六切玻璃

 世の中金だ。金を稼ぐにも金が要るほど。


 ぐぅ、ぐるるとまるで、唸り声を腹が捻り出す。六切むつぎり 玻璃はりは、臓器なんて無いと勘違いしそうに薄い腹を撫でる。こんな状態になって、たしか、四日目だったろうか。最後に食べたのは、その辺で靴の下敷きになった雑草。腹の調子はもちろん悪い。水はできるだけ綺麗に見える川から拝借している。

 そろそろ太陽が沈み、大通りには家へ帰ろうとする人々に溢れている。暗がりから覗くと、玻璃と同じ年代に見える少年少女が、それぞれ手に美味そうなものを持って下校していた。


(目の前に出て倒れたら、なんか寄越よこしてくれっかな)


 そんなのは夢想。倒れたら道が開けられ、最悪撮影会が始まる。

 きっと皆、このあとどこかで腹を満たすのだろう。家もあって、寝床もあって……。想像して、鬱々としたため息が出る。

 玻璃にも家はある。ただ、どこで寝ればいいか分からないくらいゴミで溢れているだけ。家族もいる。ただ、少しも目が合わないだけ。ただ、それだけだ。


(あぁ、くそ。なんで人間、食ったり寝たりしないといけないんだ)


 必要なければ、多少なり彼も幸せだっただろう。

 バイトはまともに受からない。清潔感が大きく欠けているのだ。服はすり切れ、髪も背中まで伸び、何より顔色が悪い。しかしこれらを全て整えるには、まず金が必要。その金を手に入れるためのバイトなのに、なんて堂々巡りだ。


「あ、ぁ……のど、やべ」


 こんな都会ではあまり水にもありつけないから、喉は砂漠状態だ。しゃべるのも上手くいかない。

 玻璃は上がり切らない足のせいで、漁ろうとしたゴミへ転んだ。踏んだり蹴ったりとはまさにこの事。なんとか体を起こしたはいいが立ち上がれず、壁に背中を付ける。


──チャリッチャリン

「!」


 金属がアスファルトに跳ねる音がした。人間の本能なのか、それが何か、見る前に判断できた。

 想像通り、視界にあったのは数枚の小銭。骨張った手を伸ばしかけ、ピタリと止まる。小銭の上がいやに暗い。何かによって、影になっている。それは人影で、玻璃は恐る恐る見上げた。


「おや、賢いじゃないか。すぐに盗らないとはな」


 夕暮れ時、ただでさえ暗い路地では顔が分からない。誰かは感心した様子だった。しかし玻璃には、それがオモチャを見つけた子供のような言葉に聞こえた。

 誰かはしゃがんで玻璃と目を合わせくる。三十代前半に見える男だ。

 違和感を覚えた。笑顔を讃える瞳が、妙に黒い。日本人でも、こんなに漆黒と呼ぶに相応しいほどの色を持つだろうか。路地裏だとしても、微かに存在する光の反射が見えない。目鼻立ちから日本人ではないと、なんとなく分かる。姿もなんだか今時ではない、古いヨーロッパの写真によく写っていそうなベージュのスーツを着込んでいる。

 後ずさろうとしたが、真後ろは壁であるのを忘れていた。少し背筋が伸びた事に、男は動きの意図を読んだようだ。


「いきなりすまない。今ね、人を探しているんだ。怪しい者じゃないよ」


 懐を漁った手が差し出される。白い手袋に包まれた指には、一枚の名刺が挟まっていた。ギヴァーと中央に大きく書かれているが、これが名前だろうか。玻璃はあまり名刺を見る習慣が無い。

 名前のすぐ下に、小さく「精神」と書かれているのが読めた。その続きもあるが、難しい漢字で読む気にならない。何やらお偉いさんのようだ。


「精神科医や、その他にも薬を作ったり、色々しているんだ。実は、治験参加者を募集しているんだ。一人脱退してしまって、急いで空きを埋めようとね」


 玻璃は顔を思い切りしかめた。そんなの、まともなバイトなわけないじゃないか。警戒すると、ギヴァーは反応が思った通りだったのか、クスクスと上品に笑う。


「一応、ちゃんと法的に認められたバイトだよ? たとえば頭痛薬とか、風邪薬とかに役立つ。もちろん副作用が絶対無いわけじゃないが、もしもの場合、社が手厚く保障する。危険が伴う分、報酬もそれなりだ」

「……いくらだ?」

「三万」

「はっ?」

「一回ね」


 玻璃はあまりの高額さに、まの抜けた声を上げた。一回。たった一回、薬を服用しただけで三万円も貰えるのか?

 聞き間違いではないかと、何度も頭の中で先程のシーンを繰り返した。ギヴァーは人の良さそうな笑みのまま、頷いて肯定を示す。さらに説明が続くが、ますます耳を疑う条件だった。

 週に一回入院するのが条件。入院費や一日の食費は全て用意せず、会社負担。玻璃の顔は、頭に染み付くごとに歪んでいった。これは怪しすぎる。


「……どうして、俺を?」

「君は、いい犬になりそうだから。ほら、待てができただろう?」


 「待て」とは、さっき落ちた小銭を拾わなかった事だろうか。他人を犬呼ばわりとは、とんでもない変態と会ってしまったかもしれない。しかし、玻璃の表情はふと弛んだ。

 考えてみたら、どうして迷っているのだろうか。嘘であったとしても、体を捌かれたとしてもいいじゃないか。帰る場所に、自分を望む人は誰一人居ない。むしろ餓死する手間が省けるんじゃないか?

 少年にしては痩けた頬が引き上がった。それは彼なりの不器用な笑顔で、ギヴァーは不思議そうに首をかしげる。


「やる」


 そう言った掠れた声は、今まで以上にハッキリしていた。


        ─── **             ─── **


 ギヴァーと名乗る、怪しい医者の誘いの手を取ってから、二日が経った。

 スマートフォンを持っていない玻璃に、ギヴァーは病院までの地図を用意した。そこまでは数十キロと離れていたため、運賃とその間に必要な食費まで渡してくれた。それを使って、玻璃は初めてのネットカフェで、何年かぶりにゆっくり睡眠を取る事ができた。

 まるで天国のような二日間だったが、なんだか奇妙な気分だった。たしかに誘いには乗ったが、こんなに優遇されていいのかと、心が落ち着かない。


(やっぱり、最期になるんじゃねえのかな。まあ……それでもいいか)


 人生最後であるなら、夢心地を楽しんだからいい。もし彼が世間的に悪魔だったとしても、自分にとっては夢をくれた天使だ。だったら、礼として役に立って終わろう。

 玻璃は電車で揺られながら、過ぎ去っていく風景を眺めてそう思った。


 一時間かけ、地図に指定された駅に降りる。玻璃は合っているか不安になりながら、無人の改札口から出た。

 いやと言うほど見慣れたビルが一つもない。代わりに空へ伸びるのは青々とした山。踏み慣れたコンクリートはどこかへ行って、柔らかな土に支えられている。超が付くほどの田舎だ。


(とりあえず……この通りに行ってみるか?)


 行動はそれしか残されてはいない。玻璃は地図と睨めっこして時々立ち止まりながら、亀のように進んで行った。



 地図をたどった足が、山道を彷徨って三十分。永遠に続くと思われた上り坂に嫌気がさした時、既視感のある建物が目に入った。地図と一緒に貰った写真に写っていた病院だ。

 玻璃は怪訝そうに建物を見上げる。写真を見ても思ったが、実物はもっとボロボロに見えた。病院は綺麗なイメージがあったため、入るのに勇気がいる。それでもチラつく高額報酬欲しさに、彼は入り口ににじり寄っていった。

 無意識に、音を立てないように入り口を開く。しかし中は思ったよりも綺麗で、拍子抜けした。掃除されているのが見て取れる。

 土足禁止なのか、スリッパが用意されている。履き替えてすぐの扉を開けると、受付に座ったスタッフが気付いて微笑みを向けた。


「こんにちは。治験参加者ですか?」

「あ……はい」

「では、こちらの資料をお読みになって、奥でお待ちください」


 玻璃は数枚重なった資料を受け取り、示されたドアをくぐった。中は待合室で、やはり外観が嘘のように整っている。普通の病院となんら変わらなく思えた。

 待合室には、玻璃と同じ資料を持つ姿が数人あった。空いている席を探して彼も座り、資料に目を通す。内容は安全面や今日の体調確認、個人情報やここで受けた薬品について、情報漏洩をしないようになどが書かれていた。


「六切さん、六切玻璃さ~ん」


 読み終えて暇を持て余していると、少し眠くなってくる。目蓋が落ちそうになった頃に呼ばれ、玻璃は慌てて立ち上がった。

 案内された病室は四人での相部屋。軽くだが同室の参加者にあいさつをし、ベッドに腰掛ける。玻璃が過ごす事となるのは、窓に近くてなんとなく開放感を覚えた。


「六切さん、今よろしいですか? 失礼しますね」


 男の声が聞こえた。少し太く、ギヴァーではない。

 カーテンを開けたのは、白衣を着た中年男性。そういえば、ギヴァーから院長は別に居ると聞いていた。自己紹介を聞けば、やはり院長。名前は山崎 竜真りゅうまと名乗った。

 玻璃は、彼がカーテンの中に入った時、もう一人居るのに気付く。竜真の後ろに続いたのは、まだ十になって間もなく見える少女。緑と黄色が混ざった不思議な瞳をしている。


「こちらが、本日分のお薬です。夕食前にはお飲みくださいね。他の時間は自由ですので」

「ど、どうも。あ……後ろの」

「あぁ、これですか。娘のようなもので、お気になさらず」


 それは少し無理な要求だ。何故なら、少女は特徴的な瞳で、じっと見つめてくるから。現実味のない瞳は美しいが、まるで品定めしているような視線は、あまりいい気はしない。


「何か些細な事でも、スタッフにおっしゃってくださいね」

「あ、ども」


 カーテンが閉まると、白い世界の向こう側で二人分の足音が去って行くのが聞こえた。同室の被験者とは、もう同じ挨拶を終えたのだろう。

 受け取ったのは粉薬。包んでいた紙を開けると、いかにも苦そうな灰色が顔を見せた。薬は苦手だ。しかしこれをするだけで、役目は終わる。

 玻璃は悪あがきに息を止め、一気に口へ含むと水で流し込む。ぷはっと息を吐き、僅かに残るなんとも気持ち悪い苦味に顔をしかめた。

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