第2章
第38話「旅のメカメイド」
突き抜けるような青空の下を歩くのは、とても新鮮な気持ちだった。普段は薄暗い地下に広がる
「ヤック様、あまり急ぎすぎないようお気をつけください」
「ぐえっ」
意気揚々と足並みを速めた途端、後ろから腕を掴まれる。振り返った先で真顔で僕を見下ろしてくるのは、落ち着いた色合いのメイド服を着た長身の女性、アヤメだ。
彼女は大きなトランクを軽々と手に提げて、僕の後ろにぴったりと付いてくる。その歩みは規則的で、常に一定のリズムを保っていた。
「でも、もうすぐ宿場町だよ。早めに着いて休みたくない?」
「日没までには十分な余裕があります。体力をいたずらに消耗する必要はありません」
「僕もそんなに考えなしじゃないんだけど……」
何度訴えても、アヤメは過保護な扱いをやめてくれない。僕は立派に成人しているのに、彼女はまるで子供を相手するようにしか接してくれないのだ。
澄ました顔のまましっかりと僕の手を掴んで離さないアヤメに、ため息をついて降参する。こうなったら僕がどれだけ力を込めても振り解けない。触れれば折れてしまいそうなほど華奢な腕なのに、アヤメの力は僕なんかよりはるかに強いのだ。
とはいえ、こうしてのんびりとした歩みが嫌いというわけではない。今まで二人で歩くことといえば、迷宮での探索がほとんどだった。全く気の休まらない緊張の時間で、会話を楽しむ余裕もない。
「平和だねぇ」
広々とした景色を見渡して、思わず率直な言葉をこぼす。
迷宮の外には魔獣もいない。代わりに盗賊なんかの危険がないわけではないけれど、目の届く範囲には人の気配すらない。
迷宮都市パセロオルクを飛び出した僕とアヤメは、次なるダンジョンを目指してのんびりとした旅路を楽しんでいた。
「ぐえっ!?」
――と思っていた矢先、アヤメに勢いよく腕を引かれる。不意を突かれてバランスを崩した僕は、そのまま草むらに転倒するかと思った。けれど、後頭部がぽよんと柔らかいクッションに包まれて、体を支えられる。
「あ、アヤメ!?」
彼女の胸に抱かれていることに気付き、自分でも分かるくらい顔が赤くなる。けれど、アヤメは全く表情を崩さないまま、周囲を見渡していた。
「お静かに。動物の気配がします」
「動物?」
アヤメは僕を片腕で抱きしめたまま、トランクを地面に落とす。そして、腰に佩いていた
その時、近くの林の暗がりから物音がする。
「ひっ」
緊張感に煽られて思わず情けない声が漏れる。けれど、アヤメは聞き流してくれて、じっと茂みのをほうを見つめていた。
彼女はじっと動かない。じりじりと時間が過ぎる。
そして、痺れを切らしたのは向こうの方だった。
「ガアアアアアッ!」
「うわぁっ!?」
茂みの暗がりから飛び出してきたのは、三メトはあるかという巨大な熊だ。獰猛な牙を剥き、黒々とした目で僕らを睥睨している。後ろ足の二本だけで立ち上がり、前足を大きく広げた姿は、それだけで足が竦みそうなほどの迫力がある。
完全に体が硬直してしまった僕を置いて、アヤメがいきなり動き出す。彼女は強靭な脚力で土を蹴り、一瞬で熊の懐に潜り込む。自ら間合いに飛び込んだ彼女に、熊がにやりと笑ったような気がした。
けれど――。
「敵性存在、排除を実行します」
「ガァッ!?」
その腹を、分厚い野生の筋肉と剛毛の毛皮に覆われた腹を一突き。雷撃警棒の硬い先端が一点集中で突き込まれた。その威力は凄まじく、熊の巨体がわずかに後退する。だが、流石の力で踏みとどまった熊が、鋭い黒爪を光らせて振りおろす。
アヤメの首に、鋭利な爪が迫る。
「ふっ!」
アヤメが少し力を込めて、警棒を振る。熊の剛腕を叩き落とした。
「ギュアッ!?」
鈍い音がして熊が悲鳴をあげる。あまりにも圧倒的だった力の差が逆転していた。熊の硬い骨が折れ、アヤメは平然と立っている。その青い瞳が、冷たく熊を見定めていた。
予想だにしない展開に、熊は混乱し態勢を崩す。生まれた大きな隙に、アヤメが滑らかに喰らいつく。彼女が手に持つ黒い警棒が、熊の喉を築き上げた。
「ゴボッ」
空気が一気に抜ける濁った音がして、熊は白目を剥く。喉ごしに頭を揺らされ、その一撃で失神してしまったようだ。大地を揺らして崩れ落ちる獣の頭に近づいて、アヤメは止めを刺す。一切の躊躇なく淡々と仕事をこなし、平然としたままこちらへ振り向く。
まったく汚れのないスカートを翻して、彼女は軽やかに一礼。
「任務完了。お怪我はありませんか、マスター?」
そう問いかける彼女は、やはり真面目な表情だった。
「うん、全く。……これくらいなら、僕でも倒せると思うんだけど」
アヤメの迅速な仕事には感謝しつつ、そっと希望も添えてみる。しかし、彼女はそれをさらりと聞き流してしまった。
森の中から現れた熊は、いくら大きいとはいえただの獣だ。ダンジョンを徘徊し、魔力を帯びた魔獣ではない。そして、僕は魔獣と戦うことを専門にする探索者なのだ。ただの獣如きに負けるわけにはいかない。
「ヤック様には危険です。マスターの安全を守るのは、ハウスキーパーの務めですので」
「うぐぐ」
悔しがる僕を置いて、アヤメは絶命した熊を軽々と持ち上げる。その光景は、どう考えても人間の行える範疇を超えている。
「さあ、参りましょう」
熊を担いだまま、アヤメは街道へと戻る。
見た目は目が覚めるような美しい女性である彼女だが、実際には人間ではない。熊を無傷で倒し、軽々とそれを担ぐだけの力を持ち、戦闘時も常に冷静を保ち続ける。
彼女は迷宮の奥で目覚めた魔導人形。――機械でできたメイドさんだ。
「マスター、スケジュールに3分の遅れが出ています」
「ご、誤差の範囲じゃないの?」
そして、僕はひょんなことから彼女のマスターになった。仮初のマスターではなく、正式な主人に。
地図を広げて目的地を示すアヤメの元へと駆け寄って、一緒に覗き込む。
僕は、機械のメイドさんと旅をしている。
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