第25話 2月のとある日のこと

 バレバレこと正式タイトル『バレット・バートレット』。真逆の性格のJKコンビが街に巣食う悪を人知れず倒す、スパイガンアクションのオリジナルアニメ。ほどよく百合あり、アクションあり、コメディありで、去年なかなか好評を博した。制服風のミリタリーウェアもコスプレ界では人気が高い。

 その作品の主人公で破天荒な美少女・火野ミサトをミドリさんとやらがコスプレし、クールな相棒キャラ・水原アイナを犬井さんがコスプレしている。

 アイナは紺のブレザーにグレーのプリーツスカート、そして肩甲骨まである黒髪ロングが特徴。そして今、犬井さんは完璧にアイナの特徴を再現していた。メイクの力もあって、本当にキャラを現実に描き起こしたように。


「……雨見さん、やっぱり若葉さんと付き合って……」


 犬井さんは目をぎょろりと見開いて、俺と先輩を見比べる。


「いやこれは」


「ただ手伝ってもらってるだけで! 今回に関してはほんと、違うから!」


 若葉先輩が手をかざす。


「で、でもユノハさんの画像を見せた時、雨見さん知らない風でしたけど……」

「えと、それはですね」

「そんなことあったの!? だとしたらあたしのせいだ!」


 先輩はかくがくしかじか、コスプレについて秘密にしてきたこと、そして俺を手伝いに誘った経緯を話した。


「なるほど……」


 その様子に犬井さんも信じてくれたようで、ひそめた眉を解く。

 と、唐突に、


「あー!! すみません!」


 叫んだ。小刻みに両拳を縦に振る。唐突な動きに、ミドリさんまでもが「な、なに? どしたの?」と呆気に取られていた。


「え、なんで謝罪なんか」

「出過ぎた真似だと思いまして。別に雨見さんが誰と付き合ってても、私には何も言う権利はないはずなのに、責めた目でおふたりのことを見ました。でもそれは失礼ですよね!」


 ハァ、と俺は息にも言葉にもならぬ声を出し。


「……まじめ! まじめですね!」


 返すと、そばにいた先輩が急に俺に呆れた目つきを向けた。


「和明くんに影響受けたからでしょ、明らかに」

「そ、そうですか」


 その言葉に「そうですよ」と犬井さんは微笑んだ。

 ――あれ。紺のトップスに、グレーのスカートに、黒髪のロング。池袋サンシャイン。

 もしかして、犬井さんって。


「……今年の2月の〈ノンブル〉で泣いてた人!?」


 思わず指を差してしまった。


「――……」


 犬井さんは無言のまま、口角を上げながらゆっくり頷く。


「……はい。あの時泣きべそをかいていたのは、私です。そこに手を伸ばしてくれたのが――雨見さんです」



「ちょっとふたりきりにした方がいいみたいだね」

「そっすね! 面白くなりそ、いえ、積もる話がありそうですし」


 先輩とミドリさんは会場を回りに行った。背中を見届け、空いたベンチに犬井さんと座る。


「……2月、もう私は限界でした」


 記憶の答え合わせ。

 2月中旬、池袋サンシャインシティのフロアを貸し切って印刷機の企業展示会〈ノンブル〉が開催されていた。俺はそこで、最新の印刷機や関連ソフトウェアを物色するのを毎年のルーチンにしていた。と言っても、単なる息抜きを兼ねたいわゆる合法サボりだ。

 今年もひと通り見て、池袋だしこのまま直帰しようと考えていたところ、どこからか女性のすすり泣く声が聞こえた。見れば、紺のコートにグレースーツの出で立ちの女性が、出入口に片隅で涙を拭っていた。ロングヘアに隠れてはいたが、涙がとめどなくあふれていることは傍から見ても明らかだった。


「……2月の初めに印刷広告の班に回されて。そこの上司が『まずは印刷メーカーの人間に名刺配ってこい。ちょうどイベントがあるから』って、無理やり行かされたんです。でも、もう心も体も限界で……なんでこんなことしてるんだろうって思ったら涙が止まらなくて」


 俺はそんな彼女を、無視しようとした。ハッキリ言って、面倒くさい。

 けれど。そこで無視すると、大きな後悔をする気がした。面倒と後悔なら、前者を選びたい。


「その時『大丈夫ですか』って、雨見さんが声を掛けてくれました。ティッシュまで渡してくれて。寒くて凍えそうだったのが、じんわり温かくなって――」


 ありがとうございます、と、彼女は微笑んだ。健気で、すぐに消えそうな、儚い笑顔。

 問題はその直後だった。


『――なんだ、あいつ。泣かしてんのか?』

『けんか? 運営か何かに報告した方がいいんじゃないのか』


 陰口が聞こえ、振り向けば俺を突き刺す視線。手は差し伸べないくせに、白い目だけはするヤツらなど無視すればいいと今となっては思うのだが、当時の俺はパニックを起こしてしまった。


「え、えと、あ、怪しいものではありません! 株式会社アサマグラフィック出力部の雨見と申します!」


 何を思ったか、いや何も思ってはおらず反射的に名刺を配った。周りの傍観者たちは「はぁ……」と引きつった顔で名刺を受け取った。


「あ、雨見と申します!」


 そして、涙を拭ったばかりの彼女にも名刺を差し出した。

 すると。


「くすっ、あははは!」


 弾けるように、彼女は笑った。屈託なく、無邪気に、口を手で覆って。


「雨見さんとおっしゃるんですね! 助かりました。もう平気です」

「は、はい、よかったです」

「私は、コスモス――」

「それでは、失礼します!」


 それきり、彼女の名乗りも名刺も突っぱねて、その場を後にした。

 そう、だから忘れていたのだ。悪いことなどしていない、堂々としていればいいものを、明後日の方向の言動をしてしまった。それが恥ずかしくて仕方なくて。思い出したくない出来事と判定して、心の奥底に頑張って沈めていた。


「大の大人がさめざめと泣いていた醜態が恥ずかしくて……私も言い出せずにいたんです」


 耳にかかったウィッグをかき上げ、犬井さんは苦笑した。


「でも、こうやって話してみたら、スッキリしました」


 ふと、犬井さんは立ち上がった。俺の目の前に立つ。


「雨見さん。あの時、雨見さんが声を掛けてくださらなかったら……私は冗談ではなく、自殺していたかもしれません。だから、今一度、お礼を言わせてください」


 しっかりと静かに腰を曲げて、頭を下げた。


「ありがとうございました」

「あの……俺は本当に大したことしてないというか」


 頭が重くなって、項垂れてしまった。何て返せばいいか、わからない。救ったのは事実なのだろう。けれど。


「だって俺も、一度は帰ろうとした男で――」

「でも、助けれくれた」

「それは……」


「雨見さん、可愛いですか? 今の私」


 顔を上げると、軽やかな足取りで、彼女はまた隣に座った。


「――可愛いです。すごく。本心からそう思います」

「よかった」


 少し頬を赤らめて、犬井さんは笑った。


「その私がいるのは雨見さんのおかげです。雨見さんが何と言おうと、それだけは変わりませんから」


 屈託なく、無邪気に笑う。この池袋で。



 しばらくしてミドリさんと先輩が戻ってきたが、ミドリさんはまたあいさつ回りに出ていった。気付けば日も落ちてきた頃。


「――じゃあ、撮りますよ」

 人気も少なくなった会場の片隅で、俺は先輩と犬井さんのツーショットを撮っていた。最後のコスプレになるかもしれない若葉先輩と、最初のコスプレの犬井さんが並ぶ。作品はバラバラなのに、絵になる1枚。


「……じゃあ、犬井さんと雨見くんで撮ろうか? もうあたしは撮ってあるから」

「いえ俺は」

「ここで断る選択肢はないよ」

「だったら、せっかくなんで3人で撮りましょうよ! 雨見さんを真ん中にして」

「いいね! そうしよう!」


 ガールズトークの決定事項を、俺が覆せるはずもなく。


「あ、すみません、シャッターだけ押してもらってもいいですか?」


 犬井さんは、遠目に俺たちの方を見ていた黒いキャスケットを被った女性に声を掛けた。淡い紫のワンピースにデニムジャケットを着た彼女はぎこちなく頷く。


「は、はぁ……構いませんけど」


 ……もしかして、この声。

 黒いキャスケット、切れ長の目、少し低めの包容力のある声。


「星浦!?」


 俺が前に出ると、さっと顔を逸らす女性。その動きが何よりの証拠。トークショーそのままの格好で、コンタクトモードの星浦がいた。

 ならば俺がまずすべきことは。


「星浦、ごめん! 公開日のことすっかり忘れてた! でも必ず観に行くから!」


 しっかりと頭を下げる。自分から言っておいて、このザマであることを。


「やめてよ」

「いやほんとに」

「……あきらめきれないじゃん。35になってこんな思いさせないでよ」


 頭の上から聞こえるのは、少し濡れた声だった。


「ねぇ」


 背後からは先輩の声。


「和明くんの知り合いに声優いるって聞いてたけど、星浦って……星浦あゆみさん!?」


 そして、一陣の冷たい風が吹き抜けた。

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