第21話 37歳の決断
若葉先輩と知り合ったのは、校正請負会社を辞めた直後だった。コミケの後、オタク趣味で意気投合した元同僚の日下部さん――とはいえ、12歳も上なのだが――の紹介で、顔を合わせた。日下部さんはカメコ活動もしていて、知り合いのコスプレイヤーという話だった。
「え、年上だったんですか!?」
初対面にも関わらず失礼なことを言ってしまった。どう見ても20代で、年下だと思い込んでしまっていたのだ。先輩は「ありがとー」と調子よく笑ってくれた。
「今仕事探してるの? だったらウチ来なよー」
自身の勤めるアサマグラフィクという印刷会社が、デジタルに強い内勤を探しているとのこと。営業ではなく、コツコツ地道な作業が求められる――ならば、ウダウダ無職に甘んじていても仕方がない、受けてみるか! と一念発起し、ハロワから申し込んだ。出版関係の経験があり、当時はまだギリギリ20代だったから程度の理由だが、採用された。入社後に、日下部さんの事実婚の妻が上司の宇野さんであることを知った。
「こんな誤字、よく気付いたねぇ。日下部さんの言ってたよりずっと優秀じゃーん」
若葉先輩と組むことになり、いきなり褒められた俺。良い気になって、次の案件で大ポカをやらかし、3000枚も廃棄する事態に。こちらのミスだから先方からの増額は当然ない。
「ドンマイドンマイ。コレも勉強だから」
からから笑う先輩に、心臓が解凍される心地がした。
そして、コスプレのことは、2人の秘密となった。
「コスプレタレントとか出てくる時代になったけどさ、あたしたちの若い頃はまだコスプレって変な目で見られてたじゃん? だから内緒にしといてね」
「もちろんです!」
社内で先輩のコスプレ趣味を知る人は、俺のほかは宇野さんだけ。年2回、コミケの時だけ日下部さんと会いに行くのがお決まりになった。
コスプレイヤーの先輩は、まるで職人。キャラがそのまま現実にいるようだとよく誉め言葉で言うけれど、それとはまた違った。自分をキャンパスにしてキャラの愛情を表現する。それを全身で楽しんでいるようだった。
今年の池袋コスプレフェス。先輩の友人が出産で手伝えないため、俺にお鉢が回ってきた次第。なのに。
「あたしもう37歳だよ? もう潮時。イタイじゃん。親子でコスプレしてる人もいるけど、あたしはひとりだし」
先輩はメイクを落として、素の顔でお茶をすすった。「和明くんならいいよね」と断って。
「コスプレ自体は楽しいんだよ、すごく。でも、やっぱり寄る年波には勝てないよ。化粧ノリも悪くなってくるし、皺も目立ってくるし、今までのクオリティを保つだけですごく大変で」
「お世辞じゃなく、先輩すごく若く見えますよ」
「ありがと。でもね……1万円の化粧水使ってるからだよ、それは」
「い、1万!? 化粧水で!?」
「そうなるでしょ、呆れちゃうでしょ。あたしめちゃくちゃ美容代使ってるんだよ。家電とかサプリとかもね。だから、あんまり貯金もないの」
ふぅと目を細めて、先輩は鼻から息を吐いた。
「このままコスプレ続けて、何か残るかなって」
「だからって別に辞めること……。大体、趣味なんですから、自由にやればいいじゃないですか」
「おっしゃるとおり。でもあたしの面倒くさいところは、コスプレするからには多くの人に見てもらいたいとも思っちゃうことなんだ。承認欲求は、いくつになっても持っちゃうものなんだね。……で、美少女キャラのコスプレしてイベントに出て、『あのおばさん、若者に混じってなに似合わないコスプレしてんだろ』ってもし言われたら、思われたらって考えると……」
星浦の気持ちが、ほんの少しわかった。
『バーカ! 起きてもねえこと心配してんじゃねえよ!』――今の若葉先輩は考えすぎて、はるか遠くのことまで悩んでいる。
不意に、先輩が顔を崩した。
「なんか、ごめんね暗くなっちゃって。にしむー推すのはやめないし、レイヤー仲間の手伝いとかもしていくつもりだし、ちょっと変わるだけだから。そんな大げさなことじゃなくて」
ただ、星浦は星浦で、俺は俺で。先輩にきっぱりと言うことはできない。
本人が決めたのなら良いじゃないか。そもそも他人が口を挟むことでもない。
「……とりあえず、今回は出てみませんか。やめるかどうかはその後、考えましょう」
それでも、だ。
「イタイかもしれません。おばさんの若作りなのかもしれません。でも、少なくとも僕は見たいです。先輩のイキイキしてる姿」
「……和明くん」
「逆に見たくないです。無理して笑ってる、楽しくなさそうな今の顔の先輩は」
「……そんな顔してた?」
「先輩にも幸せになってほしいって言ったじゃないですか。先輩の幸せがなんなのかは、正直わかりません。でも少なくとも、コスプレを今やめることは、幸せではないと俺は思います」
先輩は大きな瞳をさらに見開いて、俺を見た。
「……あと、もうひとつ」
「なに?」
「もうひとつ、先輩にコスプレをしてほしい理由があります。詳しくは言えないんですけど、俺の友人……みたいな人のために」
そう告げると、先輩は「なにそれ」とくすっとまた顔を崩す。けれど今度は、小動物のように愛らしかった。
「でも……うん、わかった。正直に言ってくれてありがとう」
それは会社でよく見る、朗らかな先輩の顔だった。
「今はあたしより和明くんの方が、冬野若葉を見れてるから。信じてみる」
先輩は正座すると、頭を下げた。
「池フェス、よろしくお願いします」
「こちらこそ、頑張ります」
俺も頭を下げて返す。
「……君は君が思ってる以上に、誰かを幸せにする人だよ」
呟くようなその声を、耳だけで受け取った。
顔を上げると、それで、と継ぐ先輩。
「池フェスの後のことはその時考える。だから池フェスまでは全力でいくからね」
気迫のこもった視線に、俺の背筋が伸びる。
「あたしも決めたから。自分の人生をにしむーと同じくらい大切にするって」
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