第24話 エール

 伊崎高校の応援席では重苦しい空気が流れる。一気に七点差をつけられて、絶望の色が滲んでいた。


 この展開は、八年前と全く一緒だ。


 このあと伊崎高校はさらに追加点を奪われ、圧倒的な得点差をつけられて敗北する。過去と同じ展開になりかけていることにもどかしさを感じた。


 ふと、日和に視線を向けてみる。日和は唇を噛み締めながら、祈るように両手を合わせていた。


 俺なんかより、日和の方がずっと悔しいだろう。


 日和はこの夏、野球部の連中をずっと見てきた。甲子園という大舞台に立つために、炎天下で汗まみれになりながら練習する姿を間近で見て来たんだ。


 野球部の頑張りを知っているからこそ、あと一歩のところで夢が潰えるのはさぞかし悔しいだろう。日和の悔しさを想像すると、胸が張り裂けそうになった。


 だけど一番悔しい思いをしているのは、透矢だ。


 マウンドで強大な敵と対峙する透矢を見る。マウンドに立つ透矢は、何を思っているのだろう?


 徳英高校の強力な打線に怯えているのか?

 思い通りに動かない自分の右腕を呪っているか?

 伊崎高校の期待を一人で背負っている重圧感に押しつぶされそうになっているのか?


 なあ、透矢。お前はこんな所でへこたれる奴だったか?

 いつもみたいにヘラヘラ笑って見せろよ。


 俺の期待とは裏腹に、透矢はまたしてもストライクゾーンから大きく離れた場所にボールを放った。


 もう、見ていられない。ボロボロになる透矢を見ていられなくなり、俺は応援席から離れようとした。


 そういえば、過去の俺もそうだった。苦しい試合展開を見ていられず、一人球場を後にしたんだ。


 自分の行動ですら、過去と同じパターンになるなんて、皮肉な話だ。どうやら過去というものは、そう簡単に変えられるものではないらしい。


 諦めて球場の外に出ようとした時、隣に座っていた朝陽に手を掴まれた。


「パパも私と同じ気持ちだったんだね」


 なぜか誇らしげに笑う朝陽。

 どういうことだ、と尋ねようとした瞬間、思いっきり腕を引っ張られた。


「ちょうどいいや、ついでにママも連れて行こう!」


 弾んだ声でそう呟くと、朝陽は俺の手を引っ張りながら、日和のもとへ走っていった。


「おい! なにやってんだよ!」


 そう叫ぶと、朝陽は前を向いたまま答えた。


「なにって、透矢さんを応援しに行くんでしょ?」

「は? 何だよそれ? 意味わかんね」


 俺の抗議をものともせず、朝陽は走る。そのまま日和のもとに辿り着くと、今度は日和の腕を掴んだ。


「日和さん! 透矢さんを応援しましょう!」

「え? 朝陽ちゃん何を言って……」


 日和の言葉を最後まで聞くことなく、朝陽は走り出した。


 朝陽は応援席の階段を猛スピードで下る。日和は手を引かれるままに、前へ前へと連れていかれた。俺も二人の後を追って、階段を駆け下りた。


 朝陽は応援席の最前列まで辿り着くと、金網にへばりついた。そして大きく息を吸い込んだ。


「透矢さん! 頑張ってえええーー!」


 朝陽は叫んだ。周囲の観客が朝陽を凝視する。しかし朝陽は、視線など気にも留めていなかった。


 朝陽は声援を送り続ける。


「まだ諦めるのは早いよ! 透矢さんならやれるって!」


 力の限り叫ぶ朝陽。その光景に、俺も日和も呆然としていると、朝陽に思いっきり腕を引っ張られた。


「ほら! 二人も応援して!」


 その言葉とともに、二人揃って最前列に押し出された。


 突然の出来事に、俺と日和は顔を見合わせる。

 応援ってまさか、ここで叫べということか?

 そんなの、めちゃくちゃだろう。もっと常識的な方法はなかったのか?


 文句は星の数ほどある。日和だってそうだろう。だけど先に腹をくくったのは日和だった。日和は大きく息を吸い込んだ。


「大丈夫だよおおーー! 透矢は一人じゃないからあああーー!」


 顔を真っ赤にしながら叫ぶ日和。こんなにも大声を出す日和は初めて見た。


 驚いているのは俺だけではなかった。マウントに立ち尽くす透矢は、口を開けて固まっていた。


「ほら、パパも早く!」


 唖然としていると、再び朝陽に促された。


 こんな大勢の前で叫べってか?

 冗談じゃない!

 俺はそんな熱血キャラじゃないんだ。

 青春とか友情とか、そういう暑苦しい要素とは無縁の世界で生きてきたんだ。


 だけど……。


 金網にへばりつきながら、声援を送る日和を見る。こいつだって、恥ずかしさを忍んで叫んだんだ。燃え上がりそうなほどに顔が赤くなっているのが、その証拠だ。


 それに、ここで透矢が負ければ、未来は変わらない。八年後の夏に、日和は交通事故で死ぬことになる。


 だけど、透矢がここで踏ん張れば、未来は変わるかもしれない。


 動き出すのは、今しかない。

 俺は覚悟を決めて、大きく息を吸い込んだ。


「透矢! 諦めんなああーー!」


 周りの視線を集めながら叫ぶ。俺は恥を忍んで、叫び続けた。


「点を取られたら取り返せばいい! お前ならできるだろう!」


 透矢の澄んだ瞳が、俺を凝視する。マウンドと応援席は距離が離れているはずなのに、すぐ目の前で説得しているような感覚になった。


 透矢は何度か呼吸を繰り返した後、俺の瞳を見つめながらゆっくりと頷いた。その瞳からは、強い意志が伝わってきた。


 透矢は再び打者と向き合う。

 大きく振りかぶり、投げる。

 球は勢いよく、キャッチャーのミットに収まった。


 ストライク。透矢はいつもの投球を取り戻した。


 伊崎高校の応援席から安堵の溜息が漏れる。その回は、何とかアウトを三つ取り、徳英高校の打線を切った。


 奇跡はそれだけではなかった。七回の表に、流れが大きく変わった。


 ツーアウト、ランナーなし。望みが薄い中で、透矢がバッターボックスに向かった。


 透矢はバッターボックスに入る直前、応援席に向かって拳を突き上げた。それはまるで、これから挽回してやると宣言しているようだった。


 伊崎高校の応援席では、吹奏楽部の力強い演奏が流れる。その音色は、これから戦場に向かう兵士に激励を送っているようだった。


 徳英高校のピッチャーと睨み合う透矢。球が放たれた直後、透矢の力強いスイングが剛速球を捉えた。


 盛大な金属音とともに、球は二遊間をすり抜けていく。打球は鋭い矢のように、外野へ放たれた。


 透矢は走る。走って、走って、二塁まで到達した。

 伊崎高校の応援席に歓声が沸き上がった。


 絶体絶命の窮地。その流れを変えたのは、透矢だった。


 この展開は、過去には起こりえなかった。明らかに過去が変わっている。俺は全身に鳥肌が立った。


 透矢の勢いに続くように、次の打者もヒットを叩き出した。ランナーは一塁、三塁。伊崎高校は得点のチャンスを迎えていた。


 次の打者は、伊崎高校野球部のキャプテンだ。ここで決めれば挽回のチャンスが生まれる。誰もがキャプテンのヒットを期待していた。


 観客たちの期待に応えるように、キャプテンは力強くスイングする。

 カキンと小気味いい音とともに、白い球は夏空に向かって一直線に放たれた。


 ホームランだった。


 七回の表、伊崎高校は奇跡の三得点を入れた。伊崎高校の応援席は活気を取り戻した。


 七回の裏は、透矢の奮闘により無得点のまま終了。

 その後の八回では、ジリジリと攻防戦を続けながらも、お互い得点を許さなかった。


 そして迎えた九回の表。ここで追加点が入れば逆転できる。伊崎高校の応援席では、誰もが奇跡を望んでいた。


 応援席の熱気を感じ取ったのか、一人目の打者は強気にスイングする。バッドは球を捉え、ヒットを飛ばした。


 ノーアウト、ランナー一塁。好調な滑り出しだ。


 勢いに乗ろうとした二人目の打者は球を打ち返すも、ショートゴロからのアウト。しかし、ランナーは二塁に進んでいた。


 まだチャンスはある。誰もがランナーの帰還を望んでいた。


 続く三人目の打者は、ファールで何度か粘ったが、結局三振に終わった。


 ツーアウト、ランナー二塁。

 伊崎高校は危機的状況に追い込まれていた。続く打者に降りかかるプレッシャーは、相当なものだっただろう。


 四人目の打者が、バッターボックスに入る。ピッチャーが低めの球を投げた瞬間、力強いスイングをし、球はレフト側へ大きく打ち上がった。


 徳英高校の野手がミットを構える。

 取り損ねてくれ。ゆっくりと地上に落ちる球に願いを込めた。


 そんな願いも虚しく、打球は野手のミットにすっぽりと収まった。


 試合終了。徳英高校の応援席から歓声が沸き上がった。


 伊崎高校の敗北。甲子園出場の夢は、叶わなかった。


 球場には、徳英高校の校歌が流れる。徳英高校のメンバー達は、肩を抱き合いながらベンチに戻っていった。


 高校球児たちの夏の一コマを、俺は脱力しながら眺めていた。

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