月影

第1話

 藍沢君は、気づいていただろうか。


 彼の唇に、頬に、ゆがんだ笑いがこびりついていたことを。


 あの表情を、私はよく知っている。


 欲望と、憎悪に支配された時の顔だ。人はみなそれらに取りつかれたとき、そうして笑う。私だって例外ではない。



 月明かりが私を照らしている。


 透明で、冷たくて、鋭い光が私を照らしている。私は月が嫌いだ。女性の象徴、母の象徴、愛の象徴。そして、美月の「月」、月島の「月」


 月の女神セレネの黄金の瞳が、カーテンを透かして私の部屋に忍び込んできた。



「ふふ」


 私は冷たいベッドの上で、うーんと体を伸ばす。


「あはは」


 笑いが止まらなかった。


 あの女はなんて馬鹿なのだろう。藍沢君のようなすてきな男を捨てて、あんな男に乗り換えるなんて。


 月島玲央つきしまれお


 私の義理の兄。両親が離婚し、その再婚相手の子供がアイツだった。見るからに、粗野で乱暴で、礼儀のれの字も知らない男だと思った。実際、その通りだったのだが。


 親が再婚したからと言って、苗字を変える筋合いはない。本当のお父さん。パパとの思い出が詰まった苗字だから。雨宮という響きが好きだ。母親がつけた、美月という名前は大嫌いだけれど。




「よかったですね、藍沢君」


 私という人間は、絶対に役に立つ。




 私と藍沢君の出会いは、高校一年の春だった。


 藍沢君にとっては、何でもないことだったに違いない。けれど、初めて人を好きになるという体験は、あの気持ちは、私の人生を変えるくらいの出来事だった。


 満員電車の中。


 ふいにうなじに熱い息がかかった。悪寒が走り、場所を移動しようとしたその時だった。スカートの中に、硬くて大きな手が滑り込んできたのは。


 声すら上げられなかった。動くことも、泣くこともできず、ただそこに棒立ちになっていた。臀部を揉まれているというのに、誰も気づいてくれない。助けてくれない。


 そんな私を助けてくれたのは、ただ一人、藍沢慧君だけだった。


「痴漢です!」


 藍沢君が男の手をひねり上げていた。私は顔を見られたくなくて、お礼も言わずに後方車両に逃げ込んでしまった。とても後悔した。


 そして、彼が同じ学校に通っていることを知り、声を聴くうちに、いつしか私は藍沢君を好きになっていた。


 だから、藍沢君が三組の女と交際しているという話を聞いた時も、素直にあきらめようと思えた。彼が選んだ人なら間違いない。素直に応援しようと思っていたのに。


 あの女を、私は絶対に許さない。


 藍沢君に、あんな顔をさせたあの女を、そしてアイツを、私は絶対に許してなどやらない。


 これは、藍沢君の復讐であり、そして私の復讐なのだ。


 アイツが帰ってきた様子はない。


 一体どこで何をしているのだろう。


 交通事故にでもあって、もしくは誰かに殺されていればいいと思う。


 月島玲央。


 あんたに、生きてる価値なんてないよ。



 


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