随筆集

みどり怜

チャイム

ベッドから起き上がると、青白い光が鼻先に触れた。勉強机の上に置いてあるノートパソコンの電源が入ったままになっている。いつの間に寝たのだろうか。昨日もかなり酔っていたのか、記憶が曖昧だった。耳鳴りがする。頭痛がする。吐き気はしない。立ち上がって灯りをつけて、パソコンの電源を落とした。暗くなった画面に映った顔は、二一歳の大学生とは思えないほどやつれている。元々若く見られない顔が、さらに年老いて見えた。

目線を外して窓を少し開けた。外を覗くと西日が部屋に飛び込んできた。もう夕方であった。その急激な光の波は夏の到来を感じさせた。風は吹いているが涼しくはない。温められた空気が膨らむように部屋に広がっていって、身体をくすぐるようだった。私は外に出かけたくなったが、ソファに座ったまま動く気がしない。私の億劫と倦怠を一気に片付けてしまうには、自然には力が足りない。

起きたはいいものの、手持ちぶさたで何もすることがない。大学の授業は全部オンラインで受けているし、それが入学してからほぼずっととなると、友達はできない、活動もできない、大学生活らしいものは何もできない。そのまま四年生になってしまったが、それでいきなり就職と言われても、まだ高校生の気分が抜けないので、まるでやる気がしなかった。両親はいまだに何も言わず家に置いてくれている。せめてアルバイトでもしようと思い求人を見てみるのだが、どれもこれも似たようなものばかりで決められない。家は比較的裕福で、このまま働かずとも生きていくことはできる。しかしそれもいつまで続くか分からない。両親が死ぬ前までに自分が死んでしまえば済むのだろうが、今はまだ死ぬ気はしない。退屈に耐えられなくなる可能性はあるが。

その辺に放り出してあった本を読むことにした。まだ半分も読めていないが、それでも千ページは読んだだろう。上中下の三冊組みの二冊目である。一冊目を読みはじめたとき、これほど面白い小説があったのかと感激し、夢中になって読んだものだが、二冊目に入って以降は全く読み進めることができない。面白さは全く損なわれていないのに、どうにも読むのが難しい。読書以外でもそうで、趣味だったテニスや山登り、旅行などもすっかり全て辞めてしまって、今では外出するのは一ヶ月に一度あればよい方で、カレンダーに予定が入っていることなど滅多にない。その代わりにすることは、酒を飲むか、パソコンを弄るかくらいで、そこらの野良猫の方がまだ活動的だろう。一日中惚けて過ごし、たまに襲ってくる漠然とした不安と焦燥感に気づかないふりをするのが精一杯である。

スマホで時間を確認すると、もうすぐ十七時だった。起きてから三十分も経っていない。外からの光はいまだに絶え間なく部屋に届いている。そろそろ夕方のチャイムが流れるはずだ。子どもの頃によく聴いたものだが、大人になってからは聴いていなかった。外では毎日流れているはずで、家の中にいても音は届いているはずなのに、それでも覚えがない。何となく情けない気持ちになった。私はもう死んでいるのではあるまいか。

ふと、「あの音を聴かなければ」という理由のない考えが頭に浮かんだ。なぜかは分からない。郷愁からか、それとも退屈がそうさせたのか。とにかく私はチャイムを聴かなければならなかった。

どろんこになりながら遊んでいたあの頃を思い出しながら、私はチャイムを待った。窓に寄りかかり、外を眺める。遠くの方で空がオレンジになっている。その色を見ていると、心に穏やかなものが湧いてきて、漂う風がさっきよりもさわやかに感じられた。

私は目を閉じて耳を澄ました。東京の下町の夕方は思いのほか静かだった。鳥や虫の鳴き声、公園で遊ぶ子どもの喚声、そんな素朴な音は響いてこない。夏の代名詞でもある大量のセミの輪唱も、散り散りになって揃わない。セミでさえ孤独である。きっと孤独なことに気づかず鳴きつづけて、そのまま一人で死ぬのだろう。遠くから微かに聞こえる「ここにいるぞ」という虚しい叫び声は、私の心の反響だった。私もここにいる。だが返事はない。

チャイムが鳴った。窓に寄りかかって音を聴いた。なじみ深い童謡が、静かな街に流れている。今この曲を聴いている人はどれだけいるのだろうか。街中に流れているはずの音楽だが、聴いているのは私一人のような気がした。終わるまでの十数秒間、私は寂しさを感じていた。それは愛する人との別れを惜しむ寂しさのようであり、大切にしていたおもちゃを無くした子どもの寂しさのようでもあった。もう二度と戻らない、取り返しのつかない感覚が、何となく肌に伝わるようだった。無性に叫びたくなった。「おーい」と声を出してみた。返事はない。私は窓を閉じた。そういう時代なのだ。

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