猫は止まり木を離れ

煮込みメロン

猫は止まり木を離れ

 炎が迫る森の中を、私は一人さ迷い走っていた。

 涙が頬を伝い落ちるが気にしてなどいられず、自らに迫る危機から脱するためにひたすら走る。背後で聞こえていた村の皆の喧騒と悲鳴はもう聞こえない。

 荒く吐く呼吸の合間に草に隠れていた何かに足を取られ、体が前へ飛び出した。まずいと思った時には、既に斜面を転がるように落ちていた。

 背中を強かにぶつけ、息が詰まる。だんだんと視界が暗くなっていく。

 いつの間にか雨が降っていた。濡れた体は土草ではなく、硬い何か上に投げ出されていた。

 いつか見た王都の路地裏の様に視界が狭い。

 ふと、滲んだ視界にこちらに近づいてくる影が見えた。


「……たす……けて」


 影に向かって、手を伸ばす。

 相手が何であろうと構わない。次に目が覚めれば、この身は奴隷に落ちているかもしれない。

 それでも構わない。

 ただ、私は生きることを願った。


「たすけ……て」


 微睡む様に暗転する直前、耳に届いたのは私に応える言葉だった。


「うん、助けてあげる」


 冷えていく手に触れた暖かな温度を最後に、私の意識は暗転した。


◇◆   ◇◆    ◇◆


「おはよう、アンネちゃん。よく眠れた?」


 窓から差し込む日差しに瞼を刺激されつつ、落ち着いた静かな声が耳を刺激する。


「……おはようございます、涼音さ……お姉ちゃん……」


 もそもそ布団から上半身を起こして言葉を紡ぐと、涼音さんは不満げに寄せていた形の良い眉を戻して微笑んだ。

 それは私がこの部屋に居候することになってから、涼音さんとの日課のようになっていた。


「朝ごはん、何か食べたいものある?」


 肩まで飛ばされた黒く艶のある髪を揺らして、涼香さんが訊ねる。


「なんでもいいです」

「もう、それじゃ何作るか悩んじゃうじゃない」

「涼音おねえちゃんの作る料理、なんでもおいしいから好きに作っていい」


 目を幾度か瞬かせた後、涼香さんは腰を落として私の頬に手を伸ばした。

 頬に指先が触れる。


「ありがと、アンネちゃん」


 指が一本、頬から私の唇にかけて滑っていく。


「それじゃ、私も腕によりをかけて朝ごはん作っちゃうからね」


 それから直ぐにその場に立ち上がり、袖をまくるような仕草をしてみせた。


「アンネちゃんも、今のうちにシャワーでも浴びてきちゃいなさい。髪の毛が寝ぐせで大惨事になってるわよ」


 首をひとつ縦に振ると、彼女は部屋を出ていった。

 その姿を見送って、私は布団から立ち上がる。

 掛け布団が足元に落ち、下半身を隠す下着のみを身に着けた自身が壁に寄せられた姿見に映し出され、薄く起伏の乏しい身体を一瞥してからドアノブに手をかけ扉を開いた。


◇◆   ◇◆    ◇◆


 心地の良いお湯が髪と体を伝い足元へと流れ落ちる。

 ピンク色のシャンプーハットを被り、髪を洗う。

 泡が目に入らないから私のお気に入り。

 耳の後ろもしっかり丁寧に洗っていく。そうしないと涼音さんが不機嫌な顔をして私の耳を突いてくるから。

 そして身体も洗い終えたら湯船に肩まで浸る。


「にゅわー……」


 口から漏れ出た意味不明な言葉を無視して、涼音さんから教わった数字を数える。


「いーち、にー、さーん……」


 数えながら、頭を巡らせる。

 一ヶ月。

 それが私がこの地球と呼ばれる世界へと転がり落ちて、過ごしてきた時間だ。

 これまでの生活からは考えられないくらい平和な日々。

 偶然と奇跡によってもたらされたこの安らぎに、いるかもわからない神なんてものに感謝する。

 祈るなんて気はさらさら無いけれど。

 それから100まで数えたら湯船から立ち上がって、浴室の扉に手をかけた。


 準備されていた新しい下着とシャツを身に着けて、真新しいタオルで頭を拭きながら、リビングへと足を向けた。

 香るのは焼けたパンと卵の匂い。


「もう、ちゃんと乾かさなきゃダメじゃないアンネちゃん」


 私の姿を見つけると、台所からチェック柄のエプロンをした涼音さんがやってきて手を伸ばしてきた。

 そして私の持っていたバスタオルで水気を拭き取ってから、パタパタと足早に脱衣所からドライヤーを持って戻ってくる。


「ちゃんとお手入れしないと髪が痛んじゃうわ。せっかく綺麗な髪なんだから」


 ドライヤーの温風を当てて私の髪に櫛を入れていく。


「別にオシャレになんて興味ないし」

「ダメよ、女の子なんだから綺麗にしないと勿体ないわ」

「――涼音さんは、どうして私を拾ったんですか?」


 このアパートの傍の路地裏に倒れていた私を涼音さんが助けてくれたことは、私が目を覚ましたその日に聞いた。

 櫛を入れる涼音さんの手が止まる。


「涼音さんの住んでいるこの世界じゃ、私みたいなワーキャットなんていないんでしょう?」


私の住んでいた世界では私達のような異人は排斥の対象となっていた。

 村は焼かれ、魔獣のように扱われた。

 だから、私達亜人にとって異種族は分かり合う事なんてできない存在だった。


「アンネちゃんが可愛かったから」

「そんな言葉で誤魔化されるほど私、子供じゃないです」


 私の耳の縁を指先がなぞる。


「本当にそれだけだったんだけど、困ったわね」


 触れる指先がくすぐったくて、耳を伏せる。


「少なくとも私にとってはこうして意思の疎通ができて、触れ合うことができるんだもの。それならやっぱり、人間と変わらないわ。……はい、乾いたわ」


 ドライヤーのスイッチを切り、私の髪に櫛を入れながら涼音さんは頭の上にある耳に触れる。

 包むように、慈しむ様に。


「くすぐったい」

「あら、ごめんなさい。よく動く耳が可愛くて触り心地が良いから思わず」


 頭から手が離れた隙に私はその場を立ち上がる。

 それからリビングのテーブルに向かい、腰を下ろす。

 目の前は出来たばかりの朝食が並んでいる。

 私の対面に涼音さんが座った。


「それじゃ、食べましょうか」

「……いただきます」

「いただきます」


 パンを一口サイズにちぎって口に運ぶ。


「アンネちゃん」


 目玉焼きをフォークで切り分ける涼音さんと目が合った。


「今日、デートしようか」


 私の耳に届いた言葉に、思わず手が止まった。



 私のいた世界では見たことのないほどの高い建物に土の見えない、どこまでも舗装された道路。

 目の前を行き交う人の群れに、私は涼音さんの手を握る。


「ここにはアンネちゃんを害する存在なんていないんだよ」


 私の手を大きな手が包む。

 安心するような暖かな体温に、指を絡める。

 それから自身の耳を隠すために被った帽子を目深に被り直した。


「やっぱり、ヒュームは怖いです……」

「それじゃ、今日はこの近くにある私の知り合いのお店に行こうか」


 私の手を引いて、私の歩調に合わせて涼音さんが歩く。

 人が私の傍を通る度に涼音さんの手を握る。

 その都度、彼女は安心させるように握り返してくれた。


◇◆   ◇◆    ◇◆


 ビルとビルの隙間に建つお店の扉を開くと、扉の上部に下げられていたベルが小さく音色を奏でた。


「いらっしゃいませ。あら、涼音ちゃん」

「こんにちは、おばさま」


 椅子の並べられたカウンターテーブルと、窓際にテーブルが等間隔に並べられた小さな喫茶店。そのカウンターの奥に立っていた品の良さそうな妙齢の女性が、店に入ってきた涼音さんの顔を見て言葉をかけた。


「久しぶり、よく来たわね。座ってちょうだい」


 女性が目の前の椅子を薦める。

 私達が椅子に腰掛けると、女性の視線が私へと向けられた。


「初めまして、お嬢ちゃん。私は時江。この喫茶店の店主をしているわ。よろしくね」

「アンネ……」


 微笑みかける彼女に、私は小さく言葉を返した。


「アンネちゃんね。いい名前だわ。それで、今日の涼音ちゃんの用件はこのアンネちゃんのことかしら?」


 時江さんは涼音さんへ顔を向けた。


「そうなんですけど、今日はただのデートですよ。アンネちゃんにこのお店とおばさまを紹介したかったんです」

「あら、そうなの?」

「はい。アンネちゃん、帽子を取って見せて」

「え?」


 思わず、私は涼音さんへと顔を向ける。


「おばさまなら、アンネちゃんに怖いことなんてしないわ」


 カウンターの下で静かに私の手を撫でる手に触れる。

 それに少しだけ勇気を貰い、私は帽子を脱いだ。


「あら、あらあらまあ! 可愛らしい耳だこと。ワーキャットだなんて、随分と久しぶりに会ったわ」


 帽子の下にあった耳を目にして、時江さんは嬉しそうに手を合わせた。


「ほらね。おばさまなら大丈夫」


 時江さんの様子に涼音さんは小さく笑う。


「おばさまは、この地球とは別の世界。おばさまの言葉で言うのなら、迷い人と呼ばれる人達の手助けをしている人なのよ」

「そんな立派なものではないわよ。私は迷い人が助けを求めてきた時に憩いの場所を提供しているだけよ」


 私達の前にコーヒーカップを置きながら、時江さんが答える。


「あの、時江さんはいったい何者なんですか?」

「……アンネちゃんは、私が幾つに見えるかしら?」


 私の疑問に、彼女は自身を指して見せる。

 その質問の意図が解らず、少し首を傾げてから彼女の顔を眺めた。

 目元と口元にうっすらと刻まれた皺から、簡単に推測してみる。


「40歳くらいですか?」

「あらあら、まだ若く見られるようで嬉しいわ。これでも私、もう500歳を超えているのよ」

「ふうぇ!?」

「エルフという種族を知ってるかしら?」

「エルフ? 私達は森人と呼んでいる者達です。私は見たことはありませんが、耳が長くてとても長命な種族だとか」

「私は、そのエルフの母と人間の父の間に産まれたハーフなの。耳は人間のものと変わらないけれどね」


 そう言って見せた耳はヒュームのそれと変わらない。

 とても500年を生きている人物とは思えなかった。

 私の様子に時江さんは苦笑する。


「まあ、そんなことを急に言われても混乱するだけよね。とりあえず、あなたみたいな人達に詳しい人とだけ考えておけばいいわ。何かわからない事があったら私か涼音ちゃんを頼れば助けてあげる」


 彼女の言葉を聞きながら、私はミルクを足したコーヒーに口付け、苦みに顔を顰めシュガーポットから砂糖をスプーン四杯ほどを足してかき混ぜる。


「アンネちゃんには私がついているんですから、おばさまの出番なんてありませんよ」


 私の隣で涼音さんが涼し気な顔でコーヒーカップを傾ける。


「だけど、今日は紹介じゃなくてアンネちゃんの事について聞きに来たんでしょう?」

「……さすがおばさまですね」


 肩を竦める涼音さんに、私は時江さんへどういうことかと視線を向けた。


「伊達に長生きしていないもの。アンネちゃんについてだけれど、元の世界に戻すことはできるわ。」

「本当ですか?」

「ええ、本当よ。先ほど話があった通り、この世界には迷い人という違う世界から来た人達がいるの。そして公にはされていないけれど、私のような迷い人達を支援している人達が集まってできた団体も存在しているのよ。彼らは他世界との交流を目的としている組織なの。だからそこなら、アンネちゃんを元の世界へ戻すこともできるかもしれないわ」

「そう……ですか……」


 カップへ視線を落とす。


「……私、戻っても、もう帰るところはありません。村はヒュームに襲われて、全て失くしてしまいました」


 元の世界へ帰ったところで、村はヒュームに襲撃され、壊滅している。村の皆も、捕らえられたか殺されたか。いずれにしても再会することは難しいかもしれない。


「でも、帰れば家族に会えるかもしれない。だから、希望が残っているのなら、帰れるのなら、帰りたい。私は家族の無事を確かめたい。」

「……わかったわ。彼らと話をしておくわね」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 頭を下げた私に微笑みを向け、彼女は小さく頷く。


「近いうちに彼らから接触があるはずだから、詳しい話はその時に聞くといいわ」

「おばさま、ありがとうございます。お礼はまた後日」


 時江さんに頭を下げてから、少しだけ寂しそうな顔で涼音さんはコーヒーカップを静かに傾けた。


◇◆   ◇◆    ◇◆


 髪から水滴が滴り落ち、湯船のお湯に波紋を作る。

 時江さんのお店から帰るなり、笑顔で私を剥いた涼音さん共々揃ってお風呂に入り、丸洗いされた。

 揺れる波に視線を落としながら、後ろから私を抱き抱える涼音さんに問いかけた。


「……涼音お姉ちゃんは、私がいなくなるのはいやですか?」

「いやよ。本当はアンネちゃんにいてほしいって思ってる」


 私を捕らえる腕に少しだけ力が入り、肩に涼音さんの額が乗せられる。

 その頭に手をあて、黒い髪を撫でる。


「涼音さんは何でそんなに私に入れ込むんですか?」

「アンネちゃんが私に助けを求めたから。伸ばされた手を振り払うなんてこと、私にはできないわ。それに、言ったでしょう。アンネちゃんが可愛かったからだって」

「私、涼音さんに何も返せません」

「一目惚れだったのよ。別に何かを求めているわけじゃないもの。私のただの独善と我儘なの。私はアンネちゃんと一緒にいられたらそれでいいんだから」


 私は涼音さんに向き直ると、彼女の額に唇を寄せた。


「ありがとう、涼音おねえちゃん。今の私にはこのくらいしかできないから」


 額を抑えて驚いた表情の涼音さんに笑みを向ける。

 私を拾ってくれたのが、涼音さんでよかった。


◇◆   ◇◆    ◇◆


 赤い顔をして鼻息荒い涼音さんに押し切られて一緒の布団で寝た翌日。涼音さんはお仕事に行ってくると言って慌ただしく出かける準備をしていた。

 聞けばどうやら私を拾った日からお仕事をお休みしていたとのこと。

 時江さんの紹介で始めたお仕事とのことで、聞いたところ探偵の助手をしているらしい。

 私を拾った時にお休みを取っていたらしいけれど、上司であるその探偵さんに人手が足らなくて戻ってくるように呼ばれたのだそう。


「今日は好きに過ごしていていいよ。誰か訪ねて来ても出なくていいからね。何か困ったことがあったらすぐに私か時江さんに連絡してね。電話の仕方解る?」

「うん、時江さんに電話番号貰ってるし、電話機の使い方も解ってるから大丈夫。心配しないで。行ってらっしゃい」

「うん、行ってきます。絶対早く帰ってくるからね」


 名残惜しそうな表情のまま涼音さんが玄関の扉を閉めると、途端に静かになる。

ぐるりと見渡せば、朝食の食器がテーブルに残されたままになっている。

まずは片付けから始めようか、と私は袖を捲った。

 蛇口のコックを捻る。水が流れる。

 スポンジに洗剤を付けてお皿とフォークの汚れを落とし、洗い終わったら布巾で拭いて棚に戻す。

 それが終わったら今度は室内に脱ぎ散らかされた下着と寝間着を拾い上げる。

 涼音さんは真面目で几帳面そうな見た目に反して、朝は結構だらしがなかったりする。

 私より遅く起きてきた日は下着姿で家中を歩き回り、寝間着を脱いだらそのまま放り出したままでいることも珍しくなかった。

 そんな姿を見る度に姉を思い出して私は呆れつつ世話を焼く。

 拾い上げた涼音さんの香りが残るそれを洗濯機に入れる。洗剤を入れて蓋を閉める。

 スイッチを入れて動き出すのを見届けてからリビングに向かう。

 ソファに座り、サイドテーブルに置かれた絵本を手に取る。

 この世界の言葉を覚えるために涼音さんに何度も読み聞かせてもらった絵本だ。

 この世界の桃と呼ばれる果物から生まれた戦士が辺境に住むオーガの頭目を討伐に向かうというお話だ。涼音さんの読み聞かせで覚えた内容を思い出しながら絵本を開く。


「むかしむかし……」


 窓からの差し込む日差しの温かさを感じながら絵本を読み進めた。


 洗濯機の選択の終わった電子音が耳に入って、絵本を読みふけっていたふと我に返った。

 パタリと絵本を閉じて再びサイドテーブルに戻して、洗濯物を取りに行くためにソファを立った。

 そして、洗濯物を干し終わったらまたソファに座って絵本を読みふける。

 そんなことをしている内に太陽が中天を過ぎた頃、家のチャイムが鳴った。

 この世界に私に関わるものはほとんどいない。訪ねてくるのは十中八九涼音さんに要件のある者だろう。

 少しの間、無視するべきかと考える。

 もう一度チャイムが鳴った。

 そこで意を決して、私はインターホンの受話器を手に取った。


「……はい」

『時江様からお話を頂きまいりました。トゥリアと申します。アンネ様はご在宅でしょうか?』


 受話器からはくぐもった女性の声が聞こえた。


「はい、アンネは私ですが」

『あなたがアンネ様ですね。例の件についてお話をさせていただけませんでしょうか』

「……今開けますから、待ってください」


 どうやら時江さんの話にあった組織の人らしい。

 インターホンの受話器を戻して、玄関扉の鍵を開けた。

 扉を開けると、そこに立っていたのはパンツスタイルのレディーススーツを着こなした女性だった。

 背丈は涼音さんより頭一つ高いくらいだろう。


「アンネ様ですね。伺っていた通り、可愛らしいお嬢さんですね。入ってもよろしいでしょうか?」


 長い蜂蜜色の髪を揺らして、女性は柔らかく微笑んで見せた。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 彼女——トゥリアさんへお茶を差し出し、私は彼女の対面に腰掛けた。


「まずは突然の訪問、申し訳ございません。現在の状況から、早急にあなたにお話をする必要があると判断いたしましたので、こうして参った次第です」


 そう言って、彼女は頭を下げた。


「改めて自己紹介をいたしましょう。私はトゥリア。この地球において、異世界からの異人——来訪者と我々は呼んでおりますが、その来訪者を保護、支援を目的とした組織、異界共生機構のメンバーとして働いております。そして、私もあなたと同じ異世界の住人です」


 スーツの袖を捲って見せた彼女の腕は、トカゲのような鱗で覆われ、明らかにこの世界の人間とは異なった肌をしていた。


「私は種族はリザードマンでして、この体の鱗以外はほぼ人間と変わらない外見をしているので、こうして外に出て異邦人やその関係者の方々との話し合いに出向くことが多いのです」

「リザードマン……確か沼地に住んでいる方々だって聞いたことがあります……。直接会ったことはありませんでしたが」

「確かに、私達リザードマンの生息圏は沼地が主でした。リザードマンとワーキャットは交流が無かったはずですが、よくご存じですね」

「村に出入りしていた商人に話を聞いたことがあったので」


 私達の住んでいた村に定期的に商売に来ていたハーフリングの商人から村の外の話を聞いたことがあった。村から出たことが無かった私にとって、外の世界の話はとても新鮮で興味を引くものばかりだった。


「ハーフリングの商人とは懐かしい。私がこの世界に迷い込んでからは出会うこと無かった者達です」

「……トゥリアさんは元の世界に帰ろうとは思わないんですか?」

「……私は天涯孤独でしたから。孤児であった私にとって、あの世界は私にとって帰りたいと思える場所ではなかったのです。今ではこの世界が私のいるべき場所であり、故郷なのです」


 そう言って薄く笑む彼女は、湯呑に口付けると私に再び視線を向ける。


「アンネ様はご自身の意思で、元の世界に戻ろうとされています。ですから、私達異界共生機構はアンネ様を無事帰還できるようサポートいたします」


 トゥリアさんはそこでいったん言葉を区切り、再度口を開いた。


「次のアンネ様が帰還できる機会が訪れるのは今から丁度二日後の夜となります」


 それはあまりにも短い別れの宣告だった。


◇◆   ◇◆    ◇◆


「ただいま、アンネちゃん」

「おかえりなさい、涼音お姉ちゃん」


 仕事から帰ってきて、靴を脱いだ涼音さんを玄関先で迎えて私は言葉を返した。


「どうかしたの?」


 私の姿に小首を傾げて問いかけてくる。

 そんな涼音さんを私は無言で抱きしめた。


「ど、どうしたのアンネちゃん?」

「ちょっとだけ、こうさせて……」


 涼音さんは戸惑いつつも私の頭に手を置いて髪を梳く。

 その手付きに身を任せる。


「……私、二日後には帰れるんだって……」


 私の言葉に涼音さんの手が止まる。


「今日、時江さんが言っていた組織の人が来てそう説明したの」

「……そっか、寂しくなっちゃうな」


 優しい腕が私の身体を包む。


「涼音お姉ちゃんも寂しいの?」

「それは当然よ。でも、アンネちゃんが自分で決めたことだもの」


 見上げれば、小さく揺れる瞳が私を見ている。


「アンネちゃんが帰るまで、私は一緒にいるよ」

「うん……うん……ありがとう、涼音お姉ちゃん」


 私を先締める手に私の手を重ねて、何度も頷く。

 涼音さんの温かさを感じながら、笑みを向ける。


「それじゃあ、晩御飯作っちゃいましょうか。今日はアンネちゃんの好きなものにしちゃうよ」

「そしたら、ハンバーグがいいです」

「うん、とびっきり美味しいの作るからね」


 私の言葉に涼音さんの温もりが離れる。

 思わずその袖を掴まえそうになった手を下ろす。

 そして、下ろした手を涼音さんが掴まえた。


「一緒に作ろうか、アンネちゃん」

「はい……」


 頷いた私に、彼女は優しく微笑んだ。


◇◆   ◇◆    ◇◆


「写真、ですか?」

「そう、アンネちゃんと撮ったこと無かったなって思って」


 翌朝、上司から無理やり二日間の休みをもぎ取ったと、鼻息を荒くしていた涼音さんは、ソファに座って荷物の整理をしていた私に写真を撮りたい、と言葉を投げた。

 聞けばその写真というものは、その瞬間を切り取って絵とする代物だとか。

 私の世界にも魔王が治めているという国に瞬時に本物と寸分違わない絵を完成させる技術があるとは村の出入りの商人から聞いたことはあった。もっとも、知識としては知っていても見た事は無かったけれど。


「アンネちゃん、撮るよ」


 涼音さんが私に携帯電話を向ける。

 パシャリと音が鳴る。


「ほら、こんな感じ」


 そう言って彼女が見せてきたそこには、白い髪のワーキャットが映っていた。

 小さな画面に、間の抜けた顔をした私がいる。


「今日はアンネちゃんの可愛いところ、いっぱい写真に収めるよ」


 嬉しそうに携帯電話を向ける涼音さん。

 私が何かをする度に彼女は私の姿を映していく。


「私だけそんなに撮っていて面白いですか?」


 既に幾度目かわからない回数を撮り続ける涼音さんに声を掛ける。


「うん、こうして写真を撮っておけば、思い出に残せるから。幾つもこうして残しておくの」


 画面を操作して満足そうに頷く姿に、私は開いていた本を閉じた。


「私ばっかりじゃなくて、涼音お姉ちゃんも一緒に撮りましょう」


 私に向けられる携帯電話を奪い取り、それを涼音さんに向ける。

 画面にはちょっと驚いた表情をしている涼音さんの姿。

 画面を指先で突っつくと、パシャリと小さな音が響いた。


「ふふ、涼音お姉ちゃん変な顔してる」

「それじゃあ、アンネちゃんと二人で撮りましょう」

「え、そしたら誰が撮るんですか?」

「ふっふっふ、それは問題無く撮れる方法があるんだよ」


 首を傾げた私に、涼音さんは携帯電話を受け取って楽しそうに笑う。

 それから私達は、この日は日が暮れるまで写真を撮って遊んだ。


◇◆   ◇◆    ◇◆


「私、涼音お姉ちゃんに本当に感謝してます」


 最後の夜。私は涼音さんの布団に潜り込んでいる。


「私はアンネちゃんに一目ぼれしただけだもの。感謝なんてしなくてもいいのよ。アンネちゃんの弱みに付け込んで私が好き勝手しただけだもの」


 電気の消えた窓から月明かりの差し込む薄暗い部屋の中で、隣で寝転がる私の頭を撫でながら、涼音さんが答える。

 髪を梳く手が心地よくて、目を細める。


「でも、何も分からなかった私を騙すことなく、助けてくれました。それこそ無理やり私を手籠めにすることだって出来たのに、そんな事全くしませんでしたから」

「手籠めって」

「私のいた世界では、村を追われヒュームに捕まった亜人の末路は奴隷と決まっていましたから。奴隷の行く末なんて碌なものじゃありません」


 娼館に売られてそこで一生を過ごすなんて話も聞いた。


「私はそんなつもりなんて無かったよ」

「そうですね。ごめんなさい」


 むくれたように頬を膨らます涼音さんに、謝罪する。


「だけど、ここまで良くしてくれた涼音お姉ちゃんに、私は何も返せるものがありません。何の恩も返せず帰るなんて」

「気にしなくていいわよ。私はアンネちゃんと過ごせて満足しているもの」

「でも……んむ」


 私の唇に人差し指を押し付け、涼音さんは言葉を遮った。


「昨日言ったでしょう。それはアンネちゃんが決めたことだもの。私はただそれを見送るだけよ」


 そう言って寂しそうに微笑む彼女の姿に、私はその顔に頬を摺り寄せる。


「本当に、これまでありがとうございました」


 涼音さんの唇の隣に唇を寄せた。

 ただ触れるだけのキス。何もない私からはこれ以上に返せるものは無いから。

 驚いた顔と、呆けた顔を織り交ぜた涼音さんの表情に満足して、私は瞼を閉じた。


「最後くらいは私に好きに手を出してもいいですよ」


 耳元で小さく囁いて、そして私はそのまま意識を手放した。


◇◆   ◇◆    ◇◆


 結局何もなかった翌朝、私はいつも通り起きて、いつも通りへたれた涼音さんと食事を済ませる。

 そして、少なかった荷物をまとめて組織の人達が来るのを待った。


「お待たせいたしました、アンネ様。帰還の用意が出来ました」


 初めて来た時と変わらないスーツ姿で私達の元を訪れたトゥリアさんはそう告げた。


「涼音様。貴女の事も時江様から伺っております。どうぞ我々とご同行ください」


 荷物を持ち、トゥリアさんに連れられ、出向いた先は私が初めてこの地球へとやって来た時に倒れていた裏通りだった。


「ここがアンネ様がこちらへとやってこられた起点となります。そして、アンネ様を安全に還すための道を通すためにはこの場所の綻びを利用する必要があります。私は少々準備をいたします。涼音様と最後に話をされてはいかがですか?」


 そう言うと、トゥリアさんは金属の箱を地面に置き、何やら操作を始めた。

 振り向けば、少し離れた位置に涼音さんが立っている。

 涼音さんに近寄り、見上げる。

 なんて言葉を掛ければいいかわからない。


「アンネちゃん、向こうに還っても元気でいてね」


 腰を屈め、私の頬を撫でる涼音さんが告げた。

 その瞳からは涙が一つ零れ落ちる。


「私、家族と再会出来たらまた涼音さんに会いに来ます。どれだけ時間が掛かっても、絶対会いに戻ってきます。だから——」


 淡く儚い希望を私が言葉にすると、涼音さんは静かな笑みを向け、ゆっくりと頬を撫でた。

私は頬を撫でる手に触れ、掌に唇を寄せる。


「……アンネ様、準備が完了いたしました」


 平淡なトゥリアさんの声に、惜しむ様に指先が私から離れる。

 視線がその軌跡を追いかけようとするのをぐっとこらえ、


「こちらへ」


 促されるまま、円形に並べられた機械の中心へ立つ。

 そして、トゥリアさんが手元の機械を操作する。

 途端、空間から滲む様に霧がかかり始め、瞬く間に視界を覆い尽くした。


「アンネ様、どうか貴女の選択に光が満ちることを」


 トゥリアさんの祈るような言葉を最後に、私の視界は暗転した。


 気が付けば、私は村の傍の森の中に立っていた。

 静まり返った見慣れた森。

 先ほどまでの出来事がまるで白昼夢だったように、私はあっけなく戻ってきていた。

 けれど、それが夢などでは無かったことはいつの間にか荷物の中に紛れ込んでいた、私と涼音さんの姿が映るプリントされた写真。

 ずっと私と一緒にいてくれた涼音さんがそこにいる。

 自然と溢れる涙を袖で拭いながら、家族を見つけ出すための足掛かりとして、私は記憶を頼りにここから最も近いワーキャットの村を目指して一歩を踏み出した。


◇◆   ◇◆    ◇◆


 それからずっと、私は焦がれていた想いだけを頼りに、前を向いて進み続けてきた。

 奴隷として売られていた家族と再会し共に戦った。ヒュームの国である帝国との休戦協定を結ぶ切っ掛けとなった、解放戦役と呼ばれる大きな戦争を戦い抜いた。幾度も季節が過ぎ去り、私達の住んでいた国が共和国と呼ばれるようになった頃。

 共和国騎士として働く私の元に、探し続けていた異世界への扉が発見されたと知らせが入った。

 一軍を預かる私が行くことを良しとしない周りの反対を押し退け、異世界との交渉のための第一次派遣員に立候補した。

 僅かな休憩の合間を縫って、色褪せることの無いかつての記憶を頼りに見つけ出した建物。

そして今、目の前に一人のヒュームが私に背を向けて、そわそわと誰かを探すように立っている。

 その手には、先にカフェの店長経由で彼女に宛てて届けてもらっていた手紙が握られていた。


「誰かをお待ちですか?」


 私の言葉に小さく肩を震わせ、女性は振り返り僅かに目を見開いた。

 それから眩しそうに目を細めて、柔らかく笑みを向ける。


「はい。でも、今会えました」


 かつてと違って、彼女が見上げるようになってしまったけれど、その姿はどれだけ時が経とうとも見間違えようは無かった。

 抱きしめた腕の中で、彼女もまた背中を撫でるように腕を回す。

 頬をすり合わせ、懐かしさと愛おしさに涙が零れ落ちた。

 今はただこの暖かさを感じていたかった。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 あなたに会いに来ました。


END

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