甲冑の重みに耐えきれなくなる日


 帝都にはわたしの個人的な邸宅がある。

 任務で都の外へ出たり皇宮で寝泊まりする時以外、基本的にわたしはこの邸宅で過ごしていた。

 近衛騎士の中には帝都内にある騎士団の会館で暮らしている者もいれば、わたしのように自宅を所有している者もいる。

 貴族出身の騎士は家人をぞろぞろ連れていたり経済的に余裕があることが多いので大抵は帝都に家を持つ。といっても貴族街区の中心部は爵位持ちの貴族たちの縄張りなので、持ったとしても街区の外れにある比較的安い邸宅のことが多いが。


 後は所帯持ちもそう。

 1年ほど前に同僚のロルフ上級近衛騎士が結婚して家を買った。

 ロルフは2m越えのボディビルダーみたいなガタイをした厳つい男なのだが、アメリアという妖精みたいに可愛らしい年下の金髪娘といつの間にか婚約していて、騎士たちの祝福と怨嗟の声を浴びながらアットホームな結婚式を挙げた。


 当然わたしも出席し、余興代わりにメンデルスゾーンの結婚行進曲をアカペラで披露してやった。

 ただし、あいにく未発達な文明社会に生きる連中の感性には合わなかったらしく、『同僚の幸せを目の当たりにして嫉妬で頭がおかしくなって奇行に走る可哀そうな女』を見る目を向けられた挙句、いたたまれない表情をしたアルフォンス伯父に問答無用で壇上から引き摺り下ろされた。


 芸術の分からん野蛮人どもめ。

 いや……多少音が外れていたことは認めるが。

 

 いずれにせよ結婚したら会館住みの騎士は問答無用で追い出されるので、自前で家を用意しなくてはいけないのだ。

 ロルフの家は貴族街区ではなく、その近くの商人街区にある家だ。

 こじんまりとしてはいるが、若夫婦が暮らすには充分だろう。


 二人きり過ごす日は毎晩しているんだろうなぁ。

 セックス。

 あのガチムチロルフが妖精みたいに可愛らしいアメリアと毎晩……。

 ま、まあ、夫婦が愛し合うのはいいことである。

 別にこれっぽっちも羨ましくなんかないぞ。

 

 ……くっ、殺せ!




 

 いかん、思わず乱心してしまった。

 だが、わたしだって可愛い恋人といちゃらぶセックスしたいのだ。

 でも、恋人いないしな……。

 ちんこもないし。

 男とするのは……何か怖いから嫌だ。


 これ以上考えていたらロルフへの羨ましさで頭がおかしくなりそうだったので、椅子に腰かけたまま書斎机に足を乗せるという淑女ならば絶対にしないだらしない格好をして、皇宮に詰めている間に届いた手紙の束を読み始めた。


 スカートが膝の上までずり上がって脚が露わになっているが、どうせ誰も見ていないんだから構いやしない。

 近衛騎士として皇宮に詰めている間ならともかく、家では常識的な格好をしろとクラリッサが口やかましいから仕方なくドレスを着ているんだ。

 せめて振る舞いくらいは自由にさせてもらう。


 そうして思う存分だらしない格好を堪能しながら手紙を読み始めて数分後、わたしは全力で叫んだ。


「ほぎゃーっ!」


 あまりにも衝撃を受けてエビ反りになったため、椅子が後ろに傾いて背中から床に放り出されてしまった。

 打ち付けた背中の痛みに悶絶していると、部屋の外からバタバタと足音が近づいてきて扉がノックされた。


「姫様、どうされました? 大きな音がしましたが」


 脚を椅子に引っ掛けたまま立ち上がる気力もなく、わたしは扉の外にいるクラリッサに入室を許可した。


「入れ」


「失礼致します……姫様、どこです?」


 わたしの姿が見当たらず困惑した様子のクラリッサが書斎机の裏側に回り込んできて、まくれ上がったスカートから飛び出した片脚を倒れた椅子に乗せたまま床に仰向けになった主を発見して悲鳴を上げた。


「い、いかがなさいました、姫様!? お加減が優れないのですか?」


 うつろな眼差しで天井を見上げていたわたしは、覆いかぶさるように傍に跪いたクラリッサの巨大な胸の向こうにある心配げな表情へ視線を向けた。


「姫様?」


 訝しむクラリッサへ手に握り締めていた手紙と封筒を渡す。


「お手紙ですか? わたくしが読んでもよろしいので?」


 クラリッサは戸惑いながらもまずは差出人を確認するために封筒を検め、開封のために半分に欠けた封蝋に刻まれた指輪印章に気付いて目を丸くした。


「まあ。ご実家からですか。ですがこの手紙と今の姫様の格好に何の関係が?」


 クラリッサは一旦手紙と封筒を脇に置いてわたしを起き上がらせようとしたが、動こうとしないことに呆れて『まったくもう』と零してから、その場に自分も座り込んでわたしに膝枕をしてくれた。

 柔い太ももに乗せたわたしの頭を撫でながら、クラリッサは改めて手紙を読み始めた。


「あら、奥様の字でございますね。お珍しいこと……、姫様」


 控えめな感想を漏らしてから無言でクラリッサは手紙に目を通していたが、しばらくしてわたしの名を呼んだ。

 その声はピンと張り詰めたものだった。


「聞きたくない」


「いいえ、聞いてくださいませ、姫様」


「やだ!」


「駄々っ子のような振る舞いはおやめなさい。お手紙によると、奥様が帝都までいらっしゃるようですね。手紙が書かれたのが十日前ですから、あと数日でお着きになってもおかしくないかと」

 

「んびゃ」


 わたしの喉の奥の方から嗚咽だか何だかよく分からんものが漏れた。


「どこから声をお出しになっているのですか。いずれにせよ姫様。お迎えする準備をせねばなりませんから、寝ている暇などございませんよ。さあさ、起きて下さいな」


「……治癒魔法」


 ぶすくれた声で呟いて、わたしはごろんと体を横に向けた。


「はいはい、どこですか」


「背中を打った」


「ここですか?」


「もうちょっと上だ」


 治癒魔法を発動させた手のひらでわたしの背中を優しく撫でてくれるクラリッサ。


「よしよし。痛くない痛くない」


 じんわりと温かい心地よさが背中に広がる。

 徐々に元気を取り戻してきたわたしは、柔らかい太ももに頬を押し付けながら母上襲来から逃れる算段を考え始めた。


「……クラリッサ」


「はい。元気が出たならいい加減起きて下さいな。お召し物がしわくちゃになってしまいます」


 背中をポンポン叩いて促され、わたしはむくりと起き上がった。

 そう、寝ている暇などないのだ。


「クラリッサ。のっぴきならない用ができたゆえ、わたしはこれからしばらく留守にする。母上の応対はお前に任せた」


「……アルフォンス様のところですか」


 クラリッサは半眼でこちらを見たかと思うとあっという間にわたしの目論見を看破してのけた。

 さすがは幼少期から側付きを任されている女だ。 


「ちが……そうだ。伯父上に匿ってもらう。伯父上はわたしに甘いからな。ちょっとおねだりすれば大体何でも言うことを聞いてくれるんだ」


 母上の兄に当たるアルフォンス伯父はとにかくわたしのことが可愛くて仕方がないのだ。

 表面上は怒ったり怒鳴ったりして、まあ本当に怒っていることも多いのだが、その実は常にわたしのことを心配して気を揉んでいるような人なのだ。

 わたしの顔立ちが母上に似ているため、余計にそういう気持ちを駆り立てられるらしい。


 ただでさえ近衛騎士団の副団長という心労の多いお役目で心と髪の毛をすり減らしているのに。

 まったく、残り少ない髪の毛は大事にしないと駄目ではないか。

 などと言ったら多分容赦なく生尻を剥かれてお尻ペンペンを食らうかもしれないので口には出さないが。

 どうも伯父上はいまだにわたしのことを6歳くらいの少女だと思っている節があるからな。


 さて何と言って伯父上を丸め込むか、とわたしが考えていると、クラリッサが大げさなため息を吐き出してから神妙な顔でわたしに忠告した。


「たとえ心ではそう思っていても、口に出さぬが好い女というものですよ、姫様」


「だが事実だ」


 聖女などと呼ばれているくせに知った風な口を利くクラリッサに短く反論すると、彼女はやれやれという風にかぶりを振ってみせた。


「姫さまにはまだお分かりになりませぬか。ま、それはそれとしてアルフォンス様の元へ行くことはまかりなりません」


 立ち上がったクラリッサとわたしはしばし正面から睨み合った。

 絶対に行かせないぞという気迫を込め、腰に手を当てて仁王立ちするクラリッサ。

 だが、そんな恰好をしても可愛いだけでわたしを止められはせんぞ。


 瞬間的に屈めた膝の力で跳躍したわたしは、壁と天井を蹴って三角飛びの要領でクラリッサの背後にある扉の前に着地し、そのまま部屋の外へ飛び出して走り出した。


「姫様! またそんな人間離れした……、こらぁ、お待ちなさい!」


 ええい、スカートが絡まって走りにくい!

 たっぷりとしたスカートを両手で掴んで脚の付け根までたくし上げ、わたしは厩まで一直線に駆け抜けた。


 厩に飛び込んだわたしは驚く馬たちを尻目にその場でドレスを脱ぎ捨てると、前々から厩の中に隠しておいた乗馬服一式を取り出して素早く着込んだ。

 さらに鞍と手綱を愛馬ジークフリートに装着して騎乗し、そのままの格好で伯父上の邸宅へ向かったのだった。






 この日はアルフォンス伯父も非番だと把握していたので、勝手知ったる邸宅を訪問したわたしは顔見知りの執事に奥へ通してもらい、すんなりと会うことができた。


「で、何の用だ」


 非番だというのに書斎で仕事をしていたらしい伯父上は、精一杯不機嫌そうな表情を装いながら詰問してきた。


「母上が来るので匿って下さい」


「ヘルミーネが?」


 単刀直入なわたしの言葉を聞いて、アルフォンス伯父は少し目を丸くした。


「ゲラルト卿と共にか?」


「いえ、お一人のようです。むろん供はおりますが」


「珍しいな。あの我が儘、いや……うむ」


 母上の性格を描写しようとしたアルフォンス伯父は、とっさに口ごもって居心地悪そうに顎を指で擦った。

 だがわたしも伯父上と同じ感想を抱いていた。

 父上抜きで侯爵領から帝都への不便な馬車旅をしようなど、母上らしからぬ行動に思われた。


「まあそれはよい。それで匿ってくれとはどういうことだ」


「言葉通りの意味ですが。母上が来たら絶対に怒られるので顔を合わせたくありません」


「何か怒られるようなことをしたのか? いや、しとるか」


 伯父上が失礼な断定をかましてきたので、わたしは鼻梁にしわを寄せて不満を表明した。


「してませんが、それでも怒るのが母上です」


「まあな……」


 思い当たる節はいくらでもあるのだろう。

 何しろあの母上の兄なのだ。

 アルフォンス伯父は遠い目で何かに思いを馳せていたかと思うと、はっと我に返って誤魔化しの咳ばらいをし、改めてわたしの顔、というより全身をまじまじと眺めた。


「……」


「……」


 何だろう。

 伯父上なので視線に邪なものは一切ないのだが、こうもまじまじと観察されるとさすがに居心地が悪い。

 隠している間に体が成長してしまったか、若干サイズがきつい乗馬服の皺を意味もなく引っ張って伸ばし、わたしは視線を空中にさ迷わせた。


「エレオノーラよ。お前は昔から何かあるとヘルミーネから逃げ回ってわしやゲラルト卿に助けを求めていたな」


「……そんなこともありましたか」


「懐かしいものだ。しかし、わしのマントの中に隠れるにはいささか大きくなり過ぎたようだ」


 伯父上は限りなく優しい眼差しをわたしに注ぎながら、大きく息を吐き出して少し背を丸めた。

 そうすると、一気に伯父上が年を取ったように思われた。

 一番最初に武器の扱いや騎士の在り方を教えてくれたのはアルフォンス伯父だ。

 幼少期のわたしにとって彼はまさしく理想の騎士、理想の男性そのものだった。

 前世の記憶などというものがなければ、間違いなく初恋の対象だっただろう。

 いや、もしかすると前世の記憶のあるなしに関係なく……。


 しかし、考えてみればヴォルフ団長より年下とはいえ伯父上も50歳を目前にしており、とうに騎士としての最盛期は過ぎている。

 この素晴らしい騎士が甲冑の重みに耐えきれなくなる日は近いのだ。


「可愛い姪の頼みだし、お前がいてくれると我が家も華やぐ。聞いてやりたいのはやまやまなのだが、しかしお前ももう立派な大人だ。つい子ども扱いしてしまうわしが言うのも何だが、少しは改めねばな。今回は大人しく家に帰って、母を出迎えてやりなさい」


 当初の楽観的な予想に反してわたしの願いを拒絶した伯父上は、どうしていいか分からず戸惑っているこちらの様子を見て小さく苦笑すると、卓上に置かれた呼び鈴を鳴らしてから言葉を継いだ。


「何、すぐに追い返そうとは言わんよ。夕餉くらいは一緒に摂ろうじゃないか。妻も喜ぶ」


「……はい、伯父上」


 頷くほかないわたしに近づき、アルフォンス伯父は長年の騎士働きで分厚く節くれ立った手をわたしの頭の上に置いた。


「それとなエレオノーラ。その乗馬服だがとんでもなく馬臭いぞ。厩にでも仕舞い込んでいたのか? 妻の服を貸してやるから夕餉の前に着替えてきなさい」


「……お風呂も」


「用意させよう」


 苦笑を含んだ声で答えた伯父上はわたしの頭をぐりぐりとやんちゃな男の子にするように撫で繰り回してから、部屋にやって来た執事へ指示を伝え始めた。

 背もたれに背を預けて体を沈めたわたしは、伯父上が手荒く撫で回してすっかり乱れてしまった髪の毛に手櫛を通してから、乗馬服の胸元を引っ張り上げて鼻先を寄せた。


 確かにとんでもなく馬臭かった。






――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

姫様の愛馬ジークフリート。

名付け親の姫様はすごく格好いい名前だと思っていますが、他の人たちは何だか平凡な名前だなと思っています。


勇者くんがなかなか出て来なくて申し訳ありません。

やはり過去編が長くなりそうな予感が……。


もうお話のストックがあまりないのですが、なくなり次第毎日更新は終了します。

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