第3話

 雨宮美月は考え込んでいた。


 複素数平面の三角関数の話など、全く聞いていなかった。シャーペンを右手に握りながら、頭をフル回転させる。


 彗君とあの女を別れさせるという一番簡単なミッションは完了した。つつがなく終了させることが出来たが、完璧ではなかった。


 このミッションを遂行させるにあたって、私は少し焦りすぎたかもしれない。


 彗君とあの女を一日でも早く引き離すことに囚われすぎていた。私はきちんと彗君の前で笑顔を作れていただろうか。


 自然で、明るくて、優しい笑顔を。


 二人が事実上の交際を続けている限り、あの女とあいつに復讐をすることは難しくなる。


 先に不貞を行ったのはあちら側とはいえ、この状態で彗君が復讐を始めれば、彗君の信用を犯しかねない。なぜなら、二人はまだ事実上とはいえ、交際している状態だからだ。


 最近慧君が変わり始めていることに、私は気づいていた。


 怒りと苛立ちと、悲しみに支配された表情を浮かべていた彼が、最近はふっきれたように明るい顔をするようになっている。それはそれでうれしいことだが、私は彼の中の憎悪が消えてしまっていることに焦っていた。


 突然だが、私の中で、人間の優先順位はこんな風になっている。


1.慧君

2.私

3.パパ


 私の世界に、慧君とパパ以外は必要ない。慧君さえいればいい。慧君を私のものにしたい。独占欲は強いほうだ。それは、自覚している。


 だからこそ、慧君には尽きることのない怒りを抱えていてほしいのだ。


 あの女への憎しみを募らせている限りは、彼が私のそばから離れることはない。彼一人でできることは限られているのだから。私の手の中で、いつまでも小さくか弱い存在でいればいい。


――ばいばい、慧君。


 そういって、さっそうと去っていったあの女の声がよみがえる。


 私はノートに強くシャーペンを押し付けた。ぽきりと芯が折れる。消しゴムで思いきりこすると、ノートにぐしゃりと皺が寄った。


 ああ、だめ。落ち着いて。私は深く深呼吸をする。


「雨宮さん」


 先生の声がして、私は顔を上げた。にっこりと笑顔を作り、優等生ぶって背筋を伸ばす。


「これ、わかる?」


 先生が黒板に描いたグラフを指さした。


 私は浅く息を吸う。この問題なら、一週間前に予習を済ませている。唇を湿し、ゆっくりと口を開いた。


――ねえ、慧君。


 心の中で呼びかける。


――私から、離れないでね?

 

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