聖戦の始まり
その冠の出所ははっきりしていない。
一説によると、神話の時代に一人の女神が恋人である人間のために与えたものだという。
銀色の円環に植物がモチーフと思われる金の象嵌。
そして額中央部分にはめ込まれた緋色の貴石。
通称『太陽の欠片』と呼ばれるリング状の冠は、代々の勇者の証とされてきた。
8世紀前の勇者もその前の勇者も、同じものを身に着けたと言われている。
前世の世界でコンピュータゲームに親しんできたわたしとしては『ドラ〇エか?』と言いたくなるようなサークレットだが、この世界にとっては由緒正しい品だとされている。
そして今、跪く一人の男の頭に『太陽の欠片』が被せられようとしていた。
俗世の最高権力者である皇帝陛下が右手で、宗教界の最高権力者である教皇が左手で冠を支え、ゆっくりと男の頭に被せていく。
高まっていく民衆の歓呼。
熱狂。
そう、熱狂だ。
男が立ち上がり、集まった民衆にその姿を見せつける。
さほど大柄ではないが鍛え抜かれた肉体に煌びやかな魔法鎧を纏い、額には勇者の証であるサークレット。
腰に佩いた剣を鞘から抜き放ち、天に向かって掲げながら男は大音声を発した。
「魔族に死を!」
割れんばかりの歓声がそれに応じる。
「今この瞬間から魔族が滅ぶその日まで戦い続けることを誓おう! 偉大なる神の名の下に! 聖戦の始まりだ!」
男の名はイェレミアス。
勇者イェレミアスの誕生である。
少し時間を遡ろう。
ヴァイゼ陥落の急報により一時解散となった会議の帰り道、わたしは請われて奥の院の一角を訪れていた。
待っていたのはグートルーン皇女殿下。
グートルーン皇女殿下はやや血の気の引いた顔色をしておられた。思わず護衛として侍る同僚の近衛騎士たちに視線を送るが、彼女らはただ小さくかぶりを振るのみであった。
「久しぶりね、エレオノーラ。忙しい身なのに呼びつけてしまってごめんなさい」
「お呼びとあらばいつでも」
跪き首を垂れるわたしの頬を、グートルーン殿下はその小さな手でそっと包んだ。
「少しあなたの顔を見たいと思っただけなの。このところ宮殿の中も外も落ち着かないでしょう? お兄様もお忙しくてわたくしの相手などして下さらないし、皇帝陛下は尚更。それで少し心細くなってしまって」
そこで言葉を切った殿下は、護衛の騎士たちの方を振り返って弁解した。
「もちろんあなたたちが頼りにならないと言っているのではないのよ」
グートルーン殿下の脇を固めるのは腕利きの女性騎士たちなので、むろん頼りにはなるだろう。
しかし、彼女らは普段あまり殿下との交流をしてこなかったので、心理的距離としてはやや遠いものがあるかもしれない。
……どちらかというと普段から護衛と称してドレス姿で茶をしばいていたわたしの方がおかしいのだが。
「……今日この帝都へ騎士たちを引き連れてやって来た者がいるでしょう」
「レーダー子爵旗下、白羊騎士団団長のイェレミアスですね」
わたしが応じると、グートルーン殿下は青い顔のまま頷いた。
「ええ、そんな名だったわ。そのイェレミアスが魔族の首を満載した馬車を牽いて帝都の目抜き通りを行進したというのは事実なの?」
「事実です」
このような皇宮の奥にあってもすでに噂は届いているのか。
多少の驚きを得ながら質問に答えると、皇女殿下は悲しげにかぶりを振った。
「何というむごいことを」
「戦意高揚、または民衆の支持獲得のための示威行為かと」
事実、帝都の民衆は魔族の首桶を積みつけた馬車を牽くイェレミアスたちを歓呼を持って出迎えた。
結局、力こそが正義なのだ。
優しさでもなく愛でもなく、むろん法でも道徳でもない。
そして神も違う。
「彼らは国境では大変な戦果を挙げたのだとか。なるほど確かに英雄にふさわしい者たちなのでしょう。でもねエレオノーラ、わたくしはあのイェレミアスという者が恐ろしくてならないの」
「殿下……」
「あのような残酷なことを本当に神がお望みだとは思えないわ」
ただの体裁か、あるいは本当にそう信じているのかは分からんが、イェレミアスは魔族の殲滅は神の意思だと常々主張している。
実際のところ、聖書には魔族を滅ぼすべしなどという文言はないが、解釈次第でそうとも取れる一節があるのだそうだ。
聖印派はこれを根拠に自分たちの武力と権力を拡大してきた歴史がある。
ただし敵というのはいてくれてこそ役に立つ側面もあるので、本当に滅ぼしてしまったらそれはそれで不都合が起きそうなものだが、もしかしたら魔族の次はエルフやドワーフを排斥し始めるのかもしれない。
「殿下は何もご案じになることはありませぬ。ストローレの脅威が迫る今、英雄の存在は頼もしきこと。しかし、もしもかの英雄が神の名を騙る不届き者であるならば、我が剣の錆としてくれましょう」
とうに敵対関係にあることはおくびにも出さず、わたしはただグートルーン皇女殿下を安心させるために言葉を紡いだ。
「あなたに神のご加護を」
腰をかがめた皇女殿下が跪くわたしの額にそっとキスをしてくれた。
いるかどうかも分からん神の加護なんぞ必要ないが、何といっても健気な少女からの口付けだ。
気合を入れるには充分だな。
これまで散々述べてきた通り、皇帝陛下も皇太子殿下もイェレミアスを勇者に任命するつもりなど毛頭なかった。
勇者誕生を阻止し続けることは歴代皇帝の使命の一つとさえ言ってもいい。
しかし、それをすべて引っ繰り返したのがヴァイゼ王国陥落だ。
魔族がヴァイゼ王国を統治する気があるのかどうかは分からないが、いずれにせよ彼らはヴァイゼの資源を手に入れ、土地を手に入れた。
つまり、兵站と縦深性の二つを手に入れたのだ。
土地が痩せており食料資源に乏しいストローレ王国にとって、兵站は一番の弱点であった。
一人一人の兵は精強でも、長期戦となると補給が持たない。
侵攻した村々から常に徴発を行わなければ進軍し続けることすらできないのがこれまでのストローレ軍だった。
ゆえに周辺国では、切り取られたわずかな領地を犠牲にじわじわと退きながら戦闘を遅滞させ、魔族が飢えて弱ったところを殲滅するか、自ら撤退するのを待つというのが基本戦術とされる。
しかし今回ストローレ王国は小麦の産地そのものを手に入れた。
征服と同時に徴発される小麦の量も莫大なものとなろうが、秋まで待てばさらに新たな収穫が見込める。
ようするにヴァイゼの農民たちに小麦を作らせ、自分たちは戦争に専念することができるようになるわけだ。
そして土地。
魔族とてせっかく手に入れた豊かな穀倉地を焦土にしたくはないだろうが、それはそれとして重要なオプションを手に入れたことは見逃せない。
すなわち大部隊を展開できるなだらかで広大な平原(ヴァイゼ王国)と、その後背に荒地と山岳からなる天然の要害(ストローレ王国)を利用した縦深防御が可能となったのだ。
言い換えれば我々周辺国がこれまでストローレ王国を打ち負かしてきた戦術を使えるようになったということである。
ヒューベンタール神聖帝国だけでなく周辺各国にとってもまず間違いなくここ数世紀で最大の危機である。
未曽有の危機に際して人々が望むのは勇者の到来。
勇者すなわち魔族との聖戦に臨む者。
そして人類を救済する者。
事ここに至って、皇帝陛下は勇者任命を決断せざるを得なくなった。
……おそらくは教会の狙い通りに。
勇者任命式はヴァイゼ陥落の報からわずか十日後に行われた。
たまたま教皇が布教と査察のために帝都の近くまで訪れていたというバカみたいな偶然があり、三日と経たずに帝都入りを果たしたからだ。
もはや予定調和を取り繕う素振りすら見せぬ辺り、今回の謀略の成功に教会が自信を深めていることが見て取れる。
勇者任命式の翌日。
我が屋敷のリビングの真ん中でうつ伏せになったバルタザールの背中を踏みつけている母上の姿を発見し、わたしはたまらず頭を抱えた。
何だよ、これ。
「……母上。浮気をなさっているのなら父上にご報告せねばなりませんが」
一応警告すると、母上は『何を馬鹿なことを言っているのだこの子は』という冷たい目でわたしを見やった。
「たとえ天地がひっくり返ったとしてもわたくしが浮気などするわけがないでしょう。気持ち悪いことを言わないでちょうだい」
……まあ本当に母上が浮気するとは思っていないが。
「では何です、それは?」
いまだ踏んづけられたままのバルタザールを指差して問うと、母ヘルミーネはツンと顎を持ち上げて答えた。
「怠け者へ罰を与えているのよ。バルタザール、お前の役目は何?」
「ぐっ……姫様の護衛です」
「わたくしが帝都を訪れて以来、一度も屋敷へ寄り付こうともせずどこで遊んでいたのか、白状おし」
母上が背に乗せた足に体重をかけると、バルタザールはつぶれた蛙のようなうめき声を上げた。
何だかもう見ていられないな。
母上が父上以外の男性を羽虫程度にしか思ってないのは分かっているが、さすがに居たたまれない。
「母上、どうかその辺りで。バルタザールにはわたしから用を申し付けてあったのです」
「そうです、姫様のご命令でフィールドワーぐぇ」
「お黙り」
先ほどは白状しろと言った癖に今度は黙れと言う理不尽よ。
ひときわ強く踏みつけてから、母上はようやくバルタザールの背中から足をどかした。
「いいこと、エレオノーラ。この男の守護は傍にいてこそ真価を発揮するのよ」
「重々承知しております」
「あなたは強いかもしれないけれど、無敵でも不死身でもない。つい先日襲撃されたという事実もあるのだから、なおさら身の安全を充分に考慮するように」
「はい、母上」
「よろしい」
わたしの返事に満足したように頷く母上。
その足元へ視線を送りながら、わたしは我慢できずに言った。
「母上、汚いものを踏んだ後なのでおみ足を洗ってきてはいかがです?」
「ひ、姫様。それはひどい」
「黙れ、馬鹿者」
いまだうつ伏せに倒れたままのろくでなしが何か言っているが、ぴしゃりと黙らせた。
母上はヒールのついた自らの華奢な靴をちらりと見てから、小さくため息を吐き出した。
「そうするわ」
スカートを翻らせてくるりと踵を返した母上は傍に控えていた者たちへ声をかけた。
「ヘルガ、湯あみの用意を。テオはわたくしの靴を磨いてちょうだい」
領地から連れてきた自分のメイドとテオドールを引き連れてリビングから出て行く母上を見送った後、わたしは大きなため息を吐き出した。
「おい、いつまで寝ているんだ。立て、バルタザール」
「はいはい、姫様」
「はいは一回だ」
バルタザールを立たせたわたしは、これまでずっと母上とのやり取りを見守っていた者たちへ視線を送った。
「大変見苦しいものをお見せしました。伯父上」
母上がバルタザールを虐待している間ごつい手のひらで顔を隠していた伯父上だが、それでも過去のトラウマが蘇ってしまったのか若干顔色が悪い。
「心臓に悪いものを見せんでくれよ、エレオノーラ」
「わたしのせいではありませんよ」
唇を尖らせて反論する。
リビングに行ったらあんな光景が広がっているなんて想像できるわけないだろうに。
そもそも先日の御前会議で母上がこの帝都での用事も終わっただろうから、このまま領地へ戻られてはどうかと促してはみたのだ。
しかし、今のところ母上にその気はないらしい。
母上が家にいると落ち着いてオナニーもできないんだが。
……冗談はともかく、これから帝都は危険になるので本当に領地へ戻って欲しい。
領地への帰路が安全かと問われると、そこは大いに疑問符が付くところであるが。
イェレミアスの手先が母上を狙ってくることは充分に考えられることだからな。
「ブルーノとゴットハルトもいきなり驚かせて申し訳ない。できれば吹聴しないでもらえれば侯爵家としては助かる」
ゴットハルトはとびっきりのチーズを手に入れたねずみのように嬉しげにニヤニヤ笑いながら、『もちろん口外しませんよ』と請け合った。どうも信用できないが、まあいい。
わたしと同じ上級近衛騎士であるブルーノにとっては、先ほどの光景はいささか眉をひそめるようなものだったらしく、慎重に言葉を選んだ末に重々しく口を開いた。
「随分個性的な御母堂だな」
「まあな。だがわたしに比べたら大したことないだろ?」
我が身を削る言葉で母上を庇うわたし。
「……確かにそうだ」
思い当たる節がいっぱいあったのか、ブルーノの声には実感がこもっていた。
ただ我々と同じくリビングで事の成り行きを見守っていたクラリッサは、ブルーノの言葉を主への侮辱と受け取ったらしい。
むすっとした表情になったのをこっそりブリュンヒルデにたしなめられていた。
この日、伯父上たちに我が家に集まってもらったのは今後の活動について話し合いをするためだ。
帝国騎士団の失踪魔族捜索に伯父上は部下と共に参加することになっている。
そこへわたしとブルーノも加わる予定だ。
上手くすればイェレミアスや奴に繋がる者たちを釣り出せるかもしれないからな。
ここしばらく帝都の外でフィールドワークをさせていたバルタザールも戻ってきたし、今後は従士としての役目をしっかり果たしてもらうことにしよう。
ゴットハルトにももちろん協力してもらう。
諜報活動を専門とする彼になら、帝国騎士団では探り出せない事実も詳らかにできるはずだ。
対抗する術が見つかっていないスキルを持つ狂信者が勇者となることを防ぐことができず、ヴァイゼ王国を征服した魔族の脅威は今まで以上に増した。
これから勇者イェレミアスは魔族討滅を目的とした聖騎士団を形成し、聖戦を始めることになるだろう。その結果、ヒューベンタール神聖帝国やその他の周辺国がどれほど血を流し、どれほど疲弊して国力を下げることになるか分からない。
考えられる限り最悪の状況に近いが、それでも投げ出してしまうわけには行かない。
「さっそく始めるか。まず最初にゴットハルト。ティモ司祭について分かったことを教えてくれ」
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いつもこのお話を読んで下さり、ありがとうございます。
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