治験参加者
昼過ぎ、玻璃は図書館に訪れていた。病室のとは言え、ベッドは心地良い。しかし薬や食事以外は自由なため、何もしないのは退屈だった。
本が特別好きというわけではない。探索していたら偶然見つけただけだ。
玻璃の知識は、小学生で止まっていると言っていい。中学の時はほとんど登校できなかった。だから難しい漢字や言葉が載った本は、全く興味そそらない。
それでも暇つぶしにと、一冊、迷路のような本棚から引き抜く。選んだのは、昔に読んだ懐かしい絵本だった。絵の描写が細かく、少し分厚いのが特徴だ。小人の少年が冒険する物語で、小さい頃の彼はこれに夢を見ていた。
数年振りなのに、ページをめくれば不思議と思い出す。並ぶのは単純な言葉。それなのにどうしてか、深さや美しさを感じる。やはり玻璃はこの本が好きだ。
「──あ、その本」
「!」
想像世界に没頭していたせいか、驚いて勢いよく振り返る。比較的小さな声だったが過剰に反応し、声をかけた青年も目を瞬かせていた。見覚えのある顔だった。そうだ、同室で隣のベッドの参加者だ。
「急にごめんなさい」
「い、いや」
「隣、いいですか?」
少年も手に本を持っている。絵本ではなく、見た目に似合った文庫本だ。
頷くと、彼は隣の椅子を引いて腰を下ろした。しかし本を開かず、玻璃と目を合わせると微笑む。少し幼さを含むため、十代後半だろうか。
「隣のベッドでしたよね? 俺は
「六切玻璃……です」
「歳が同じ、かな?」
「た、たぶん」
「そっか、じゃあよろしくね。その絵本、懐かしくってつい話しかけちゃった」
満は本が好きだと言った。玻璃同様、持て余した暇を埋めるため、ここへ来たのだという。
彼は治験バイトが初めてではなく、今回で三回目だった。目標金額があって、ようやく届くらしい。溜まった報酬の使い道は、今年で二十歳になる姉の誕生日プレゼント。十年先も使えるような、少し大人な物をプレゼントしたい。そう考えた結果、腕時計を選んだ。
あとは振り込むだけだと、満は買う予定の時計の画像を玻璃へ見せた。液晶画面に映るのは、落ち着いたピンクゴールドの時計。女性らしい細身で、淡く花の模様がアクセントとなっている。
「家族に、プレゼント」
「そう。俺、家族が姉しかいないんだ。姉さんには凄くお世話になったから」
照れ臭く笑う彼の感情が、玻璃には理解できなかった。大事な人という存在が無い。ましてや、もっとも身近な家族に感謝やプレゼントを渡すという発想もなかった。
しかし玻璃はそれが一般ではないという理解はしていた。人が口を揃えて、彼を親不孝者と呼ぶからだ。家族、他人を大事にする、自分を愛するという事ができない彼を、世間は批判する。家族という当たり前の土台が存在すると、勝手に決めつけて。
「……お前も、家族は大事だと思うか?」
満は小さく低い声にキョトンとした。玻璃は逃げるように顔を背ける。
玻璃は知識も無ければ頭も悪い。しかし、だからこそと言うべきか、ものの本質を察するのは上手かった。だから分かるのだ。平均台の幸せを知る者が、わざわざ不幸を想像などしないと。別に理解されたいとも、同情も望んでいない。しかし生まれる感情は、どうしようもない疲労と劣等。
満は少し考えるように、プレゼントが映ったままのスマホに視線を落とす。
「家族が大事なのは、たまたまだと思う」
「あ……?」
まさか答えられると思っていなかった玻璃は、声にならない小さな疑問を返した。満は唖然とした彼に優しく笑う。
「血が繋がっただけで、心が繋がるとは思わないな」
「家族って、そういうもんじゃねえの」
「うん、違う。ただ家に一緒にいて、血が繋がった。それがたまたま、心も繋がっただけ。だから、友達や恋人が家族より大事な人は、家族と繋がらないってだけ。そんな大きな違いは無いと思う」
玻璃は何も言えず、ただ驚いて目を丸くしていた。そんな考えを聞かされたのは、生まれて初めてだ。そうか、満は土台を幸せだと思える人間なのだ。そしてそれが、当たり前でなくてもいいと言った。
何故か、胸の中がふわりと浮いた軽さを感じた。よく分からない、初めての感覚。
「あ、これは俺の考えで、他にもいろんな答えがあると思うけど」
「……そうだな」
玻璃はまたそっぽを向くと、頬杖をついた。そしてポツリと、独り言のように呟く。
「俺は、この本が好きだ」
「あ、面白いよね。絵本なのに、全部の描写が映画みたい」
「……今日、久しぶりにパン食った」
「お昼? 美味しかったよね。夕飯は何だろうな。六切は何食べたい?」
「肉。……佐藤は?」
「俺はシチュー好きだから出て欲しいなぁ」
なんでもない会話。どちらかといえば、飽きてしまう、内容の無いつまらない会話だ。それでも、玻璃が自分から話題を出すのは数年振りで、もっと続けたいと何故か思った。
「…………喜ぶといいな、姉」
「! うん、ありがとう」
他人の幸せを願ったのは、生まれて初めてだ。そのせいでぶっきらぼうだったが、満はとても嬉しそうに笑った。
─── ** ─── **
特別大きな盛り上がりは無いものの、二人の会話は自然と途絶えなかった。会話を終わりにしたのはどちらでもない、天井に付いたスピーカー。
小さくも目立つチャイム音は、病室に居ない参加者へ戻るよう促す合図だ。外を見れば夕方が終わる直前。夕飯が運ばれてくる頃だ。
「そろそろ行こっか」
「ああ」
「そうだ、連絡先交換しようよ」
「スマホ持ってねえんだ」
「じゃあ、ちょっと待って」
満はズボンのポケットからメモ帳を取り出すと、一枚に電話番号を書いた。それをちぎり、玻璃に差し出す。
「また話そ」
友達と言っていいのだろうか。玻璃は聞けず、ただ頷いてメモを受け取る。席を立った満に続いて腰を上げ、図書室から並んで出た。
「お、いい匂い」
「腹減る」
「米、おかわり自由だって」
また、他愛の無い会話が始まる。心地良い時間だ。今ならさり気なく、この関係を友達と称していいか、聞けるだろうか。
「なあ佐藤」
勇気と望みを絞り出した声に、返事は無かった。緩んだ胸がギュッと締め付けられるのを覚える。しかしすぐに解かれた。声だけじゃない。隣にあった足音も消えていると気付いた。
違和感に振り返る。満の体は、数メートル後ろで地面に伏せていた。
ピクリともしない彼へ慌てて駆け寄り、体を仰向けにさせる。顔色が悪い。顔面蒼白という言葉が目に見えて分かる青白さだ。呼びかけに答えない。呼吸はかろうじてしているが、まるで死人だ。
玻璃は緊張によって、突き刺されるような痛みを全身に感じた。心臓を耳に直接当てたように、ハッキリ脈動が聞こえる。無意味に体が震えて思考が定まらない。
(だ、だれか!)
しかし廊下は無人。零れ落ちそうに見開かれた黒い瞳が、忙しなく左右に動く。目まぐるしく変化する視界の中、一つ、希望が映った。
玻璃は急いでそれへ手を伸ばす。指が触れたのは、プラスチックのケースに守られた、赤いスイッチ。近くにスタッフが居ない時、報せが行く緊急時のスイッチだ。
押して数秒。永遠に思える数秒後、足音が聞こえてきた。そうなるとあっという間で、数人のスタッフが二人を取り囲む。玻璃は状況や先程までしていた行動等を、なんとか必死に伝えた。タンカが運ばれてきて、満の体が静かに横たわる。
「ひとまず佐藤さんは治療室へ移動させます。六切さん、早急のご対応、ありがとうございました。病室に戻れますか?」
「あ……は、はい」
玻璃は呆気に取られている間に、一人ポツンと取り残される。
そうしてスタッフへ生返事をして、何分膝をついて呆然としていただろう。ぼんやりとだが我に返り、力無く立ち上がると、病室への道をトボトボと辿った。
ベッドには簡易テーブルが引き出され、既に 食事が並んでいた。同じ病室の仲間はもう箸をつけている。玻璃もベッドに座って、箸を握った。
健康的だが病院食にしては豪華なメニューだ。肉は分厚く、汚れていない食事はこれで二度目。しかし心は目の前の肉よりも、空いた隣のベッドに向けられている。
その日の食事は、舌が麻痺したように何の味もしなかった。
夕食が終われば、あとは消灯時間まで何も無い。頭の中に満の顔がチラついて、用意されている娯楽に触れる気が起きない。かれこれぼーっとしただけで一時間以上は経つ。
目蓋を閉じれば浮かんでくる。彼の青ざめた顔が。このまま寝れば、夢に出そうなほど強烈に刻まれている。
「──六切、起きてる?」
「! 佐藤!」
他にも人が居る事も忘れ、玻璃はベッドから跳ね起きた。控えめに名前を呼んだのは、今か今かと待っていた満の声。カーテンを開けると、勢いの良さに驚いている彼が居た。
満は血相変えている玻璃の顔に、申し訳なさそうに笑った。
「さっきはごめんね。低血糖で倒れたみたい。俺、前もやっちゃったんだ」
「ていけ……? も、もういいのか?」
「うん、処置してもらったから。もしもの時に、ブドウ糖貰ったし」
「そう、か」
「ごめん、心配させて」
「いや、別に……無事なら」
そう言いつつ、玻璃は安堵のあまり、腹から深く息をついた。話したい事はたくさんあるが、もう消灯時間だ。それに、大丈夫と言っているが、無理もさせられない。
しかしカーテンを閉めた満をどうしてか追いかけた。
「佐藤」
「ん? どうしたの?」
「……佐藤、だよな?」
「え、そうだけど、なんか変かな?」
「あ……いや、悪い。じゃあな」
「うん、おやすみ?」
満は首をかしげながらも、穏やかに手を振った。玻璃はカーテンで彼を遮りながら、眉根を寄せる。
(何言ってんだ、俺)
本当に、疲れているだろう彼になんて事を言ったのだろう。
変な感覚を覚えた。笑顔も、口調も全て同じなのに、まるで別人と話しているような感覚。しかし会って数時間なのに、何故そんな事を思うのか。きっと気のせいだ。慣れない環境で、少し興奮しておかしくなっているのだ。
玻璃は暗くなった天井を見つめ、必死に言い聞かせながら目を閉じた。
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