メカタバミ
傘立て
蔓延る
午前中のうちに、リカの遺体は運び出された。庭師たちの仕事は早く、花弁も茎も葉も、欠片すら落ちていない。ついさっきまでそこにいた人間の気配を消し去って、綺麗に整えられたベッドだけが残った。ああ、違う。もうひとつだけ。庭師たちが来る前に大急ぎで収穫した、種だ。芥子粒ほどの大きさの種を五つほど、かき集めて慎重にビニール袋におさめた。今は、スカートのポケットに入っている。
メカタバミという。眼酢漿、目片喰。目傍食とも書くかな。ぶつぶつ言いながら、リカは何種類かの漢字で草の名前を書いて見せてくれた。カタバミと名前はついているが、そのへんの道端とか野っ原に生える本当のカタバミとは別種らしい。ただ、黄色くて小さい花はよく似ている。地面ではなく、目に生える。原因はよく分かっていないそうだ。風にのって飛ばされた種が、瞼の奥に入って芽吹くのだろうと言われている。
それ、咲くの? 不安になって、リカの目尻に顔を出した小さい緑の葉を指さして訊いた。咲くらしいよ。痛くないの? 今は、べつに痛くない。違和感ぐらいかなあ。瞬きするときに、ちょっと当たって邪魔ではあるかな。リカはあまり気にしていないふうにそう言って、目元に手をやった。気にしていないはずはなかった。メカタバミに寄生された人間は、視神経から脳にまで根が蔓延って、近いうちに死んでしまうという話だった。
メカタバミが芽吹いたリカは、私の部屋に引っ越してきた。正確には、転がり込んできた。たいして大きくないトランクに、最低限の着替えと本だけを詰めて。住んでいた部屋を引き払って、家財道具は全部処分したのだと笑った。ほんとは服とかもいらないと思ったんだけどさー、ヒカリに借り続けるわけにもいかないから、ちょっとは持ってきたよ。これで最後まで間に合うと思うから、どこかに置かせてもらえるかな。屈託なく笑うリカが提げた荷物は、四日間ぐらい旅行に行ってくる、という程度の量にしか見えなかった。冬の入り口の頃だった。トランクの中に入っていたのは分厚い長袖ばかりで、夏まで生きるつもりがないことは明白で、私はリカが見ていない隙にボロボロ泣いた。あんなに大量の涙が出たのは、後にも先にもこのときだけだ。その後は、一度も泣いていない。
私の部屋で、リカは静かに過ごしていた。静かに死を待っていた。仕事は、家を引き払うのと同時にやめたそうだ。意外と貯金があって最後まで大丈夫だと思ったのだという。もともとは、休日も返上して働くような仕事で、かなり忙しくしていた。こんなにまとまった休みは初めてだから戸惑うわ、と言いながら、私の部屋の掃除をし、洗濯をし、夕食を作って仕事から帰る私を出迎えた。
はじめのうちはそんなことしなくていい、好きなことをしてくれてかまわない、体調が悪いときは寝ていてほしいと説得したが、リカは聞かなかった。動いているほうが調子がいいし、居候の身で何もしないのは気がひける。何より、自分が作ったものをヒカリが美味しいと言って食べてくれるのが嬉しいから、迷惑でなければ続けさせてほしいと逆に懇願されてしまった。迷惑なわけはなかった。リカが作るものはなんでも美味しかったし、帰る家に灯りがついていて誰かが待ってくれていることは単純に嬉しかった。結局、私はすぐに慣らされてしまった。
リカの眼窩に生えた草は、ゆっくり成長しているように見えた。ちょこんと緑色が見え隠れするだけだったのが、やがて茎が伸びて葉が出て、さらに伸びて枝分かれする。蔓が壁に蔓延るように、肌に沿って成長するらしく、左の目尻からこめかみや頬にかけて広がる枝葉は、繊細な模様のほうで美しかった。何度か、その植物に触らせてもらったことがある。細い茎や小さな葉は柔らかく、普通の植物となんら変わらないように見えた。土に生えていれば可愛いと思っただろう。この植物が、リカの目の奥に根をはって、脳まで伸び、やがて取り殺してしまうと思うと不思議な気分だった。私に草を触らせながら、リカはじっとしていた。言葉のないその時間は、厳かにも愛おしくも感じられた。
目から伸びた枝がいくつもに分岐して、左頬を覆うようになった頃から、リカはしきりに痛がるようになった。目や頭に手をやる回数が増え、頭を抱えてうずくまるようになり、それでもしばらくは何も言わずに耐えていたが、とうとう堪えきれなくなって、痛い、と呻くように漏らした。そこから、転がり落ちた。痛みを訴える声が次第に大きくなり、聞いたこともないような奇声をあげながら、頭をおさえてのたうちまわる。医者から処方された鎮痛剤を貪るように飲み続けても、苦痛はなくならないようだった。見ていられなくなって思わず抱きしめようとしたが、強い力で跳ね飛ばされ、引っ掻かれた。何度かそんなことを繰り返して、リカの爪で私は傷だらけになり、身体中にあざを作って、家中に絶え間なく響く叫び声で眠ることもできなかった。リカの悲鳴は一週間ほど続いたと思う。疲労と絶望で私自身も朦朧とし始めた頃に、突然リカは静かになった。静かになって、まったく動かなくなった。
もう意識はありません。根が脳の広範囲を侵食しています。本人は何も感じていません。今はまだ息をして心臓も動いていますが、これからゆっくり死に向かいます。往診に来た医師がいたわりを込めた声で説明するのを、ぼんやりとした頭で聞いた。もう痛くない、ということだけは理解できて、安心した。リカがつらくないなら、それでいい。気がつけば、外はいちばん寒い季節になっていた。
リカの世話を優先して、仕事を辞めた。一応、そうできるぐらいの貯えはあった。窓の外で雪がちらついていても、リカと一緒にいる部屋は暖かかった。草はどんどん広がり、顔全体を覆ったあとは、首から下にも伸びていった。
細かく絡み合った枝の下で、時折りリカの瞼が開くことがあった。もう意識はないから、おそらく筋肉の痙攣か何かで起こることだったのだと思う。瞼の下から覗く黒い瞳は虚ろで、でもたしかに生きているのだと分かる、綺麗な色をしていた。意識がないことで、余計に透明に透き通るようにも感じた。
冬の朝の硬い光が好きだ。硬く鋭いぶん、余分なものがなくて澄んでいる気がする。リカを寝かせたベッドを窓辺に移動して、朝の光が浴びられるようにした。光が増えて草の成育が早まると、それだけリカの命が尽きるのも早くなるが、暗いところにずっと寝かせておくのもしのびなかったのだ。朝日が昇る頃に起き出して、カーテンを開ける。茜色の光の中のリカは、眠っていても美しかった。その顔や体が、繁茂する緑の枝葉に覆われていても。そのうちに小さな蕾がいくつも出て、次々に花が開いた。小さな黄色い花は、本当にカタバミの花に似ていた。リカの体は一気に華やいだ。
その日の夜明けは、少し暖かかった。もうすぐ冬が終わるのだと思った。いつものようにカーテンを開ける。明るい光は、鋭さが少しやわらいで、私の好きな色ではなくなっていたが、それでも気分は晴れた。
振り返って、ベッドの上のリカを見た。いつもと違ったのは、見下ろしたリカの瞼が、緑の葉の下でゆっくり開くのが見えたことだ。時々あった筋肉の痙攣で起こるものとは異なり、意思をもった動きに見えた。リカはそのままじっとしていたが、消え入るような小さな声で、「ヒカリ」とつぶやいた。それで、終わった。気がつくと瞼は閉じていて、緑の葉の下にずっと感じることのできた鼓動も止まっていた。
死亡確認に来た医師は、庭師が来るから手を触れないように、と言い置いて去った。終わるときは、案外呆気ないものだ。庭師というのが何なのか、いつ来るのかは分からなかったが、手を触れるなという指示を守るつもりはなかった。
リカが死んでも、体に生えた植物は元気なようだった。花もまだ咲いている。横たえた体のすぐそばに、黒い粒が落ちていた。埃かと思って払おうとして、手を近づけたところで、それが種であると気がついた。慌てて周囲を探ってかき集めた。種は、五粒ほど手に入った。
庭師と名乗った男たちは、部屋に入ってくるなりおそるべき素早さでリカの遺体を運び出し、周辺を清めて去った。十五分も滞在だろうか。種が残ると厄介だからこうして自分たちが清掃しているのだと、庭師のひとりに説明された。私は黙って頷いて聞いた。持ち去られるリカの体にに取りすがって泣くぐらいのことをすればよかったのかもしれないということには、庭師たちが去ったあとで気がついた。
まだ話ができた頃に、リカになぜ私のところに来たのかを訊いてみたことがある。天涯孤独というわけでもなく、家族も恋人もいて、友人も多かった彼女が、なぜこの部屋を最後の場所に選んだのか、不思議でならなかったのだ。
リカは、何を言われたのか分からないという顔をしてから、あの黒い瞳で私の目をじっと見て、最後の瞬間に一緒にいたい相手を考えたらヒカリ以外思い浮かばなかった、と淀みなく答えた。そういうやつだった。リカは、誰と一緒にいても、私の姿を見るとほっとした顔で駆け寄ってくるような女だった。みんなに好かれて、誰からも求められていたくせに。だって、ヒカリといることより大事な用事なんてないでしょ。私が少しでも気にするそぶりを見せると、リカはいつもそう言って笑った。そういうところだ。そういうところが、ずっと愛おしくて、ずっと嫌いだった。
ポケットに隠していた種を取り出して、ベランダに出る。外の空気は冷たい。終わりがけとはいえ、まだ冬だ。春の訪れまでには、まだもう少しかかるだろう。
ビニール袋から種をつまみ出した。風にのせて撒いてやるつもりだった。リカを養分にしてできた種だ。狭い部屋で死んだリカのかわりに、外を見せてやろうと思った。だが、手を放す直前に気が変わって、手の中に持ったまま、部屋に戻った。
メカタバミは、人間の目の奥で芽吹く。闇雲にばら撒いても、良い場所に落ちて芽が出る可能性は低い。確実な方法は、ひとつしかなかった。
鏡を覗き、下瞼を指で摘んで、眼球との隙間に種を押し込んだ。半分は残して、失敗した場合に備える。異物を察知して涙が出るのを、涙腺を指でおさえ瞼をかたく閉じて耐えた。しばらく我慢すると、痛みは意外なほどすぐに消えた。
種を取り込んだところで、べつに瞼の裏にリカの顔が浮かぶわけでもない。目を閉じたままの暗い視界の中に、いくつかの光が筋になって散った。リカも、この光景を見たのだろうか。リカが最後に呟いた言葉を思い出した。ヒカリ、というあの言葉は、私の名前を呼んだのだと思ったが、この光のことを言ったのかもしれないし、窓から差し込む朝日のことだったかもしれない。もう本人に訊くこともできない。今はただ、種が芽を出し、私の視神経から脳に向かって根を伸ばして、無事に蔓延ることを願うばかりだ。
メカタバミ 傘立て @kasawotatemasu
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