入場

[19時14分  歩道  ―和之―]

 五月の夜というものは、心地よさがどこまでもひろがっている。


 その心地よさを数秒前まで楽しんでいたはずの曽我部そがべ和之かずゆきくんは壁を背に座り込んでいた。


 病気の発作ではない。

 ただ恐怖のためである。


 平均よりもやや小柄な身体と、中性的な顔立ちを持つ少年は、座り込んだままさらに後ずりをしようとした。すでに壁に背をつけている以上、なんの意味もない行為であるにもかかわらず、本能がその動きを繰り返させる。


 向こうから歩いてきた男は、岩のような身体と、サメのような目と、鬼のような顔を持っていた。座り込んだ少年を一瞥いちべつもしない。人が蟻とすれ違ったところで気づかず、気づいたところで心の片隅にもとめないのと同じように。


 鬼岩鮫きがんざめと呼ばれるその男は――およそ力と名付けられるあらゆるものを使ってのし上がってきたその大柄な男は、歩む速度も目線も一切変えることなく歩き去った。


 恐怖から壁に背を預けたままへたりこんだ少年のことなど認識の外に置いたまま、歩き去っていった。

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