第22話 夢中になれるもの
ひまわり畑を一周した後、俺達はレジャーシートを広げ、昼食をとることにした。日和はバスケットからお手製の弁当を取り出し、レジャーシートに並べた。
梅紫蘇おむすびにから揚げ、玉子焼き。夏場に持ち運ぶことを想定した、日和らしいチョイスだった。日和の弁当を前にして、朝陽は目を輝かせる。
「どれも美味しそう! いただきます!」
「どうぞ、お口に合えばいいけど」
朝陽はおむすびを頬張る。そして、から揚げと玉子焼きにも箸を伸ばした。
「うまっ! 日和さんってお料理上手なんですね! あ、玉子焼きは、砂糖多めの甘口なんだ! めっちゃ私好みです!」
朝陽はもぐもぐと口を動かしながら、嬉々として感想を伝える。その反応を見て、日和は安心したように微笑んだ。
「気に入ってくれて良かった! 麦茶もあるよ」
日和は水筒のカップに麦茶を注き、朝陽に振舞った。朝陽はコップを受け取ると、一気に飲み干した。
「ああ! この一杯のために生きてるんだぁ、私は!」
「おっさんかよ」
カップを握りしめて感動に浸る朝陽に、突っ込みを入れる。そんな俺達のやりとりを見て、日和はクスクスと笑っていた。
「ほら、圭ちゃんも召し上がれ」
日和に進められて、俺もおむすびに手を伸ばす。一口齧ると、梅の酸味が口いっぱいに広がった。暑くて食欲が失せた状態でも、このおむすびなら食べられそうだ。
「どうかな?」
日和は不安そうな表情を浮かべながら、俺の顔を覗き込む。俺はおむすびを飲み込んでから、感想を伝えた。
「ああ、うまいよ」
「良かったぁ」
日和は安心したように頬を緩めた。
すると朝陽は、から揚げに手を伸ばしながら笑った。
「これが、お袋の味なのかなぁ」
その言葉に深い意味はないのだろう。朝陽にとっては、その場のノリだったのかもしれない。だけど俺の胸には、朝陽の言葉がちくりと刺さった。
朝陽はお袋の味を知らない。いや、いま初めて知ったんだ。
あの日、日和が交通事故に遭わなければ、家族三人で食卓を囲み、笑い合っていたのかもしれない。そう考えると、やるせない気分になった。
何も知らない日和は、謙遜しながら笑った。
「お袋の味なんて、大袈裟だよ!」
「そんなことないですよ! あ、そうだ! あとで作り方を教えてください!」
「もちろん。簡単だからすぐにできるよ!」
「やった! 約束ですよ!」
和やかに笑い合う二人。だけど俺だけは笑えなかった。重々しい罪悪感が、胸の内を支配した。
*
昼食を終えてから、俺はもう一度、丘の上からひまわり畑を見渡した。
金色に輝くひまわりと空の青さに圧倒されていると、いつの間にか日和が隣に来ていた。
「どう? 小説の続き、書けそう?」
俺の顔を覗き込みながら、小説の進捗を気にする日和。
そういえば、取材のためにこの場所に来たんだった。すっかり目的を見失っていたが、不自然に思われないように頷いた。
「ああ、おかげさまで。わざわざ付き合わせて悪かったな」
「ううん、いいの。私も楽しかったし!」
日和はふわりと笑っていた。
こんな暑い中連れまわされたのだから、文句の一つでも言っていいはずなのに、日和は終始楽しそうに笑っていた。
それは無理して明るく振舞っているわけではなく、心から楽しんでいるように見えた。
日和は普通の人間よりも純粋なのだろう。だから俺のしょうもない用事にも、付き合ってくれたのかもしれない。
それは今回の取材に限った話ではない。日和はずっと、俺の都合に付き合ってくれた。子どもの頃も、付き合ってからも、結婚してからも。
嫌な顔一つせず、まるで自分の意志でそこにいるかのように笑っていた。
だけど、日和はそれで良かったのだろうか?
俺の都合に合わせるだけの人生で、幸せだったのか?
もっと、自分の意思を貫いていたら、違った未来が待っていたのかもしれないのに。
日和の未来を知っているからこそ、こうして俺の都合に付き合わせてしまっていることに罪悪感を覚えた。
日和は雲一つない青空を見上げながら呟く。
「圭ちゃんは凄いよね」
それは純粋に何かを賞賛しているような言い方だった。
「何が凄いんだよ?」
そう尋ねると、日和は俺と視線を合わせた。
「好きなことがあって、それを続けられる勇気がある。私には無いものだから、羨ましいよ」
その言葉の真意が、俺には分らなかった。俺は凄くはない。ただ自分勝手に好きなことをやっているだけだ。謙遜などではなく、本心で否定した。
「俺は全然凄くないよ。俺なんかよりも日和の方がずっと凄い。学力は学年でもトップクラスだし、面倒ごとだって率先して引き受ける。そっちの方がよっぽど凄いだろう」
「私は言われたことをやっているだけだから。勉強だって、好きでやっているわけじゃないよ」
「そうだとしても、自分のやるべきことを理解して、ちゃんと実行するのは凄いことだろう」
賞賛したつもりだったが、日和は俯きがちに苦笑いを浮かべていた。
「私は圭ちゃんみたいに、夢中になれるものがないだけだよ。だから、やるべきことしかやっていないの」
そう話す日和は、どこか寂しそうだった。
夢中になれるものがない。日和からそんな言葉を聞いたのは初めてだった。
「でも、薬剤師になるって夢はあるだろう?」
そう尋ねると、日和は驚いたようにポカンと口を開いた。
「進路の話って、圭ちゃんにしたっけ?」
その言葉で、全身から汗が噴き出した。
しまった。この時代の俺は、日和の進路はまだ知らなかった。余計な発言をしたことを心底後悔した。
しかし日和は俺の失言を追求することなく、話を続けた。
「薬剤師を目指しているのだって、お母さんに言われたからだよ。女は一生稼げるスキルを身につけておいた方がいいって、散々言われていたから」
「そう、なんだ」
その話も初めて聞いた。
高校三年になってから、日和は隙間時間を見つけては参考書を開いていた。多分俺の倍は勉強していただろう。
その姿を見て、薬学部に入り、薬剤師になることが日和の夢なのだと納得した。そうでなければ、あれほどストイックに勉強を続けられないはずだ。
薬剤師になることは、日和が心から望んでいた夢ではない。それならば、どうしてあんなにも努力を続けられたのだろうか?
不思議に思う俺とは裏腹に、日和は曇り顔を振り払うように笑顔を作った。
「私は、圭ちゃんの夢を応援しているよ」
その言葉に嘘はないように思えた。
こんなに真っすぐ夢を応援してくれる人は他にいるだろうか? 俺は改めて、日和の純粋さを目の当たりにした。
*
日が落ちる前に、俺達はひまわり畑を後にした。
行きは汗だくになりながら登った坂だったけど、帰りはあっという間に駅まで辿り着いた。
電車に揺られてしばらく経った頃、日和は窓枠に頭を預けて居眠りをしていた。
日和の隣に腰掛ける朝陽も、日和の眠気につられたようにコクリコクリと頭を揺らしている。
日和の寝顔を盗み見ながら、俺は先ほどのやりとりを思い出した。
日和は、俺の夢を応援していると言っていた。それは上っ面の言葉ではないように思えた。
思い返せば、俺が小説を書き続けられたのは日和がいたからだ。
純粋に俺の小説を心待ちにしてくれた日和がいたから、書きたいという原動力が生まれたんだ。恐らく日和の存在がなければ、小説家を志すこともなかったはずだ。
ぼんやりと日和の寝顔を眺めていると、とある可能性が脳裏を過った。
俺が小説を書けなくなったのは、日和がいなくなったからではないか?
今までは、朝陽の世話に追われていたから書けなくなったのだと思い込んでいた。だから、朝陽さえ実家に預ければ、今まで通り書けるようになると思っていた。
だけど、本当にそうなのだろうか?
一人になった俺は、もう一度筆を取ることができるのだろうか? 誰からも賞賛されずに創作活動を続けるのは、気が遠くなるほどに孤独な道に感じた。
そういえば、以前朝陽が言っていた。未来の俺は、小説を書いていないと。それはつまり、孤独に耐えきれなかったということだろう。
日和のいない世界では、小説は書けない。
その仮説が正しいとするならば、俺は一生小説を書けないことになる。きっと日和が死んだのと同時に、俺の夢も消えてしまったのだろう。
心の底から望んでいた夢に執着がなくなるのは、とてつもなく切ない。
だけどほんの少し、重荷から解放された気分になった。
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