ただのスケベ
アスビョルン将軍が討ち取られた、という報せが届けられたのは花々が芽吹き始めた春先のことだった。
アスビョルン・ヤーコブソンはストローレ王国軍を率いる将軍の一人で、『西の魔王』の腹心であると伝えられている。
類まれなる剣士として知られ、紅獅子の異名を持つ猛将である。
国境の小競り合い程度に出張ってくるような人物ではないはずだが、ヒューベンタール優勢の状況に危機感を覚えて担ぎ出されたか、前線視察に訪れたところを急襲されたか。
あるいは何らかの詐術により誘い出されたのか。
いずれにせよ大戦果である。
一騎打ちにてこれを討ち取ったとされる騎士イェレミアス・アルムスターには皇帝陛下からの恩賞が与えられる運びとなった。
おそらくは教会の筋書き通りに。
「どぉっせぇい!」
一瞬の隙を突かれて手首と脇の下を取られたわたしの体が、軽々と掬い上げられた。
天地が逆さまになり、背中から地面に叩きつけられる。
視界に散った星を振り払ってすぐさま転がり、膝立ちになって顔を上げたところで動きを止めた。
鼻先に木剣の切っ先。
剣の峰を視線でなぞり、その先にある端正な顔立ちを見据えた。
額や頬から玉の汗を伝い落としながら、荒い呼吸のままカロリーネが勝利宣言をした。
「わたしの勝ちよ」
「……参った」
差し伸べられた手を掴んで立ち上がると、カロリーネは握り拳を作って大仰なガッツポーズをしてみせた。
「よっし! エレオノーラに勝ったわ。きっと今日はいいことあるわね」
「わたしとの勝負を運勢占い扱いしないでくれよ」
尻や背中に付いた砂埃を払い落としながら抗議すると、カロリーネは手元で木剣をくるくる器用に回しながら笑って言った。
「あなたが入ってきて以来、年長の騎士は皆必死なのよ。いくら天才とは言っても17歳の小娘に負けたんじゃ立場がないもの」
「……天才と呼ばれるのは不本意だな。わたしはこれまで人並み以上の努力と研鑽を積んできたつもりなんだが」
騎士を目指すと決めて以来、父ゲラルトやフェルンバッハ家の騎士団長から課せられる訓練では何度死にかけたか分からない。
治癒魔法使いのクラリッサが度を越してわたしに甘いのはこれが原因の一つだ。
あの訓練の日々も真実天才ならばもっと軽々乗り越えられただろうに。
「人並み以上にやって来たのはここにいる皆一緒よ。その上で皆があなたの才能を認めてる」
「認めてもらえるのはありがたい話だと思うが」
「……謙虚ねぇ。ふんぞり返って偉そうにされるよりは百倍ましだけど」
「もしそうしたらどうするんだ?」
好奇心からわたしが訊ねると、カロリーネは肩を竦めて何でもないことのように言った。
「決まってるじゃない。皆で囲んで袋叩きにするのよ」
何それ怖い。
軍隊というのはいざという時上官の命令に命を預ける関係上、上下関係には極めて厳しい。
騎士団というのは軍隊とは少々毛色は違うが、軍事組織である以上根っこの部分では同じなのだろう。
命令に従わない味方は敵よりも厄介だからな……。
「そうならないよう気を付けるよ」
「あなたは皆に好かれてるから大丈夫だと思うけどね。いい感じに面白キャラだし」
「おもしろ……」
カロリーネ・シュトルンツは下級貴族の出だ。
確か男爵家の三女だったと記憶している。
年齢は23歳だったか。
わたしより10cm近く背が高い体格に恵まれた女性で、非常に優秀な騎士だ。
栗色の髪は丁寧に編み込まれてシニヨンにされており、少し気の強そうな顔立ちにはいつも溌溂とした笑顔を浮かべた素晴らしい女性である。
この世界には、というよりヒューベンタール神聖帝国には前世の日本語でいう『先輩・後輩』の同義語がないのだが、心の中では密かにカロリーネ先輩と呼んでいる。
正直、好きだ。
その後しばらく修練場の隅で他愛のない雑談を交わしていると、正午の鐘の音が響き渡った。
「しまったわ。そういえばこの後団長の執務室で会議じゃなかった?」
豊かな胸元に手を添えてカロリーネが少し慌てたように言った。
「13時からだ」
この世界でも一応ゼンマイ式の機械時計が存在する。
前世と同じくこちらの世界も1日が24等分されて運用されているのは、何の偶然だろうか。
しかし時計は貴重品のため、時間を知らせるのはもっぱら鐘楼の役目だ。
「急いで汗を流して食堂に行かなきゃ」
木剣を控えていた従士に渡し、カロリーネがわたしにも急ぐよう促す。
だが、わたしは動き出さなかった。
呆れたような顔をしたカロリーネがこちらを振り返った。
「どうしたのよ。早く行きましょ」
「ああ、いや。カロリーネは先に行ってくれ。わたしは後から水浴びする」
「……エレオノーラ、あなたってばいまだに他人と水浴びするのを恥ずかしがっているの? 女同士なんだから気にすることないのよ」
カロリーネの言葉にわたしは何と言ってよいか困って曖昧な苦笑を浮かべた。
別に恥ずかしいわけではないのだ。
ただ女性の体に魅力を感じる性癖のあるわたしが、そうとは知らない相手と一緒に水浴びをしてその裸を見るような姑息な真似をしたくないだけだ。
役得だと単純に喜べばいいのかもしれないが、わたしにはそういう行為は卑劣に感じる。
正々堂々たる騎士のやることじゃない。
つまりこれは、個人的なモラルの問題なのだ。
というわけで、わたしは近衛騎士団に入ってからも頑なに他の女性騎士とは裸の付き合いという奴をしないようにしている。
最初の頃はそれがお高く留まっているとして、複数の女性騎士と喧嘩になったものだ。
最終的に手加減なしで殴り合った結果、今では皆と仲良くなれたが。
やはり殴り合いは魂のコミュニケーション。
「相変わらず変な子ねぇ。まあいいわ。会議には遅れないのよ。昼食もちゃんと食べなさい」
「分かっている」
軽く手を振ってから小走りに駆けていくカロリーネの鍛え上げられた尻肉をぼんやりと見送りながら、わたしは結い上げていた髪をほどいて腰まで下ろした。
「相変わらずいい尻だなぁ……」
モラル?
知らんな、そんなもの。
今のわたしはただのスケベだ。
「気に入らないわね」
独り言のように呟いたカロリーネの顔へわたしは視線を向けた。
今、わたしたちは来るべき皇帝陛下と狂信者イェレミアスとの謁見に向けて警備計画を話し合っているところだった。
「意見があるなら言え、カロリーネ」
「イェレミアスを皇宮に入れるのはやはり危険すぎるわ。誰と接触し、誰を取り込もうとするか分かったものじゃない。もしも陛下や殿下が洗脳だか魅了だかを受けてしまったら……」
「それを防ぐのが我々の仕事だ」
短くロルフが答える。
「でもどうやって? 貴賓室にずっと閉じ込めておく?」
「確かにな」
ペンを卓上に投げ捨て、わたしは背もたれに体を預けて大きく息を吸った。
直接イェレミアスとやり取りしたわたしの報告やゴットハルト率いる諜報員の調査、さらには母ヘルミーネがもたらした情報などにより、いくつか分かってきたことがある。
まず狂信者イェレミアスのスキルは女性に対して大きな効果を発揮する可能性が高い。
根拠の一つは白羊騎士団内で女性団員のほとんどが熱心なイェレミアスのシンパであること。過去の主義主張など関係なく、彼女らは一様にイェレミアスの反魔族思想に染まり切っている。
また確認できただけでも複数の女性団員がイェレミアスと肉体関係を持ったことがあるのが分かった。
ゴットハルトの部下からの報告では、肉体関係を結ぶことで洗脳ないし魅了を補強する作用があるのではないかとのことだ。
報告を上げた諜報員自身が非常に困惑していたが、関係を持つ前と持った後ではそうとしか考えられないような変化が女性側に表れるらしい。
実際、イェレミアスが関係を持つ女性団員を選ぶ基準は美醜でも能力でもないのだという。調査した限りでは、自らに対する信奉度が低いと判断された女性団員から選んで抱いていると推測されていた。
二つ目の根拠として北西部を中心とした諸侯の動きが挙げられる。
今、北西部国境地帯で起きている魔族との戦いを支援する動きがじわじわと諸侯たちの間で広がりつつある。
国難ゆえこれ自体は別に不自然なことではない。北西部地域の諸侯であれば危機は庭先で起きていることであるし、そのほかの地域の諸侯にとっても無視できるものではない。
ただ、いくつかの諸侯に共通した特徴が見られるのだ。
北西部諸侯の一人で国境の戦いに騎士団と共に多額の資金と資材を投じているアルブレヒト伯爵。
北西部諸侯ではないが義勇軍と称して騎士団を送り込んでいる北部のフレンツェン子爵。
そして戦力提供はしていないものの領地経営が傾くと噂されるほどの資金援助を行っているとされる南部諸侯のリーフェンシュタール伯爵。
これらの諸侯に共通するのは、支援行動に当主の妻の意向が強烈に反映されていると思しき点だ。
そして、これら三諸侯はここ1年ほどの間に狂信者イェレミアス本人、あるいは人物の特定はできていないが教会の使いと称する者と接触した形跡がある。
推測を重ねる形にはなるが、おそらくこれら諸侯の妻たちはイェレミアスによる魅了を受けていると思われる。
実はフェルンバッハと同じく南部諸侯であるリーフェンシュタール伯爵の妻は、我が母ヘルミーネの子ども時代からの親友なのだが、数か月前母宛に彼女から手紙が届いたそうだ。
そこには親友のあなたにだけ打ち明けると前置きされた上でこう記されていた。
『人生で初めて光に触れた』
何のことか意味が分からないかもしれないが、これはヴェルミリオ公国の高名な劇作家ラヴァネッリの代表作『サルヴァトーレの巡礼』の中に出てくる一節からの引用であり、詳細は省くが『生涯を捧げるべき真実の愛を見つけた』というような意味を含んでいる。
リーフェンシュタール伯爵夫人が心から夫を愛していることを以前からよく知っていた母ヘルミーネは、この手紙を読んで大変な衝撃を受けた。
というのも伯爵夫人が記した『光』は明らかに夫である伯爵以外の人物を示していたからだ。
リーフェンシュタール伯爵夫人の唐突な変節に不審を抱いた母上は、父ゲラルトに進言して独自に調査を進めた。
結果分かったことは、いまや北西部を中心として魔族絶滅を目指して魔族国家への積極的な侵攻を唱えるいわゆる聖印派と呼ばれる過激な信仰が野火の如く広まりつつあり、特に複数の貴族女性たちが信仰の熱心な支援者となって裏からこれを支えているという事実であった。
こうしたことからイェレミアスの能力は主に女性に対して優位に作用すると考えられるのだが、かといって男性に効果がないのかといえばそういうわけでもないようだ。
というのも最初に帝国騎士団から国境に送り込まれ、すぐに負傷して戻ってきた騎士はレーダー子爵やイェレミアスの熱烈な信奉者と化しているが、性別は男性だからだ。
他にも白羊騎士団でも一定数の男性団員は他の女性団員と同じような狂信的な言動を見せているという。
女性に対して効きがいいというのは単にスキル行使者の性別の影響か、あるいはイェレミアス自身の女性に対する何らかの想念がそうさせているのか。
いずれにせよあまりにも危険であるため女性近衛騎士は今回の一件から外すことをヴォルフ団長は検討している。
そのせいでカロリーネは今日の会議中ずっと苛立っていた。
だが『せっかくエレオノーラに勝ったのに』などと私に言われても困る。
しかし女性騎士を遠ざけ魅了を防止したとしても、皇宮には他にも数多くの女性が働いていたり暮らしていたりする。
堅守すべきは皇族ご一家だが、取るに足らぬメイド一人であっても魅了されればそこから何が起こるか予測するのは不可能だ。
蟻の巣穴が巨大なダムを決壊させることだってあり得るのだから。
「……やはり殺すしかありません」
「エレオノーラ」
思案の末に出てきたわたしの言葉をヴォルフ団長がたしなめた。
「おや、わたしは黒曜姫殿の意見に賛成ですがね」
諜報員のゴットハルトが皮肉げな笑みを浮かべながら発言した。
ヴォルフ団長によればこの小男は凄腕の暗殺者だという。とてもそうは見えないということが、凄腕との評に真実味を与えている。
わたしとゴットハルトの顔を交互に見比べ、ヴォルフ団長は小さく息を吐き出した。
「……対応を二つに分ける。ロルフとヘンドリックは皇宮の警護を取り仕切れ。ただし女性騎士は任から外すように」
「はっ」
「かしこまりました」
ヴォルフ命令を受けてロルフとヘンドリックが応えを返す。
「カロリーネ。お前も任から外れるんだ」
「何故です、ヴォルフ団長! 危険なのは男だって変わらないはずです!」
「これは決定事項だ。従えぬなら剣を取り上げる」
カロリーネは憤激してテーブルに両手を叩きつけてヴォルフ団長を睨んだ。
だが、その程度で揺らぐような団長ではない。
それはカロリーネだって百も承知だ。
血がにじむほどくちびるを噛み締めていたカロリーネだったが、それ以上何も言うことなく引き下がった。
「団長。わたしも同じですか?」
「いや。お前には別の任務を頼みたい」
「……囮でしょうか」
推測を口にすると、ヴォルフ団長は重々しい表情で頷いた。
「イェレミアスはお前に興味があるらしいからな。奴の注意を引き付けつつゴットハルトと共に奴や教会の周辺を探れ」
「了解」
こういう時に一番異を唱えてきそうなアルフォンス伯父へこっそり視線を送ったが、彼は厳しい表情を浮かべて腕を組むのみで口を開こうとはしなかった。
「カロリーネが抜ける代わりに他の騎士をお前と組ませる。推薦はあるか?」
「ならばブルーノ上級近衛騎士を」
ブルーノは弓術の名手であり、寡黙で信頼できる男だ。
そして、かつてヴァール平原で共に戦い生き残った仲でもある。
「よかろう。言うまでもないが危険な任務だ。イェレミアスの魅了がお前に効かなかった理由はまだよく分かっていないのだからな」
「承知しております」
ヴォルフ団長の言う通り、魅了だか洗脳だかのスキルがわたしに効かなかった理由は不明だ。
どうやらもともと効き目については個体差が大きいようだしな。
内心では、前世で男だった記憶が関係しているのではないかと考えているのだが、まさかそんなことを他人に話せるわけがない。
今さら転生特典などというふざけたものが覚醒したわけではあるまい。
ここがそんなものが存在する生易しい世界ならば、わたしはもっと楽に生きてこられたし、かけがえのない仲間たちを死なせたりもしてこなかった。
「しかるべき大義名分を見出したならば遅疑なく殺せ。わたしが許す」
「仰せのままに」
こうして教会とレーダー子爵、狂信者イェレミアスに対するわたしたちの対応が決定された。
……取り返しのつかない過ちを犯していると気付けぬままに。
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