大丈夫って十回言ってごらん

リウクス

大丈夫、大丈夫、大丈夫……

 小さい頃、隣の家に住んでいたお兄さんによく面倒を見てもらっていた。


 彼に教えてもらったおまじないを、私はよく覚えている。


「大丈夫って十回言ってごらん。きっと大丈夫だと思えるから」


 高校生になった私は、いわゆる高校デビューに失敗して独りきり。

 メガネからコンタクトにしてみたり、スキンケアを始めてみたり、いろいろ努力したのも水の泡。外側だけ着飾っても私の中身は変われなかった。


 そんな大丈夫じゃない私は、学校の帰り道に、ふとお兄さんの言葉を思い出して呟いた。


「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫だいじゅ……」


 ……噛んだ。

 もう一度試したけど、何回やっても噛んでしまう。

 もしかしたら、そもそも大丈夫って十回も連続で言えないから、どうしたって大丈夫だとは思えないんだという皮肉なのかもしれないと思った。

 でも、あの優しかったお兄さんが、幼い私にそんなことを言うかなあ。普通に考えて、今の私が捻くれているだけだよね。

 ああ、こんなだから友達もできないんだろうなあ。

 ポジティブなことを考えようとしていたのに、ネガティブな方向に持っていってしまう。

 そんな自分がまた嫌になる。


 川沿いに続く自転車道を俯きながら歩いて、私は道端の小石を蹴り飛ばした。

 すると——。


「いて」


 転がった小石が河川敷の階段に座っていた人に当たってしまった。見た感じ、若い男の人。

 私は一瞬で血の気が引いて、急いでその人の元に駆け寄った。


「す、すみません! ま、周り見てなくて!」


 忙しなく頭を下げる私に気がつくと、その人は振り向いてこう言った。


「ああ、全然大丈夫だから、気にしないでください……って、あれ?」


 何かに気がついた様子で、彼は私に向かって無遠慮に指を差した。


「奏ちゃん?」

「へ?」


 頭を上げて、よく見ると、私が小石を当ててしまったその人は、あのお兄さんだった。

 さっきまでお兄さんのことを考えていたのに、こんな偶然あるものなんだ。


「久しぶり! 大きくなったね!」


 お兄さんはあの頃と変わらない、タレ目の柔らかい笑顔で、私に優しく語りかける。

 ちょっとだけ、ドキリとした。


「う、うん。久しぶり、です」


 あの頃みたいにタメ口で話していいのか、敬語で話せばいいのかわからなくて、ぎこちなくなってしまう。

 私はとりあえず、ギクシャク動きながら彼の隣に座った。


「制服見るに、高校生かな」

「うん。はい。高校生です……」


 しばらく人とまともに話していなかったのもあって、オウム返しすることしかできない。しっかりしろ、私。

 すると、察してくれたのかお兄さんが言った。


「別に敬語じゃなくてもいいんだよ。昔みたいに生意気な感じでいいよ」


 「生意気」という言葉にムッとして、私は言い返した。


「……別に、生意気じゃなかったよ」

「そうかな? 昔は結構苦労したんだけどな」

「えー」


 「ははっ」とお兄さんが笑う。

 いつのまにか緊張は解けていた。


「いや〜、それにしても本当に大きくなったね。見違えたよ」

「……そうかな」

「うん。すっかりお姉さんって感じ」


 お兄さんはそう言うけれど、声色は小さい子を相手に使うソレな気がして、私はなんだか馬鹿にされているような感じがした。


「全然、お姉さんなんかじゃないよ」

「そう? メガネもかけてないしさ。一瞬分からなかったよ」


 メガネは高校デビューのためにやめた、なんて言うのは恥ずかしいから、軽く相槌を打って私は黙った。

 夕風が吹いて、なびいた髪が私の顔を隠す。

 静けさが気まずくて、お兄さんが今何をしているのか聞こうと思ったけど、なぜだか喉が開かなかった。


「……なんか、元気ない?」


 お兄さんが沈黙を破いて、そう訊ねた。

 何でそんなことも分かっちゃうんだろう。


「……別に、そんなことないよ」


 だけど私はまた強がって、平気なふりをした。


「……そっか。でも、まあ、もしも大丈夫じゃなくなったら、あの言葉を思い出せばいいからね。覚えてる?」

「……大丈夫を十回言えば、ってやつ?」

「そう、それ」

「……無理だよ」

「え?」


 少しイライラしていたんだと思う。私は、お兄さんに八つ当たりするようにして、毒づいた。


「私滑舌良くないし、十回なんて言えないよ。意地悪だよね、お兄さん」


 お兄さんはそれを聞いて、豆鉄砲を食らったような顔をしていた。

 ああ、私は何でまたそんなことを言ってしまうのだろう。


「……奏ちゃん」

「何」

「今から大丈夫って十回言ってみてよ」

「え、今無理って言ったよね。何で」

「何ででもいいから、言ってみなよ」

「やだよ」

「まあまあ」


 お兄さんが「どうぞどうぞ」と仏のように穏やかな顔で促してくる。

 私は仕方なく彼の提案に従ってみることにした。


「はあ…… まあ、いいけど。じゃあ……」


 深呼吸をした。


「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫だいじぃ……」


 やっぱり言い切れなかった。


「ほら、ダメじゃん」


 私はうんざりして、ため息を吐いた。

 そしたら、彼は疑問符を頭に浮かべたような顔で私に言った。


「そんな早口で言おうとしなくてもいいのに」

「へ?」


 ……いやいや、十回連続でっていえば、早口で言うのがセオリーでしょ。と言い返そうと思ったけど、彼があまりにも当たり前みたいな目で見つめてくるから、何も言えなかった。


「早口で言わなくても、ゆっくり言えばいいんだよ。だ・い・じょ・う・ぶって」

「……ズルじゃん」

「ズルじゃないよ。別に、早口で言えなんて、最初から言ってないからね」


 屁理屈じゃん、って言いそうになったけど、それ以上言ったら本当に嫌な人になりそうだったから、やめた。


「だから、ほら。もう一回」


 お兄さんが諭すように語りかける。

 やっぱりまだ私のこと子どもだと思ってるんじゃないかなあ。


「……分かった。じゃあ……」


 私はさっきより長く深呼吸をして、指折り一つずつ数えながら言った。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫」

「お〜、ほら、言えたじゃん」

「言えたけどさ……」


 私はやっぱり腑に落ちなかった。

 やっぱり、こういうのは早口で言うべきなんじゃないかなあ。


「言えたなら、それでいいんだよ」


 お兄さんが私の頭を片手で軽くポンポンと叩く。やっぱり子どもだと思っている。


「そんなに焦らなくたって、ゆっくりでいいんだよ」


 何かを見透かしたように、お兄さんが言う。


「急がなきゃいけないなんて決まりはないんだからさ」

「……でも、早いに越したことはないんじゃないの」

「確かにね……」


 お兄さんは少し思案すると、徐に話し始めた。


「話変わるけど、僕が高校生の頃、不登校だったのは知ってる?」

「え」


 突然の告白に、私は狼狽した。

 全然知らなかった。


「あの頃は、早く学校に戻らなきゃって、早く戻らないとみんなに追いつけなくなるって、焦ってたんだ。だから時間が経つほど怖くなって、余計戻れなくなって。二年生になってようやく学校に通い始めたときも、実際全然ついていけなかったし、友達もいなかったから周りの視線も痛かった」


 明るい顔で暗い話をするお兄さんに戸惑いながらも、私はそれを黙って聞いていた。


「でもね、家に帰ると、たまに奏ちゃんが遊びに来てたでしょ」

「え、あ、うん」


 唐突に自分の名前を出されて驚いた。


「なんかね。奏ちゃんが僕のことをお兄さんって呼んで頼りにしてくれるから、学校で嫌なことがあっても、まあいいかなって思っちゃったんだよね」


 な、何それ。嬉しくないと言えば嘘になるけど……。


「……わ、私がお兄さんを頼りにしていたのと学校のことは何も関係ないじゃん」

「ははっ、今思えばそうかもね。だけど、なんか、それでいいんだっていうか。学校に行くのは大事なことだったけど、学校だけが僕の世界じゃなかったから。とりあえず、あの頃の僕は、学校に縛られて無理に焦る必要もないなって思ってたんだ」


 お兄さんが天を仰いで気持ちよさそうに伸びをする。


「大丈夫だと思えるようになるまで、時間がかかってもいいんだよ。まあ、奏ちゃんには奏ちゃんの事情があるから、僕がとやかく言う筋合いはないと思うけどね」


 百パーセント善意の笑顔で、お兄さんが私を見遣った。


 ……時間をかけてもいい、か。

 本当にそれでいいのかな。

 学校ではもうグループもカーストもできあがっているし、今出遅れたら、私はこれからやっていける自信がない。それに、時間をかけてもその過程で耐えるのが私には辛いんだ。

 だって、私はもう高校生だから。

 高校生は子どもみたいにのんびりしていられないんだ。


「奏ちゃん」

「……何——」


 ——いて。

 お兄さんが私に呼びかけると、振り向きざまに、突然デコピンをした。

 ヒリヒリする。


「な、何するの」

「ははっ、その顔その顔」


 何なんだ一体。


「突然何」

「いや、なんか奏ちゃんなのに難しい顔してるなと思って」

「私なのにって何」

「あーごめんごめん。でも、僕の中では奏ちゃんってもっと生意気で、勝ち気な印象があったから」

「……今は違うよ。だって私、もう大人だもん」

「大人? ははっ、それは違うでしょ」

「む。お兄さんだって、さっき会ったときに『すっかりお姉さんみたい』って言ってたじゃん」

「確かに言ったけど、大人とは言ってないよ」

「何それ、屁理屈じゃん」

「そうだね、そうかも」

「何それ」

「ははっ」

「ふふっ」


 いつのまにか笑みが溢れていた。

 子どもの頃もこんなふうに笑っていたっけな。


「……そういえば、お兄さんは今何してるの」

「僕? 僕は真っ当に会社員やってるよ」

「え、今平日の四時だけど」

「今時はフレックスタイムっていうのがあってね、早く働けば早く帰れるんだよ」

「ふーん?」

「ま、僕は仕事抜け出してサボってるだけだけど」

「ダメじゃん」

「ははっ」

「ははじゃないよ。早く仕事戻りなよ」

「まあまあ」

「もう」


 私はどうしてこんなお兄さんに憧れていたんだろうな、まったく。

 でも、こんなお兄さんだったから、なんだか安心して頼れたのかもしれない。


「じゃ、仰せのままに、僕は仕事に戻るとするよ」

「そうしなよ。サボった分はちゃんと申請とかしてね」

「奏ちゃんは厳しいなあ」


 寝ぼけたことを言いながら、お兄さんは立ち上がるとズボンについた雑草を払い、「じゃあ、また」と背中を向けてゆっくり歩き去って行った。

 その姿を見つめていると、なんだか自分が凄くちっぽけな存在に思えて、それが不思議とホッとした。


 その後、私は家に帰り、まずお風呂に入って、それからコンタクトを外してメガネをかけると、鏡に映った自分の姿を見て、あることに気がついた。


「そっか、子どもなのか、私」


 メガネ姿の私は、なんだか昔の自分とそう変わっていないような気がして、案外自分は大人になっていないんだと、そう感じたのだった。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫……」


 ゆっくりと呟いてみる。

 子どもなら、これだけゆっくりでも大丈夫なのかな。時間をかけちゃってもいいのかな。

 正直、外に出たらまた焦ってしまうような気がするけど、少なくとも家にいる間は、これくらいのんびりしてみてもいいのかもしれない。お兄さんが言ったみたいに、私の世界は学校だけじゃないから。

 私がしばらく鏡を見つめていると、リビングからお母さんの声がした。


「奏〜、夜ごはん〜」


 そういえば、ちょっといい匂いがしていた気がする。


「は〜い」


 私は気の緩んだ返事をすると、ゆっくりとドライヤーを片付けて、お腹を空かせながらリビングに向かうのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大丈夫って十回言ってごらん リウクス @PoteRiukusu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ