第三十四話 制覇の余韻と、謎の声

(ま、まずい……)




 深い水の底へ沈んでいくかのような錯覚に囚われる。


 身体が重い。全身から、生気が抜けていくような感覚。


 もはや、指先を動かすことも敵わない。






 胡乱うろんな意識の中、「レベルアップしました! HP上限が上昇しました!」という音声が遠くで鳴っているのを感じる。




 レベルアップに伴い、HP上限が上がるシステムは当然のこと。その上で、このダンジョンには少し特殊なルールが存在する。


 それは、レベルアップ前にHPが八割以上あれば、レベルアップした際に上昇した体力上限までHPが上昇するというものだ。




 たとえば、レベルアップ直前のHPが900/1000であった場合、体力上限が1100になった際に、1100まで回復する。しかし、HPが700/1000であった場合、上限が1100になっても、体力は700のまま。




 これは、過酷なダンジョンシステムに埋め込まれた、唯一のサービスみたいなものだ。




 これまで、ジャイアント・ゴーレムを除いてマトモなダメージを受けていない僕にとっては、特に気にする余地もなかったが――




(今のHP上限は、6500から大きく上昇して8750。でも、実際のHPの方は168……!)




 しかも、出血やスキル反動臨界症によるスリップダメージが働いて、徐々にHPが減っている。


 身体も頭も回らない今、HP回復のポーションは取り出せない。




 完全に、死に神の鎌に掴まっている状態だ。




(ああ、僕の人生もこれでお終いか……情けないな)




 あまりに恥ずかしい幕切れで、自嘲じちょうの気持ちすら湧いてくる。


 勝って生きるとか息巻いといて、なんてザマだ。


 


(すまない、クレア……)




 もうほとんど保てない意識の中、薄らと生意気な少女の顔が浮かんで――遂に、僕の意識は虚無を湛えた闇の中へと――




(……っ!)




 埋没まいぼつする寸前、暖かさが身体を包み込んだ。


 それは、あのときナナミが与えてくれたものと似ている、命の鼓動を高める呼び水のように感じる。




 暖かさに誘われるようにして、僕の意識は覚醒した。




「……ん?」




 目を覚ますと、目の前にクレアの顔があった。




「クレア」


「よかったぁ……死んじゃうかと思って、怖かったよぉ」




 不意に、クレアの瞳からしずくがこぼれた。


 乾いた頬に落ちた雫を目で追って、僕は小さく息を吐いた。




「ごめん。また、助けられた」


「ううん。今回は私じゃない」


「え?」




 涙を拭いながら、クレアは首を横に振る。




「え? じゃあ誰が……」


「この子だよ」




 クレアは、側にいたとーめちゃんを両手で持ち上げる。


 とーめちゃんは、嬉しそうに瞳を細めて『もきゅっ』と笑った。




 思い出した。


 そういえばとーめちゃんは、《回復リカバリー》のスキルを持っていたんだった。




「そうか……ありがとう」




 起き上がり、とーめちゃんの頭に手を置く。


 心地よさそうにするとーめちゃんを見ていたクレアが、不意に頬を膨らました。




「どうした?」


「ねぇ。私も頑張ったんだから撫でてよ」


「え?」




 ぽかんと口を開ける僕の前で、ぐっと顔を突き出してくるクレア。


 


「頑張ったって、今回に至っては何もしてな……」




 言いかけて、口をつぐんだ。


 何もせずとも、彼女が信じてくれたから、迷いを振り切れたことを思い出す。




「……ああ、ありがとうね」




 僕は、ふっと微笑みかけて、クレアの頭を撫でた。


 


「ふっふっふ。あがたてまつってくれてもいいんだよ?」


「お前は何かの神様か」


「ダンジョンの女神様だよ♡」


「アホか」




 一笑に付し、立ち上がってズボンに付いた埃をはらった。




「とりあえず、ボスは倒したし……行こうか」


「行くって、どこへ?」


「決まってるだろう?」




 したり顔でそう言って、僕は上を見上げた。




第三迷宮サード・ダンジョン《トリアース》は攻略したんだ。もうこの場所に用はない。だから、地上へ戻ろう」


『そうだ。それでいい』


「っ!? 誰だ!」




 不意に、頭に直接声が響いて、思わず叫んだ。


 が、辺りを見まわしても人影はない。




「どうしたの? エランくん」


「いや、今なんか変な声が頭の中に響いてきたんだけど……」


「気のせいじゃない? 私には聞こえなかったし」


「そうかな」




 首を傾げつつ、声の正体を探る。


 だが、この場所に別の誰かがいる雰囲気はなかったし、その後も声が響くことはなかった。

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