目覚め

 玻璃は病院特有の硬いベッドの上に寝そべる。病気で入院しているのではなく、先週受けた治験バイトに、再び参加しているからだ。

 カーテン越しに、隣のベッドへ視線を送る。当然だが、軽い挨拶として顔を合わせた相手は、すれ違った事もない見知らぬ他人。それでも見てしまうのは、先週初めてできた友人を思い出すから。

 あのあと、三万という持った事もない大金を手に入れた玻璃は、生まれて初めてビジネスホテルに泊まった。しばらくネカフェやホテルを転々とし、数日後に満へ公衆電話から連絡をした。どうしてすぐ連絡しなかったのかというと、小っ恥ずかしかったのだ。

 だって別れてすぐ電話するだなんて、馴れ馴れしくしすぎではないか? 正直自分の年齢はあやふやだが、18は近いはずの男が、人恋しさに連絡するなんて気色悪がられる。だが玻璃はその情けなさを後悔する事になった。

 電話に出たのは、彼から聞いていた姉。由香里と名乗った彼女に経緯を説明すると、満が亡くなったと報せを聞いた。信じられなかった。それでも彼女の沈んだ声色に真実なのだと飲み込むしかなかった。


(……なんであいつなんだろう。なんで俺じゃなくて、あんないいやつが死ぬんだ)


 やるせなくて、玻璃は寝返りを打つ。そんな自己犠牲を語りながらも、自分が生きるために食べたり住居を確保しようとしているのだから、笑い話にもならない。

 由香里は、連絡した事に礼を言った。きっと満も、慕ってくれて喜んでいると。

 彼女は心から嬉しそうに言った。だから玻璃もそう思う事にしたが、ひとつだけ、頭に引っかかることがある。それは、彼女の最後の言葉。

 由香里は治験に参加するのかどうか尋ねて来た。しばらく安定させるためにもう二、三回は受ける予定だと言ったら、どうしてか止めてきたのだ。理由を聞いても、なんとも歯切れ悪い受け答えしか帰ってこない。

 どうしても生きるために金が必要だった。だから辞めることはできない。そう言うと、由香里はしばらく悩むように沈黙した。だが公衆電話のタイムリミットが切れる直前「気を付けて」とだけ言った。


(やっぱり薬の影響なのか……?)


 そう考えに至っても、逃げ出す事はできなかった。来て早々、既に今週の薬を打ったのだ。それに、元々玻璃は逃げる気も無かった。生きる気力が、どうしてか湧かない。

 金があれば湧くと思ったし、好きな物を食べれば元気になると思った。だが微塵も湧かない。

 それは優しい他人が居る幸せを知ってしまったからだ。そうじゃなければ、誰かの死にこんなショックを受ける事もない。

 これまで夢だった幸せを現実に触れてしまった。となれば、もっと欲が出て、それが無ければ頑張れなくなる。


(あったかい食事がほしい。誰かの笑顔が見たい。もっと……もっとちゃんと喋っとくんだった)


 そんな取り返しつかない今と過去を嘆きながら、不貞腐れるように眠った。彼はただ、愛を望んだ。誰かがくれる愛、誰かへ与える愛を。



 それから玻璃が目覚めたのは夜中。時計を見る余裕が無かったから確かではないが、消灯しているのは分かる。

 体が──心臓が熱い。手足は凍えるほど寒いのに、どうしてか激しく脈打つ胸の奥だけは熱かった。体が痙攣を起こす。玻璃は頭でパニックを起こしながらも、冷静にナースコールを押した。


 ああ、やっぱり薬の副作用が起きたんだ。このまま死ぬんだ。


 終わりを示すように暗くなる視界に、何故か恐怖ない。そのまま玻璃は目を閉じ、ベッドの中に眠るように倒れる。

 すると、役目を果たして力なく垂れた腕から、暗闇では輝いて見えるほどの純白な羽が落ちた。



 玻璃は夢を見た。目の前は空虚。闇のようでいて、闇ですらないと分かる場所。目を開けている感覚が無ければ、閉じているとも言えない。そこでは、自分の体さえ分からなかった。

 何かが目の前に居る。人じゃないのはなんとなく理解した。それに口なんてないのに、どうしてかそれが話しかけてきた。


──お前は幸せが欲しい?


 玻璃は少しだけ疲れたようにだが、突拍子もない問いに本能的に頷いた。


──大丈夫。私が目覚めれば、楽園ができる。そうすれば、お前も幸せになるよ


 楽園? よく分からない。幸せになれるのなら、そこに行きたい。けれど、そこには腐ってない食べ物はあるのだろうか?

 頭なんて無いのに、それが不思議そうにかしげたのを感じる。


──腐ってない食べ物?


 心を読んだのか、それは言葉を知らない赤子のようにおうむ返しする。

 その楽園には、優しい笑顔を向けてくれる誰かが居るだろうか? そこはどんな楽園だろう。


──楽園はみんな、眠りにつく。永遠に、幸せな夢の中で。だから争いもない。


 それが自分の生まれる意味だと教えられた。それは、困惑するようにそう言った。

 たしかに、夢の中ならば甘美な世界に浸れる。けれどそれは、所詮は偽物。不幸も無ければ幸せも無いと同じ。現実に絶望していたが、生きていなければ……目覚めていなければ友達だってできなかった。


──ねえ、笑顔って何? 友達って何? どうして不幸が幸せなの? お前は世界を憎んでいないの? どうして現実をほしがるの? そんなの私は知らない。知りたい。教えて!


 目なんて無いのに、それが泣きそうなのを玻璃は理解した。

 ああ、お前は泣ける目も、笑える口も、誰かに触れるための手も、地面を踏むための足もないのか。


 唯一の救いは、知りたいという心がある事。けれど肝心の肉体がなければ、幸せに触れる事はできない。


「じゃあ、俺の体をやるよ」


 玻璃は優しく微笑むと、目の前のそれを抱きしめた。


        ─── **             ─── **


 広々とした青い花畑が覆う庭に、木々が囲むそこは、誰もが写真に収めたいと思う幻想さがある。それでも幻想のあまりか、人の姿は無い。伸び伸びと佇む大木の横に、一軒家が立っていた。

 穏やかな風が、半分開けた窓のカーテンをそよがせる。風は、窓近くのベッドの上に広がった黄金色の髪を優しく撫でた。

 すぅすぅと寝息を立てる、部屋の主人。少しウェーブがかった髪の隙間から見える安らかな寝顔は、美しい天使のようだ。しかし寝息は途絶え、髪と同じ透き通る金のまつ毛が震え、ゆっくり開かれる。目蓋の下からは、特徴的な緑と金色が混ざった瞳が現れた。

 少女はベッドから降りると、真っ白なワンピースを少し整えて部屋から出て行く。向かったドアから、老婆が現れて咄嗟に身を壁に寄せた。彼女は部屋の中に振り返って深く頭を下げる。それから少女に気づくと、皺の奥に隠れた目を優しく細めた。


「ごめんね、驚かせて」


 少女は謝罪に首を横に振る。老婆はそれに笑顔で返し、玄関に向かっていった。

 少女は視線だけで見送り、老婆が居た部屋のドアを開ける。そこには、カルテを書く男の後ろ姿があった。彼女はその背中をじっと見つめ、ようやく口を開く。


「ギヴァー」


 鈴の鳴るような綺麗で小さな声だ。ギヴァーは振り返り、我が子にするように微笑みを向ける。


「おはよう、グレース。よく眠れたかい?」

「起きたよ」

「? うん、おはよう」

「違う。使。起きた」


 ギヴァーは淡々とした声の綴った言葉に黒い目を丸くし、跳ねるように椅子から立ち上がる。その拍子に、木の椅子がガタンと床に倒れた。

 いつもなら気にする粗相だろうが、彼は見向きせずグレースの前で膝をつく。


「場所は?」

「日本」

「ああ……ついに……! すぐ日本へ発とう。グレース、この世界は幸せになるよ。ノアを呼んでくるから、待っていてくれ」


 グレースは恍惚な笑顔を浮かべるギヴァーにつられるように、可愛らしい唇を僅かに緩めた。

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