保護対象者

 ロイエのcloseの看板が、開けた拍子に扉にぶつかって音を立てる。リーラは大天使と呼ばれたテンシを連れて、客間へと入った。そして葉巻の吸い殻を捨てると、黒い鍵でクローゼットを開ける。

 客間に堂々と立っているクローゼットは、人間が数人入っても余裕がありそうなほどの大きさだ。しかし開いたその中に、服らしき物は見当たらない。それどころか、普通だったら目の前にあるだろう壁も無かった。

 そこにあるのは、ただの闇。リーラは臆する事なく、そこへ飛び込んだ。


 入る時に閉じた目を開くと、世界は一変していた。日本離れしたステンドグラスが眩しく太陽の光を集め、室内を照らしている。

 目立つのはそれだけではない。パイプオルガンに、何人も座れそうな椅子。十字架が所々の壁に飾られるここは、教会だ。それも日本ではなく、リーラの故郷であるドイツに存在する教会。

 あのクローゼットは特別な魔法を施していて、鍵によって異なる空間を繋げられるのだ。

 リーラが魔法を使えるわけではない。フランスに在住するテンシ狩りの代表が、好意でやってくれた。


「まあ、リーラさん! その格好、どうなさったんですか?」


 後ろから、驚いた声がした。紡がれた言葉は日本語ではなくドイツ語。

 振り返ると、艶やかな茶髪の女性がホウキを動かす手を止めていた。顔付きからして、やはり日本人ではない。怪我をしているのか、彼女の手足には包帯が巻かれている。


「カルラ、驚かせてすまない。仕事終わりなんだ」

「お怪我はなくて?」

「返り血だよ。キミは掃除を?」

「ええ」

「いつもありがとう。すまないが、別の仕事を頼まれてくれないか?」

「その子ですか?」

「ああ。レーレに治療と分析を頼む。ワタシはシャワーを浴びるからと」

「かしこまりましたわ」


 頷いたカルラに子供を預け、リーラは足早にシャワー室へ向かう。本当は飛び散った核の事も含めて直接説明したかった。だが香水でいくらかカバーしているとは言え、浴びた血のせいで生臭い。濡れたシャツのままいるのも気持ちも悪かった。

 リーラは浴室に入ると、服を脱ぎ捨てシャワーを頭からかぶった。血の赤と共に、白色が肌を伝ってタイルの床に流れ落ちる。キュッと音を立ててお湯が止まる。ふぅっとさっぱりして息を吐いた彼女の湯煙に包まれる肌は、一変していた。

 先程までは、どちらかと言えば白寄りの肌をしていた。だが今は、灰色。人間には無い、濃い灰色をしている。さらには、まるで肌の下を蛇が通ったかのような跡もあった。普段は化粧をして隠している。この肌色が嫌という理由ではなく、接客業に障るからだ。店も狩りも休みの休日は、この状態で過ごしている。

 用意した白いドレスシャツに、赤い薔薇模様がアクセントのコルセットを巻き、パンツを履く。そして手袋をポケットにしまって最後に指輪をはめた。支度を終えて外に出たその時、突然前から軽い衝突があった。

 見れば、腰に二人の少女が抱きついている。リーラは一瞬キョトンとしたが、すぐ笑いながら二人を抱きしめた。


「アーダ、ベティーナ、驚いたぞ?」


 くすぐったそうに笑った少女の顔は瓜二つ。双子だ。しかしよく見ると、アーダと呼ばれた少女の右目に違和感がある。


「リーラ姉!」

「遊びにきたの?」

「今日はお仕事だ。先生に会いに来たんだよ」

「え~」

「なぁんだ」

「もしかしたら、が来るかもしれないよ? その時は、お姉さんたちが仲良くしてくれるね?」

「ほんとっ?」

「わぁい!」


 嬉しさに走り出すベティーナ。キャッキャと彼女を追いかけようとしたアーダは、足をもつれさせて顔を打ちつける。

 リーラとベティーナは駆け寄り、片目に涙を溜めるアーダを起こす。泣きそうな彼女の背中を、大きな黒い手がさすった。


「大丈夫か、アーダ? 痛い所は?」

「お顔、痛い」

「ふむ、、あとで先生に診てもらいなさい。嬉しいのは分かるが、走っちゃいけないよ?」

「ごめんなさい」

「よろしい。さあ先生に会いに行くんだから、涙を拭いて。可愛い顔がもったいない」


 リーラは涙に濡れたアーダの顔を、ハンカチで拭う。少しよろけながら立ち上がった彼女の小さな右手を繋ぐと、もう片方を、支えるようにベティーナを取る。こうすればもう転ばないだろう。

 アーダは嬉しそうに笑い、二人と共に教会の奥にある扉をくぐる。そんな彼女のスカートから覗く足は、よく見ると人の肌ではなかった。まるでそれは球体人形だ。

 ドアの先は、大部屋に繋がっていた。大人数が囲めるテーブルが真ん中にあり、部屋の端にはグランドピアノがある。そんな広々とした部屋には、数十人もの子供たちが居た。彼らはリーラに気付くと、彼女の元へ集まる。


「リーラだ~!」

「リーラ、リーラ、遊ぼ!」

「リーラ姉はおしごとなんだって。だからダメ~」

「えーっ」

「ねえ見てみて!」


 一人、日本人に見える少年が辿々しい英語でリーラを呼んだ。その少年は、本来腕がある場所が、鳥の持つ翼のようになっている。

 彼は少し不安定に宙を飛び、恐る恐るといったように地面に足をつける。おぼつかない足取りで近寄ってきた彼を、リーラは抱きしめた。


「歩くのが上手になったじゃないか、マサ! リハビリ、頑張っているね」

「うん! 僕、はやく人間になるもん!」


 そう言って笑うまさの頭を、大きな黒い手がワシャワシャ撫でた。

 子供たちをよく見れば、全員どこかしら人間とはかけ離れた容赦をしている。そう、ここに居る彼らは全員、テンシ。アーダは願いによって人形にされ、カルラは透明人間となった。全員がその力を嘆いて人間に戻りたいと願った者たちだ。

 リーラは彼らを保護し、ここで面倒を見ている。集まっているのは、彼女が元々居たドイツと、日本に来てからの保護対象者たち。


「ん? ヨシアキが居ないな。寝てるのか?」

「ヨシ兄は部屋に居るよ」


 義明よしあきはこの中でも年長で、子供たちにとって兄的存在だ。そんな彼を探したリーラの疑問に答えたのは、麗。彼は被害者ではないのだが、家が無く一人が嫌いなため、ここでみんなと暮らしている。


「先生にね、リーラが来たら言って欲しいって言われてるの」

「言って欲しい事?」

「うん。えっとね……『もう時間だ。血も薬も、あの体には耐えられない』って」


 それが何を示すのか分かるリーラは、それでも理解したくないというように眉根を寄せた。麗はそれに不安そうな顔をすると、彼女の裾を指でつまむ。


「大丈夫?」


 小首をかしげられ、リーラは小さく笑顔を見せると彼の頭にポンと手を置く。そして子供たちに別れを惜しまれつつ、奥の部屋を開けた。長い廊下に、ズラッと扉が並んでいる。ここはそれぞれひと部屋ずつ、保護した人々の部屋になっているのだ。

 リーラは急いでいるのか、長い足がいつもより大股だった。その足は、とある一室の前で止まった。ドアには、歪でありながら元気で華やかな花の絵が描かれた紙が貼られている。控えめにノックすると、青年の小さな声が応えた。


「……先生?」

「ワタシだ。いいかな?」

「ああ」


 弱々しい声にリーラは顔を歪めたが、自分を奮い立たせるように小さく咳払いして、部屋の中に入る。

 室内は勉強机とベッド、本棚といったシンプルな家具だけ。義明はあまりごちゃごちゃと物を置かない主義なのだ。

 ベッドの中から、赤と黒の目がリーラを見る。彼は嬉しそうな笑顔を見せた。


「来てくれたのか」

「ああ、レーレから話を聞いたよ」


 リーラはベッドの側に椅子を手繰り寄せて座る。

 義明がここに来たのは、四年前。当時は、天使に願いを叶えてもらった影響で蛇の姿だったが、ここ一年半で人の姿に戻りつつあった。しかし体が耐えられないのか、もう長くないのが見て取れた。顔色も優れない。肌の所々に亀裂のようなものができている。

 布団の隙間から、ぬくもりを求めた手が伸びてきた。リーラの両手がそれを包む。まだテンシの名残りで、鱗のように硬く湿っていた。


「最近、ずっと体が痛くてさ……先生が、別の薬、打ってくれたんだ」

「そうか、もう痛くないのかい?」

「ああ。全然痛くない。アイツら、心配してただろ? 遊ぶ約束、してたからさ」

「あの子たちにとって、お兄さんだからね」

「はは、こんなんが兄貴かぁ」

「…………人に戻せなくてすまない」


 リーラにしては、小さな声だった。呟く口に笑顔はなく、どこか悔しそうな表情をしている。すると義明は、その顔を可笑しそうに笑った。それは、彼は自分が幸せだと思っているから。

 初めて対峙した時、化け物と呼ぶに相応しかった姿をここまで戻してくれた。他人を信じられず暴れて反抗しても、彼女は決して見放さなかった。それだけじゃなく、望んでいた暖かい食事も、賑やかな家族もくれたんだ。だから、謝罪される方がおかしい。


「なあ、、誰だ?」


 義明が示した「それ」は、リーラの中指に飾られた指輪。炎を閉じ込めたように赤い石がアクセントになっている。


「アゼルだよ」

「……俺の核がまだ綺麗だったらさ、あんたを飾らせてくれよ」

「キミの核なんだから、美しいに決まってる」


 リーラは日替わりで指輪を付ける。その石は、保護してここで見送った者たちの核だった。救えなかった彼らに、せめて外の景色を見せたいのだ。


「俺の体さ、解剖してくれ。それで、少しでも役立たせてくれよ」

「約束するよ」

「……葉巻、今日も持ってるのか?」

「? もちろん」

「一本、吸わせてくれよ」

「ダメだ」


 最後の願いと言えど、それは頷けない。この葉巻は、そこら辺に売っている葉巻ではないのだ。これは鎮痛剤の役割を成していた。

 リーラは何ら普通に生活している。しかしその体には、力の代償で常に痛みが走っていた。常人では立つのがやっとの強さの激痛だ。それを彼女は常に感じている。しかしそれは、葉巻でそこまで軽減された痛み。煙が無ければ、空気に触れるだけで気絶するほどの痛みになるだろう。

 葉巻の煙は、レーレが開発した特殊なもの。麻酔効果のある煙が体に染み込んで、痛みを少なくさせた。興味本位でリーラ以外が吸えば、その強さに呼吸困難を引き起こす。義明もそれは知っているはずだ。


「いいじゃんか。最期に好きな相手が吸ってた味を、知るくらいさ」

「ませてるね」

「なめんな。もう十八だぞ」


 リーラは仕方なさそうに溜息をつくと、ポーチから葉巻とジッポーを取り出した。しかしそれは、血色の無い彼女の唇が咥える。義明はもう手の力が入らず、それをただ不思議そうに眺めていた。

 リーラは葉巻をひと吸いだけして口から外す。そして見上げている義明に顔を近づけると、互いの唇を合わせた。思わず息を吸った彼の体に、空気と混ざった煙が入る。数秒と経たず、唇は離れた。

 ポカンとした義明は、小さく笑う。


「甘いんだな」

「ワタシ好みだからね」

「……アイツらの事、頼む。俺より、幸せにしてくれ」

「ああ」

「…………ありがとな、俺……」


 目蓋が重たそうに上下する。数回瞬いたあと言葉が止まり、目は閉ざされた。


「おやすみ」


 来世はきっと、天使の慈悲を望まないほど幸せな日々を。そう願いながら、リーラはもう開かれない目蓋に、そっと口付けをした。

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