031.掃除されない部屋

「来ま……せんね……」

「そうですね~」


 ダラダラと。二人の少女の声が小さな部屋に響いてく。

 きっと現実ではポチャリと蛇口から漏れる音しか聞こえないだろう。しかし一つ次元を移し替えると二つの魂がボーっと喋っていてそこに何者かが居ることを実感させた。

 ここは俺が生きてた時の家。いや、今も一応生きているわけだから現在進行形にするべきだろうか。危うく家であると同時に没地になりかけたこの部屋で、俺たちは唯一の住人である"あの人"を待っていた。

 俺の父親となる"あの人"。個人的に殴られまくっていて父親と認めたくないからそう呼んでいるだけで、実の父親で間違いない。


 神様の命により"あの人"の様子を見に来たわけだが……一向にその姿を現す気配が見えない。

 来た時には締め切られっぱなしのカーテンから光が漏れていたのに、今はもう鳴りを潜めて「ジー」と春の虫の音が聞こえてきている。

 わざわざ頭を突っ込んで通り抜けなくても分かる。もうすっかり暗くなった夜なのだろう。チラリと見た腕時計には短針が10を指している。青少年なら補導される時間帯だ。


 もうすっかり夜。しかし目的は未だ達成していない。

 ともにやってきた二人の少女もすっかり退屈の極みだ。瑠海さんはペタンと割座しながら大人しく辺りを見渡し、蒼月にいたっては仰向けに寝転がりながら創り出したお手玉を宙に放って遊んでいる。

 つまりはみんな暇というわけだ。昼に来て夜まで音沙汰ないのだから当然そうもなろう。


 もちろん俺も来た時には張り詰めまくっていた緊張感が消え去るほど暇だ。暇つぶしも兼ねて今一度辺りを見渡す。

 隙間風も雨漏りもするボロアパート。倒れる前と殆ど変わらずドンヨリとした薄暗い雰囲気が辺りを包み込んでいる。

 隅にはカビさえも生えていてキッチン近くにあるゴミ袋からは虫が見えている。きっとこの部屋からは掃除という言葉が消え去ってしまったのだろう。ただ積み上がっているゴミを見て目覚めてからの片付けに恐怖さえ覚えてしまう。

 ちなみに俺たちが固まっている場所は、かつて寝ていた布団である。使われなさすぎてすっかりみすぼらしくなっているが、魂のみの存在である俺たちに不都合はない。虫もカビも雨も、全てにおいて次元が違うのだから気にする必要がないのだ。そういう点では肉体がなくてよかったなと思う。


 そんな誰しもが暇だ退屈だと緊張の"き"の字さえも失われかけたその時、瑠海さんが何かに気がついたような声を上げる。


「…………あれ?」

「ん~?どうしたんですか?」

「いえ、あそこ……なんだか雰囲気が他と違うような……」


 そう言っておもむろに立ち上がってから向かうのは玄関方向。蒼月も何事かと身体を起こして彼女の動きを目で追っていく。

 なんだろ?その辺に変なものでも置いてあったっけな……。


「やっぱり……。見てください!この隅です!」

「なになに?何か面白いものでも…………これって――」

「……はい。これは明らかに血です」


 先行した瑠海さんとそれを追いかけた蒼月に続いて俺もたどり着く。


 そう言って示した先は扉の直ぐ側にできたデッドスペース。

 靴を置くにも絶妙に狭く、せいぜい傘を立てる程度にしか使ってこなかった隙間だった。

 今はなにも置かれていないそこには、何かスープやカレーでもぶち撒けたかのようなシミが新たに出来上がっていた。

 しかしどうも料理という雰囲気ではない。水分が蒸発したことでパリパリになったそこは赤黒く随分と生々しい跡へと変貌していた。

 瑠海さんの予想通り、これは明らかに血痕。そして同時に思い出す。確か俺が倒れた原因って――――


「この跡、もしかして煌司さんのお父様のものでは……!?だったら帰りが遅い理由に説明も……!」

「えっと瑠海さん、これはですね……」

「"あの人"じゃなくて俺の血痕だから大丈夫だぞ」

「煌司さんの!?」


 蒼月の言葉を遮るように俺が血痕の真実を告げると、慌てていた瑠海さんは目を丸くして驚く。

 そっか、瑠海さんには過去の話はしても俺が倒れた経緯について説明してなかったっけ。どうせ蒼月はマヤに聞いたとかだろう。


 自分で言っておいてなんだが、何が大丈夫なのだろうか。

 そう苦笑しながらしゃがんで血痕を観察すると、まさに血溜まりと呼ぶに相応しい赤黒とした跡がそこにあった。

 うん、やっぱり場所とか考えると、ここに血溜まりができたのは俺で間違いないだろう。しかし随分と流したもんだ。これでまだ生きてるってなかなかの奇跡……だからこそ死の一歩手前となるあの世界にたどり着いたのか。


 そしてなんとなく分かる。おそらく怪我したのは側頭部だ。血を見てると随分と疼く。

 他人も自分も、こういうものを見てあまり気分のいいものではない。目を閉じて現場から距離を取ろうとすると、不意に俺が手を添えていた側頭部へ何者かの手が重ねられた。

 暖かなぬくもりを感じる手のひら。まるで魔法のように疼きが緩和されていく。

 一体誰がそんな魔法を使っているのか。そう思って瞼を開けると心配そうにしている瑠海さんが目に入る。


「煌司さんが負われた傷だったんですね……すごく……痛かったでしょう……」


 疼きを治すぬくもり。それは魔法かと思ったがなんてことなかった。

 その正体は彼女の心遣い。彼女の優しさが、感じるはずのない感覚に暖かさをもたらしていたのだ。

 その事に気づいた時にはもう疼きなんて全く感じられない。ただ真正面に立つ瑠海さんの瞳だけに吸い込まれていく。


「そ、そんなことない。痛み感じる暇なんてなくあの世界に言ったんだから」

「きっとそうだと思います。私も痛みなく死んじゃいましたから。でもこの部屋の環境に未だ残る血溜まり……煌司さんは頭の痛み以上にずっと辛い思いしてきたんですね……」

「そんな事……ないよ……」


 喉元過ぎれば熱さを忘れる。

 もうすっかり過去のように思えるような、この部屋での出来事。しかし一方で鮮明に思い出すこともできる。

 殴られた記憶。一人泣いた記憶。自身の無力さに打ちのめされた記憶。痛みは喉元を過ぎ去ってすっかり忘れてしまったが、失意や後悔は未だその時そのままに思い出せる。

 きっと彼女はその事を指して言っているのだろう。俺は心の奥底を言い当てられてつい向けられる瞳から視線を外す。


「よしよし、です」

「――――!!」


 しかし彼女から目を逸らした途端、側頭部に触れていた手がいつの間にか頭頂部に乗せられていた。

 それはいつかの蒼月を彷彿とさせる優しげな言い方。驚いて目を見開くと彼女は笑顔で俺を撫でていた。


「瑠海……さん?」

「煌司さんが不安そうにしてらしたので。迷惑でしたか?」

「それは……」

「ふふっ、問題なさそうですね。でしたらこのままジッとしていてください」


 年上の女性の優しい包容力。

 俺にとって新鮮な感覚だった。いつかの母親を彷彿とさせるような、それでいて全く違うような不思議な感覚。

 けれど決して嫌なものではない。俺は彼女にされるがままで、大人しく撫でられている頭を差し出して――――


「―――問題、大アリだよ~!」

「!!」


 まさしくそれは誘惑されるような雰囲気を打破する一言だった。

 きっと、ずっと俺たちの様子を見ていたのだろう。しかし我慢できなくなった蒼月から怒りの声が突然上がる。


「蒼月……?」

「問題大アリだよ煌司君に瑠海さんっ!ナデナデは私と煌司君の専売特許なの!!」

「いや、そんな専売聞いたことが…………」

「そうなのっ!!」

「…………」


 有無を言わさぬ迫力。

 圧は一切感じないのに、それを否定することを何故か憚られた。

 まるで彼女の主張に心の何処かで同意しているような、妙な感じ。俺にとってナデナデの専売特許は二人ではなく、思い出せない妹が対象となるはずなんだけどな……。


 瑠海さんに抵抗するためかおんぶの形で背中に飛び乗ってきている蒼月。妙に運動神経いいなコイツ。

 肩から出ている顔が明らかに瑠海さんを威嚇していて俺は一つため息をつく。


「はぁ……。蒼月、わかったから元の場所に戻るぞ」

「分かった!向こうでナデナデすれば良いんだね!」

「しなくていい。瑠海さんも、そんな変なモノ見てたら嫌な気分になる。あっち行こう」

「そうですね。わかりました」


 完全に引きずる形で首に巻き付いている蒼月を伴って元の場所へ戻っていく。

 チラリと後ろを振り返れば三歩後ろを歩く瑠海さんと、その後方の血溜まり。


 実の息子が怪我したんだし、血くらい掃除してくれたって良いのにな……。

 俺はそれ以上の感想を抱くことなく、未だ帰ってこない"あの人"へ悪態をつくのであった。

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