第20話「自分が信頼できるもの」

 お風呂でもしっぽりと全身を洗われ、さっぱりと汚れを落としたものの何か大切なものまで失くしてしまったような気がする。けれどもアヤメのマッサージは早速効果を表してきたのか、お風呂から出てくると羽が生えたように身軽になっていた。


「うわぁ。こんなに両肩が軽いのはいつ振りだろ。ありがとう、アヤメ!」

「このくらいなんと言うことはありません」


 そうは言いつつ、アヤメも少し得意げだ。相変わらず表情は全く変わらないけれど。


「それじゃ、道具の整理だけしようかな」


 お腹も膨れて疲れも取れた。あとは寝るだけ、と言いたいところだけれど、まだやることが残っている。

 僕は部屋の隅に押しやられていたリュックサックを持ってきて、中に入っていた道具類を床に広げる。


「これは……?」

「迷宮道具。探索者が揃えておくべき必需品だよ」


 魔獣解体用のナイフをはじめ、照明のカンテラ、地図。採石用のハンマー、ピック。迷宮植物について書かれた図鑑や試薬。

 迷宮探索には色々な道具が必要になる。全部魔法で片付けるようなすごい人もいるらしいけど、そんな力がないなら道具に頼らなければならない。何も保証のない迷宮という危険な世界で、唯一頼れるのがこの道具たちだ。だからこそ、命を預けられるように毎日手入れを欠かさない。


「道具のメンテナンスであれば、私にお任せください」


 仕事の気配を感じ取ったのか、アヤメが再び張り切って前に出てくる。けれど、こればっかりは彼女にも任せられない。僕は丁重に断って、メンテナンスキットを開いた。


「ごめんね。でも、これだけは自分でやらなきゃ」


 迷宮は自己責任の領域だ。だからこそ、自分が使うものには責任を持たなければならない。それが僕の中にあるルールだった。

 自分で使うものは自分で用意して、自分で手入れする。誰か他の人に任せて、いざという時に使えなくなって、人のせいにしても命が助かるわけではないのだから。

 研磨剤で磨いて、布で擦る。そんな地道な作業が結構好き、というのも理由ではあるのだけれど。ふとアヤメの方を見てみると、何やら固まって考え込んでいる様子だ。僕の言葉がどこか琴線に触れたのだろうか。


「自分の道具は、自分で手入れを……」


 彼女は小さく何事か呟いている。そんな声も聞こえなくなるくらい、僕は深く集中していった。

 カンテラの煤を払い、中の魔石の状態を確認する。こういうものは消耗品だから、忘れないように補充しておかないといけない。


「よし、できた!」


 体感としては一瞬だけど、じっくりと時間をかけて満足いくまで手入れを進める。これだけしておけば明日もすぐに探索へ出掛けられるという状態にまでしておかないと、もう満足できないくらい体に馴染んだ習慣になっていた。

 軽い達成感に酔いしれつつ道具をリュックに戻して立ち上がる。いつの間にか夜も更けて、一気に眠気が襲ってきた。今日はぐっすり眠れるだろう。

 そう思っていたのだけれど。

 寝室に入ると、アヤメがベッドに横たわり、ポスポスと隣を叩いていた。


「……アヤメ? 何してるの?」


 布団を押し上げて、誘い込むようにしている彼女に怪訝な顔をする。


「どうぞこちらへ」

「いや、だから。ベッドは二つあるんだけど」


 至極当然といった顔で、僕を自分のベッドへと誘導している。呆れてため息をつきながら隣のベッドへ向かおうとすると、がっちりと腕を掴まれた。またか!


「なんで!? 警護ならこの距離で十分――」

「私はあなたの道具です」


 僕の言葉を遮るようにアヤメが言った。青い瞳がまっすぐにこちらを見る。

 彼女の放った言葉の意味を理解する前に、更に続けられる。


「であれば、ヤック様には私を手入れする義務があると判断します」

「いや、え?」


 アヤメの手入れとは、いったい何を言っているんだろう?


「私に搭載された擬似人格は、環境の急変と非常事態の連続で強いストレス反応を示しています。つまり、現在の私は精神的安寧を求める欲求が非常に高まっており、そのためには唯一信頼できるマスターとの物理的密着が有効であるとの結論を出しました」

「うん。全然分からない!」


 いつにも増して早口で捲し立てられた。何か誤魔化しているんじゃないかと疑いつつも、彼女の氷のような無表情からはやましい感情を何も感じ取れない。ほ、本当か?

 結局のところ、彼女も寂しいのだろうか。

 はっとそんな考えに至って驚く。


「アヤメ……」


 アヤメの正体、ハウスキーパーが何なのか完全に分かったわけではない。でも、彼女が長い眠りから目を覚ましたその時、周囲の状況ががらりと変わっていたことはたしかだ。彼女が施設と呼ぶものは魔獣の闊歩する迷宮へと変わり、危険に溢れていた。アヤメはそれを軽々と一蹴していたけれど、だからと言って余裕があったわけではなかったんじゃないか。

 彼女が目覚めた時、彼女のことを知る者はいなかった。彼女は、見知らぬ世界で孤独になっていた。

 その青い瞳からは真意を読み取ることもできない。けれど、初めて彼女が自分の内側を少し見せてくれたような気がした。


「そっか。アヤメもやっぱり不安だよね」

「……………………はい」


 なんだか返答にすごく間があった気がするけれど。


「……じゃあ、失礼します」


 僕がおずおずと潜り込むと、アヤメは優しく迎え入れてくれる。そのまま腕が胸の前まで回され、背中に柔らかな感触が押し付けられる。相変わらず体温は冷たくて、体のほとんどが硬かったけれど、僕を抱きしめる力は優しかった。


「おやすみなさいませ、ヤック様」

「……おやすみ」


 アヤメはいつも静かだから、黙っているのか眠っているのか分からない。微動だにせず、呼吸も拍動も伝わってこないから心配になる。というか、僕の激しい鼓動が聞こえているのではないかと恐ろしくなる。


「……」


 結局、僕は夜も半ばになるまで眠ることができなかった。

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