コーヒーでいいかな?」
「こっちこそ、仕事中ごめん。ちょっと報告したい事があってさ」
紾は礼を言うと、懐から小瓶を取り出す。中で揺れる液体を、目の前のコーヒーに一滴垂らしてからひと口啜った。
「あの新人くん、居るじゃん? えっと……敵意剥き出しな」
「ドク君だね?」
「そうそう。あの人さ、裏切るよ」
「何かされたのかね」
「んー……されたって言うか、誘われた。昨日なんだけどさ」
紾の記憶は、まだかろうじて思い出せる昨日の夜に馳せる──。
昨晩、食事を終えた彼は愛読本の世界に浸っていた。しかし集中していた耳が、時計の針とは違う雑音を拾う。誘われた視線は窓へ向けられた。一見なにも無いが、よく見ると小さな蜘蛛が鍵をいじっている。
なんだと不審がった頃には解錠され、ガラリと窓が開けられていた。そこからまるで泥棒のように踏み込んだのは独。彼は明らかに不愉快そうな顔をする紾を無視して、部屋の中心に立った。
「土足禁止なんだけど」
「細かい事言うなよ。こっちは美味しい話を持ってきたんだ」
「頼んでない」
「お前、俺と手を組め」
「……え? なんで?」
紾は特にパートナーを希望していない。常に誰かと行動するより、その場その場で組んだ方が気が楽だからだ。しかしその旨を伝えると、独は否定に首を振った。
「アイツを殺すんだ」
「誰」
「代表だよ」
「あー……なんか、なるとかどうとか言ってたね。なんで僕?」
「お前も毒を扱うんだろ?」
独は自己紹介の際、自分の戦う手段を言わなかった。隠した彼の能力は、毒虫を扱う事。自分で育てた毒虫で相手を殺す。
そこに紾の作った毒を合わせれば、最高の虫が誕生する。いくら代表であっても死ぬほどのものができるはずだ。そう彼は嬉々として語った。紾は最後まで作戦を聞いたあと、ようやく口を開く。
「……聞いてる僕も僕だけどさ、そんな喋っていいの? 協力する気、ないんだけど」
「なんでだよ」
「代表になる気ないし、そもそも、あの人に逆らう気もない」
「女の下にいて得なんてないだろ?」
「損得は知らないけど……恩ならあるよ」
紾は人間だが、特殊な体質を持っていた。そのせいで他人と馴染む事も、友達はおろか家族と触れ合う事すらできない。そんな中で唯一手を差し伸べて居場所をくれたのがリーラだ。彼女の役に立とうとは思うが、恩を仇で返す考えは毛頭にない。
まあ、後々敵となる相手に、彼女への想いをつらつらと述べる気もない。舌打ちをし、無駄足だったかと去ろうとする独の背中へ、最後の忠告を投げる。
「やめといた方がいいよ」
「あ?」
「あの人、味方には優しいけど、敵……特に裏切り者には容赦ないから」
どんな手法で、どんな事をと言った具体的な事は流石に言えない。それでもほんの数日でも仲間だったのだから、多少は情がある。だが独はそれを払い除けるように嘲笑を浮かべ、窓から出て行った。
紾は一通りの記憶を辿々しくも言葉に繋げ、疲れたようにコーヒーをひと口飲んだ。
「こんなところかな。どこか忘れてるかもしれないけど、一応報告」
「ふむ、よく分かったよ。ありがとう。ひとまずキミに何事もなくて良かった。だがいいのかね? 彼の美味しい話とやらを飲まなくて」
「泥舟に乗るのはヤダからね。ていうか……分かってたでしょ? こうなるの」
リーラは紫の目をパチクリさせると、子供のようにカラカラと笑った。
紾はずっと、独を迎え入れた事を不思議がっていた。リーラに勝とうとする者はいても、欺こうだとか、反逆の感情を持つ者はいない。そもそも仲間を傷付ける可能性のある存在を、狩人として迎えるはずがないのだ。
彼の言葉は半分合っていた。まぁ、こうも早くに行動されるとは予想していなかったが。
独がテンシ狩りとなったのは、マスターがスカウトしたからだ。だが純粋に仲間として引き入れたわけではない。彼は保護する対象であったテンシも、独断で狩っていた。遅かれ早かれ、放っておけば敵となる。野放しにはできないと判断し、近くに置いてその後の行動によって、処分を決める手筈だ。
「だが……ふむ、そうだね。これはこちらも早々に判断した方がいいかもしれないね。残念だ、彼の力は結構気に入ってるのに。痛い目に遭ったら、考え改めると思うかね?」
「無理だと思うよ。ほら、馬鹿は死なないと治らないって言うでしょ」
リーラは真顔で言う紾にまたカラカラ笑い、コーヒーを飲んだ。その時、紾は違和感を覚える。甘い香りがした。コーヒーの芳ばしい香りならまだ分かるが、これは人工的な甘い香りだ。リーラが動くたびにほのかに香るこれは、やはり香水のもの。違和感を覚えたのは、それが店内に残っていたものと違うからだ。
「……ねえ、香水変えた?」
「いいや? 今日はコレだけだよ」
「じゃあ今日、香水付けたお客さん来た?」
「いや、お客はキミ一人さ」
「誰も?」
「……リーベは居るはずだ」
紾の真っ黒な瞳が、驚いたように丸くなる。瞬間、二人はほぼ同時に立ち上がった。
店に来て最初に紾の鼻腔をくすぐったのは、リーラの香水ではなかったのだ。リーラも彼の言葉で、第三者が見知らぬうちに入店したのを理解する。単なるお客ならまだいい。しかしその場合、店内に居るであろうリーベが呼びに来るだろう。
「リーベ!」
ドアを開けると共に彼を呼ぶ。しかし店内はもぬけの殻だ。リーラは顔をしかめ、大きく舌打ちをする。
まだ微かに残る匂いは、紾をソファへと導いた。人が居たへこみのそばに、青白い粉が落ちている。紾はそれを指ですくい、鼻に近づけたあと、舌の上に乗せて転がした。舌の中で弾け、脳をまさぐろうとする感覚が襲う。しかし紾にはこの程度の毒は効かない。
リーラへ頷いて見せると彼女も頷き返し、スマホを取り出す。液晶の向こうの相手はマスターだ。リーベが攫われた旨と犯人であろう人物をかいつまんで説明する彼女を横目に、紾は指に付けた粉をすり合わせる。
(改造されてるけど、虫が作る毒だ。鱗粉かな。この味は……命にはなんともないけど、催眠効果がある)
毒虫を操れるのは独だけだ。言わずもがな、これは彼女への宣戦布告。パートナーという存在は、単なる戦い方で選んだ者同士ではない。心の繋がりも深い相手だ。そんな存在を連れ去るのだから、そう断言できる。
この毒はおそらく、基本的な生物に効く。彼に効かないのは、その体質のおかげだ。
紾は深く呼吸する。まだある残り香が、ドアへと続いていた。リーベの服に鱗粉が付着していたのだろう。だがドアの外までは、風の影響で流石に匂いでは追えない。
そう思って眺めていたドアが、なんだか騒がしくなってきた。黒い影が複数、ギャアギャアと鳴き声のようなものを発している。
「──Seid still《静かにしなさい》!」
「!」
後ろから飛んできた耳慣れないドイツ語。鋭いリーラの声に、黒い影はピタリと大人しくなった。思わず振り返った紾の珍しく驚いた顔に、彼女は肩をすくめて笑う。
「すまないね、あの子たちはどうにも元気すぎて」
「あの子たちって?」
リーラは疑問に答える代わり、未だに黒い影が居るドアを開けて見せた。二人を出迎えたのは、何羽ものカラス。その中でも体が一際大きいカラスが、リーラの腕に止まった。
その横顔を見た紾は、怪しげな光を持つ紫の瞳以外に、彼女は多くの目を持っているのを思い出す。
「この子たちには、彼の尾行を頼んである」
「用意周到」
「ふふ、どうも。さて……空から散策と行こう。メグル君、キミの力を貸してくれるかね?」
周囲を舞うカラスに紛れるように、リーラの背中に黒い翼が見えた。わざわざ問われなくても、最初から協力するつもりだ。
紾は差し伸べられた手を握る。瞬きが終わる頃には空へ飛び立ち、ロイエの前には一枚の黒い羽が残った。
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