第2話、AIが50年前にあったなら
まず私のAIに対する認識と考えをお伝えしましょう。
反論はいくらでも受け付けます。というか多分、事実との間に結構認識の齟齬があるでしょうし。
説明に有利なので、とりあえず評論的に問いかけてみます。
もしもAIが50年前にあったら、果たしてどうなっていたのか。
皆さんはどう思いますか?
この質問だけなら、「無理」の一言で片付くでしょうね。
まずインターネットがないので、情報収集ができません。それ以前にコンピュータが無いor超低スペックですから、まともな分岐処理をまともな速度で出来たとも思えません。
では、一旦技術的問題の一切を無視して、文化的な背景だけを五十年前の昭和の世界に変えたとしたら、AIは今のような活用ができると思いますか?
私は「No」だと答えます。
より厳密に言えば、純粋な情報処理では多少役にも立つでしょうが、文化的なものや芸術的なものに関しては、役立たずになってしまうのではないかと思います。
もちろんそう考えるのには理由があります。
私が何よりも影響すると思っているのが、文化の幅広さです。
一旦故意に話を脱線させますが、
「新たなものを創造することができるのが人間の特権だ。」
と言う言葉を、皆さんも一度くらいは聞いたことがあるのでは無いでしょうか。
「だから単純作業や力仕事はすぐなくなる。芸術的で創作的な仕事(あとは人同士の対話が必要な仕事)こそが未来に残るのだ。」
そんな話を、私も義務教育で言われたような気がします。
しかし、今の世の中を見てみた時、果たしてどうなっているでしょうか。
土木作業員や工場の工員、事務員など、真っ先に無くなると言われていた仕事は、多少追いやられ始めているにせよ、まだ至って健在という印象を受けます。
片や、残ると言われていたハズの芸術的なもの、
映画監督、脚本家、作家、画家、イラストレーター、作曲家など、そう言った仕事は目に見えて追い立てられ始めているのです。
まるで先述のセリフと逆のことが起こっているように見えるでしょう。
しかし、私はこれは「新たなものを創造できるのは人間だけ」という言葉を考え直してみれば、何も矛盾はしていないのではないか、と思います。
ではどういうことかといえば、私は、これこそが「大量生産・大量消費」を続けた人類の代償なのでは無いかと思っています。
ただし、この大量〜というのは、工業製品に関して言っているわけではありません。
この消費されるもの、というのは「文化」のことです。
人間はあらゆる文化に流行りを作り、そしてすぐに飽きていくようになりました。とはいえこれは昭和の時代から始まったことで、ほんの最近の話というわけではありません。しかし、この数十年、下手すれば数年間で文化は飽き尽くされ、限界にたどり着いてしまったのだと思います。
この数年間の急激な加速の一番の要因になったのは、「インターネット」が発達したことです。
誰もが好きな時に好きなものを見られ、また個人が自由に物事を発信できる。
そんな文化の大きな枠が生まれてしまったのです。
各々が持っている考えや発想は、あらゆる形でインターネット上に表され、見る方もそれらから好きなものを選り好み、同じ形式の文化ではあっという間に飽きられてしまい、誰からも注目されなくなってくる。
だから新たな発想を生み出し、新たな形式の文化を作り、それを流行りに乗せ、またすぐに飽きられる。
よほど素晴らしいものであれば飽きられはすれど、その作家やアーティストはその後も長続きするでしょうが、その文化を誰かが模倣したところで、大抵の場合人気など碌に出ず、同じところでは次の発展は生まれなくなってしまい、さらに新たな文化を開拓しに行き、新天地で限られたアーティストたちだけがまた繁栄する。
こうしてインターネットは、新天地の開拓を推し進め、とうとう文化を行くところまで行かせてしまった。
ここから先に続くことは何か。流行りがなくなるわけではありません。
飽きることにすら飽きてしまった古い文化を引っ張り出して楽しんでみたり、新たに開拓された分野と既存の分野の中間にある、わずかな空き地を耕してそこで新たな文化を生産し流行りに乗せる。
そう、まさしく生産です。
拡大し切った文化の中でも、大量生産の文化によって飽きっぽい人類はまだ生きていけます。
これはこの二〇二三年時点でも、もう既に至った境地なのではないかというのが私の考えです。実際今「昭和文化」が掘り起こされているのは、それが既に通り過ぎたことも忘れた今の人々にとっては新しい文化であり、これは完全に新しいものが枯渇しつつある一つの根拠ともなります。
ここでAIの話に戻しましょう。
AIというのは、既にあるものを大量に学習して、それらを合成して作品などを産み出すものなわけです。
この合成というのは、言ってしまえば「足して二で割る」の進化版のようなものです。
暴力的に説明すると、AIというものは大量のデータを学習させられ、その中から適切なものを選んで足して二で割ります。
例えば現代の人類の文化の限界が一から百まであるとしましょう。
そして人類は既に十から九十まで開拓しているとします。
AIは十から九十の間の二つの数値を選び、足して二で割ります。
この時、絶対に十より小さな数値には行き着けないし、九十より大きな数にも行き着けません。逆に言うと、その中間の未開拓な地点には、割り算の繰り返しでいずれ辿り着けるわけです。
人類が五十から六十の文化までしか開拓していない時代なら、AIは五十から六十までの作品だけを作るしかなく、人間はその外の文化を開拓することが自由だったわけです。
それがAIが役立たずになる時代。
両端に近いところを開拓してしまった文化の現時点では、残りのわずかな余地を開拓することは容易ではなく、中間地点の開拓を頑張っていた所に、それを高速で行うことができるAIが出来てしまった。
結果論、人間の「創作性」がAIに負けたかのように見えてしまっているのが今の問題の原因、と言うのが私の個人的説です。
ちなみに、ここまでの説が通用するのは、全て既存トップダウン型AI(一対一対応の巨大な集積の擬似AI)に当てはめた場合だけです。
ボトムアップ型AI(本物の知性のあるガチ人工知能)が開発されたらそれすらもひっくり返るのでしょうね。
ああ恐ろしい。
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